以下の内容はhttps://bounoplagia.hatenablog.com/より取得しました。


夏は

夏はいま、どこにいるのか
もういなくなってしまったのか
まだどこかに隠れているのか

ツクツクホウシの声を今年初めて聞いたのはいつのことだったか。 去年よりは早かったと記憶しているけれど、何月何日だったかは忘れてしまった。 記録しようとして忘れていた。 去年は8月30日だった。 それよりも早く、また週の前半 月曜日か火曜日。 候補となるのは18、19、25、26 その辺だ。

ここ最近はもう、セミの声を聴かなくなった。 ヒグラシは今年はまったく聴かなかった。 そもそもセミの数も減っているように感じる。 あんまり多いとうるさいので、その点では悪いことではないけれど 夏は暑さだけでは味気ない。

今年はセミが鳴き出すのも遅かったような気がする。 鳴きはじめの時期は去年の記録がないので気のせいかもしれないが、今年は7月7日だったと記録している。

その約一週間前である7月1日には、セミの声がなくて不安だとこぼしている。 セミは何年も土の中にいるという話から連想したのか 舗装路に塗り込められて出てこないんじゃないかと そんなことを言っている。

生まれる前に土の中で死んでしまうセミの話はこれよりも前にもしていたみたいで 6月11日に

「死んだ妹たちが言っていた。梅雨に降る雨は、土の中から出てこられずに死んだセミたちを想う涙なのだと」

なんてことを言っている。 これがなんの話なのかは見当もつかない。 わたしに妹はいないので 少なくともわたしの話ではない。 あるいは現実の話ではない。

梅雨といえば今年は梅雨が短かったんだったか。 もっともわたしが見ていたのは気象庁の仮の宣言で 正式にはもう少し遅れて、 結果的に今年の梅雨明けはいついつでしたと 過去形で語られる。

いったいなんの話だったか
夏はどこへ行ったのか

今年は理想的な夏を いや夏を生きているという実感を得るために ひまわりを見に行ったんでした。 6月には紫陽花を見に行っていたけれど それで花の気分になっていたのだろう。 市が運営している植物園に行った。

そこで目論見どおりひまわりを見たのだが、それだけのことだった。 なにか人生感を揺るがす衝撃も これでもう満足だ、死んでもいい なんていう感慨もなかった。 そこにひまわりがあっただけ。

なんて格好つけて突き放した言い方をしてみるけれど 実のところそこにはひまわりなんてなかった。 本当のことをいうと、植物園にも行っていない。 というのは嘘で、植物園には行ったし、ひまわりも見た それがいまではほとんど現実味のない遠い記憶になってしまっている。

それにひまわりっ
夏といえば海じゃないのか

でもわたしは海をほとんど見たことがない
見たことのないものは信じられない
だからわたしには海が存在しない
少なくとも確かなものとして存在しない

いやほとんどということは見たことはあるんじゃないか
見たことはある
見ていないと辻褄が合わないような、行動の記憶がある
つまり、海が見えるようなところに行ったという記憶
しかしその記憶もあやふやで、まるで夢のように掴みどころがない

なんなら砂浜があるような、夏といえばないかにもな海は
それに隣接する記憶ともども存在しない

砂浜ってどんななんだ
走りにくいと聞いている
そこで走ってみたいものだ
泳ぐのは勘弁してくれ
昔から深い水が苦手だ
水着も着たくない
見るのも遠慮しておく

ただただ棒切れ持って砂浜を走りたい
それで疲れて倒れ込んで
そのまま砂になって波にさらわれて
もう誰もわたしを認識できないように
散り散りになって消えてしまえたらいいのに

夏はどこにいるのだろう
わたしは死ぬのであれば夏と一緒がいいのだけれど
夏はいつも気づいた時にはいなくなっているんだ
夏の姿が見えないからといって
もう秋だというわけでもない
秋の実感は夏を探そうという気持ちもなくなった頃に湧いてくる 特有の空気の味があったけれど それがどんな味なのかはいつも 実際に味わったときに思い出して そしてすぐに忘れてしまう
だから毎年秋が来たというその時はわかるのだが その確信がどのように構成されているのかは不明確だ

とにかく
わたしは夏といっしょに終わりたかった
けれどわたしは
今年の夏も見失ってしまった

ああ、そういえば 夏祭り
年々寂しくなっていっているんだ もうこの町に 夏祭りを楽しむ子供も 夏祭りを楽しませる大人も いなくなってしまったから 仕方ないんだけどさ みんなどこへ行ったんだろう もうあの景色は戻ってこないんだろうな あのときは子供も大人も みんな外をうろつきまわって 普段は見ない隣町の子供なんかもいたりして 大人は大人たちでビールとか飲んで話し込んで 子どもは無心に、純粋に、後先考えず 遊んだり食べたりしてさ そういうの、もうないんだろうな 花火とかももう 楽しむことなんてできずに ただ迷惑だなんて思ってしまうような そんな世界になってしまった 神が死んでしまったから ただ意味のない 目も喜ばせるだけの娯楽と化してしまったから もう花火なんて 単なる贅沢に成り下がった 夏祭りといえば 夏が終わる合図みたいなところがあったんだ わたしが夏を見失ってしまったのって 夏祭りがなくなってしまったからなのかな

なんて、知らないよ、もう

プリザーブド・アイドル?

リザーブド☆アイドルというのは、プリザーブドフラワーからの連想なのだろう。枯れない花。不変の美しさ。 しかし、それを作るためには、まず花を殺さなくてはならない。殺して、薬に漬けて、そうしてできた永遠の花。

だが、その永遠の美しさに人の関心のほうが先に枯れてしまう。花は打ち捨てられて、それでも枯れることはできず、埃が堆積し蜘蛛の巣が張られ黴が生え朽ちていく。プリザーブドフラワーは壊れやすい。湿気や紫外線にも弱い。

打ち捨てられたプリザーブド・アイドルは、忘れられた庭園でひとり。友達といえば花ばかり。しかしみんな生きているから、季節が過ぎたら枯れていく。彼女ひとり残して、みんな枯れてしまう。この一点ゆえに、彼女はいつまでも花とわかりあえない。本当の友達になれない。

リザーブド・アイドル。彼女はひとり、まっている。それは自分の死か、はたまた世界の終わりか。それとも……

彼女は待っている。わたしを見つけてくれる人を。もう一度、わたしを輝かせてくれる人を。アイドルは、見つけてくれる人がいるからアイドルだ。アイドルは、見られているからこそ輝ける。

アイドルは、あなたに見つけてもらうのを待っている。

しかし、あなたはそれを知らない。 アイドルも、自分の望みを知らない。 もしあなたが、彼女を見つけることになるとすれば、それはいかなる作為にもよらない。 それは運命だ。

物語の始まりはいつも運命みたいに、登場人物たちをいつの間にか巻き込んでいる。望むことなく始まっている。しかし物語の終わりは意図と願望にに満ちていて、それゆえ綺麗にはいかない。だれの思い通りにもならない。だれの望みも叶えず、みんなひとつぶずつ涙を流す。

リザーブド。 カタカナで書くとブリザードに似ている。 一文字多いが韻は踏める。 ブリザード・アイドル。氷河に埋もれたアイドルが、次の文明の雪解けに発見される。いつ引退しようかと迷いながら、人もまばらなステージに立っていた彼女は、ステージの上で氷河期の訪れを迎える。急な吹雪に、次々立っていく観客たち。それでも歌い続けたのは、職業人としての責任か、それとも歌っている歌が彼女にとって唯一の、彼女のための歌だったからか。誰のカヴァーでもない、彼女だけの歌。シングルは8枚しか売れなかった。そのうちの3枚は自分で買った。あとの5枚はさっきステージを去っていった人たち。あと死んだ幼馴染の子と、おねえちゃん。ふたりとも、わたしの夢を応援してくれたけれど、今日は遠いところにいた。ひとりは言わずもがな、おねえちゃんは仕事でサン・フランシスコに。

シングルを買った他の3人は、みんなさっきまでステージを観ていた。ひとりは30代にして禿頭のおじさん(本当はもっと年取っているんじゃないのかな……)で、CDを手渡ししたときにわたしの脚を見ていたのが頭にこびりついている。チェキを撮ったときもやたらと近くって、鼻息が聞こえてきてちょっと……と思ってしまった。いやそんなことを思ってはいけない。アイドルなんだから、と押し殺した。

もうひとりは若いお姉さんで、おねえちゃんと同じくらいの年齢だと思うんだけれど、全然違う雰囲気で、いかにも疲れたような人だった。でもこの前の握手会で、少し話をした。わたしのこと、ずっと前から応援してくれているみたいだった。初めて立ったステージの、宣伝のためのフライヤーをラミネートして部屋のドアに貼っていて、毎日5回、その方向に祈るのだという話を聞いて、わたしは少し怖くなった。その時のこと、わたしはとっくに忘れていたから。わたしにとって大切なはずの日のことを、わたし以上に大切にしていて、まるでそれが教祖の復活の日であるかのように祝うなんて、言っちゃ駄目だけど、気味が悪かった。でもお姉さんは本当に疲れたような目をしていて、そういう人の力になれているんだと考えたら、もう少し頑張ってみよう、なんて思えたのも確かだ。

あとの一人については、あまり話したくない。この人が、わたしの幼馴染みを殺した。警察には捕まっていない。この人が直接的に殺したわけじゃないから。……やめておこう。アイドルは笑顔でいないとダメだから。でもそれが嫌になってきたんだ。耐えられなくなってきたんだ。アイドルになって、みっちゃんを亡くして、それで何を得たのかもわからない。いつの日かすべてが灰色に見えるようになった。わたしはすでにアイドルではなかったのかもしれない。

雪はどんどん積もっていった。気温はマイナス30度、まだまだ下がっていく。やがて世界は凍り付いて、人類の93パーセントは死に絶えた。意地でも歌い続けていたアイドルはステージと一緒に冷凍保存された。

およそ12億年後——一度滅びた人間の文明が新たに興るために要した時間は、いくつもの人間の一生を「およそ」という3文字に丸め込んだ。凍り付いた世界のうえに築かれた新たな人間文明のもとで、彼女は解凍された。

15ワット2230分で解凍された彼女が、そのあとどうなったかは知らない。解凍された人は基本的に冷凍保存されるリザーブド・バイ・フリージング前のことを覚えていないから、他の人たちと同じように普通に生きたんじゃないかな。施設で社会適応プログラムを受けて、リハビリテーションの成果が一定の水準に達したと認められたら棲む場所と家庭を与えられ、ごく普通に生きて、ごく普通に死んでいく。それが解凍者たちの一般的な運命だった。

でも、たしか時期としては彼女が解凍されて、リハビリテーションを受け始めた頃だったか、ちょうどその頃、施設でちょっとした歌が流行ったという話を聞く。どうも、解凍された人たちはそれを聞くとわけもなく涙を流すらしく、解凍者差別の踏み絵として使われたとか、あるいは解凍者解放運動の象徴歌として使われたとか、そんな話もある。

なんにせよ、その頃には解凍者の扱いについて、考えるべき時が来ていたのだ。差別者たちは解凍者に対する扱いを不当な優遇だとみなし、解放運動家たちはそれを人権の侵害だとみなしていた。どちらも、解釈としては筋が通っている。しかし、それが暴力を正当化するための理論となっていたために、いつしか解凍者という存在自体が争いの種だとみなされるようになった。

結局、氷の中に眠る人びとを発掘解凍して、氷の下にある、われわれの遠い祖先のものとみなされる文明のルーツを探るプロジェクトは凍結されるにいたったハズ・ビーン・フローズン

リザーブド・アイドル。 日本語訳すると「保存された偶像」。 京都にはいっぱいある。三十三間堂には1000体以上。 これらが保存されるのは、アイドルだからだろうか。 みんなに笑顔を振りまくからだろうか。 アイドルは笑顔でいないとダメ? アルカイック・スマイルはある。 しかしこれは笑みではない。 笑みではない。 笑う必要はないんだ。少なくとも、心までは。 そもそも、アイドルは表現者ではない。 アイドルに表現は許されていない。 許されているのは、アイドルであること。偶像であること。 薬師如来のように、如意輪観音のように、カリュアイの乙女のように、名もなきコレーのように。

リザーブド・アイドル。 人々はいつの世も偶像を求めている。 祖先から受け継いだ偶像をとこしえに保存するに飽き足らず、生きた偶像を作り上げ、もてはやし、消費する。 消費する。 消費が唯一の教義である宗教じみた今世の、狂気のような偶像崇拝。 その象徴としてのアイドル。崇拝の対象すらも消費してしまう。 保存されぬアイドルディプリザーブド・アイドル。 消費社会に毀損された偶像。 廃仏毀釈運動。 ウーシアは弾丸に置換せられ、エイドスは煽動に利用された。 《曲用》されたアイドルディサーブド・アイドル。 いつの世も人は、暴力を渇望している。 目を皿にして、人殺しの口実を探している。

それでもアイドルは死なない。 保管されようとも、されずとも。 毀損されようとも、利用されようとも。 アイドルは人々を励まし、笑顔にする。

プリザーブド☆アイドル

プリザーブド☆アイドル

夏を見た

いつか見ようと思っていたアニメを観た。『グラスリップ』というやつ。2014年に放送されたものらしいので、もう10年以上前のものということになる。10年以上前になぜこれを観たいと思ったのかも、今日、なぜこれを観ることにしたのかも、よくわからない。

理由はわからないが、これを観ようと思っていた自分がいて、それを実行した自分がいた。人が生まれて死ぬのと同じだ。

世間では何かを観たら、感想を書くのが流行っているらしいが、わたしが語れることがあるだろうか。なんせ10年も前のものだ。すでに語り尽くされているという感がある。そこに今日観たばかりの人間が何かを言ったとて、それはすでに語られたことなんじゃないかなと思う。

でもまあ、自分のために自分の思ったことをのこしておくことには意味があるだろう。わたしは何を思ったのだろう。これを観ながらずっと思っていたことがひとつ。なんだかいい本を読んでいるみたいだ、ということ。いい本というのは、「いい時間」を体験させてくれる本のことだ。

 いい本というのは、そのなかに「いい時間」があるような本です。読書といういとなみがわたしたちのあいだにのこしてきたもの、のこしているものは、本のもっているその「いい時間」の感覚です。本のある生活、本のある情景はこころにくいという感覚がおたがいのあいだにたもたれるようでないと、社会の体温が冷えてしまう。
 今日、揺らいでいるのは、本のあり方なのではありません。揺らいでいるのは、本というものに対するわたしたちの考え方であり、「本という考え方」が揺らぐとき、揺らぐのは、人と人を結び、時代と時代を結ぶものとしての、言葉のちからです。1

わたしはそれを観ているとき、それぞれの登場人物の時間を、自分の中に植え付けられているような気がして、それがなんだか心地よかったんだと思う。植え付けられている、というとちょっと違うような気がする。

でもそうだな、「いい時間」だったんだ。この作品世界は夏で、いまわたしが生きているこの時間も夏。もっとも、まだ夏というには早い時期なのかもしれない。まだ梅雨明けしていないものな。今年の梅雨明けは早いみたいだけど。でも今日も夏みたいに暑くて、そんな中、ある夏の風景を見た。物語の登場人物とともにひとつの夏を共有した。そうだ、夏を共有した。そんな感覚。こんなことしかいえないがまあ、とにかく、よかったんだ。けっこう評判よくないみたいだけど、わたしには好きな作品だった。

しかしあれだな、長田弘繋がりで、この作品の賛否というのも「本という考え方」の揺らぎによって説明できるんじゃないかと思ったり、思わなかったり。本という考え方が揺らいでいる、と長田弘は言っていた。本というのは本来、それを読んだり読まなかったりすることによって、そこにある時間や経験を手に入れるためにあるんだってさ。でもそれが揺らいで、今では本に求められるのがそこにある情報ってことになっているんだと。「読書のための読書」と「情報のための読書」。これらはそれぞれ「育てる」文化と「分ける」文化に対応していて、生産と物流とか、努力と享受とかにたとえられていた。そういえば、だいぶ前に『映画を早送りで見る人たち』という本を読んだっけ。この本についてはあまり覚えていないけれど、映画を早送りで見るという行為はとても象徴的だと思うな。そういう人が若い世代で増えているらしくって、本と映画という違いはあるけれど、享受すること、それもより多く、より効率よく消化していく、そんな姿勢で作品に挑む流れが強くなってきているのかな、なんて。もしかすると『グラスリップ』は「人類には早すぎた作品」なんかじゃなくて、むしろ「人類には遅すぎた作品」といってもいいのかもしれない。って、これはなんだか空想を進めすぎたかな。

まあ、人類にとって早すぎたとか遅すぎたとか、文化うんぬんとか、そんな大それた話はいいや。もっと頭のいいひとに任せよう。とにかく、わたしにはいい作品だったんだ。それまで見たことないはずなのに、どこか懐かしいというか、自分の大切なカケラがここにあった、というか、また長田弘の言葉を借りるけれど、本当にいい本を読んだような感じだったんだ。

 その本をそれまで読んだことがない、にもかかわらず、その本を読んで、「私」という人間がすでにそこに読みぬかれていたというふうに感じる。のぞむべき本のあり方はそうであり、そのようなしかたで、いつの時代にあっても人びとにとってのもっとも大事なことが、きまって本というかたちをとって表され、伝えられてきたというのは、宗教も法律も、文学も、それが基本で、すなわち基は本だからです。2

その作品をそれまで観たことがない、にもかかわらず、その作品を観て、「私」という人間がすでにそこに読みぬかれていた。この感覚がぴったりくるなあ。わたしという謎を解く鍵になるように思われる作品。本にせよアニメにせよ、そういうものはそう簡単に見つからない。いまパッと思いつくのでも二つくらいかな。それらについても、あまり語れるほどまだ自分自身を紐解けていないけれど。

ところでこの日記を書く、という行為は「蓄える」文化なんだろうなあ。「育てる」文化と「分ける」文化の間にあって、それらをつなぐものだとか。ふと思いついただけで、とくに脈絡はないんだけれど。

まあとにかくさ、観たんだ。ずっと観ようと思っていたアニメを。とてもよかったけど、もっと早く見ておけばよかった、とも思わないんだ。不思議なことに。観ようと思いながらも見なかった年月にもなにか意味があって、今になって観たということにも意味がある。実際にどうかは置いておいて、そう思うことで、わたしにとってこの作品を見たということの持つ意味に何かしらの解釈が生まれるんじゃないかな、なんて。なんか変なこと言っているなあ。アニメというものを久しぶりに観て興奮しているのかもしれない。このところ半年に一回くらいしか観ていないからなあ。

この話はこんなところで。

やめやめ、明日は仕事なんだから。

さあ、帰った帰った。


  1. 長田弘『読書からはじまる』(筑摩書房, 2021) pp.10–11
  2. 長田弘『読書からはじまる』(筑摩書房, 2021) p.10

あれは アジサイ だった

あじさいを見に行ったんだ。この前見に行けなかったから。
でも、見に行けなかったことについてはすんなりことばが出てくるのに、見に行ったということについては、素直に何かを言うことができない。

このところ暑いから朝早くから出かけていって、でも朝早くから人がいっぱいで、しかも朝早くから汗がだらだら出るくらい暑くって、暑くて頭が痛くなってしまった。熱中症かな。

花を愛でる心もないのに、やたらと写真ばかり撮ってたんだ。わたしも、そこにいた人たちの多くも。みんなファインダー越しにしか、あるいはスマホの画面越しにしかあじさいをみていない。それなら自宅でもできるんじゃないの、そうすればこんな暑い思いもしなくてすむのに。って、別にそんなこと思ってたわけでもないけど。

あじさいをみるなら、今週が最後なんじゃないかと思っていたんだ。来週になればもう七月だ。いや、まだ六月だった。とにかく、もう次はないだろうって、いつもなら家でぼけっとして休日を過ごすじぶんとしては珍しく、朝からあじさいを見に行ったんだよ。朝からというのもすごく珍しいな。こんな張り切っていたの、いつ以来だろう。張り切っていたんだろうか。でも朝から家を出たんだ。張り切ってたって言っていいと思うな。

でもそうやって見に行ったんだけど、あじさい、どんなだったか覚えてない。人がいっぱいいた。暑かった。みんな写真を撮っていた。わたしも写真を撮っていた。それで、あじさいはどんなだった? どうだったんだろう。写真を見返す。枯山水。みんなあじさいの写真はこぞって撮るのに、枯山水には見向きもしていなかった。枯山水っていったって、その善し悪しはわたしにはわからないけど。もしかしたらすごく悪い枯山水で、写真を撮るのもおぞましいものだったのかもしれない。だれか言ってよ。写真、撮っちゃったじゃん。

花が枯れてその跡形もないツツジに、蜘蛛の巣ができていた。この蜘蛛の巣はいつ取り払われるんだろうか。というか、これはツツジで合っているのか?

そういえば、ぽつぽつと蓮が咲いていた。ほとんどは蕾だったけど。蓮の見頃はあじさいが終わってからみたいなところがあるけれど、完全に花開いているのもあって、それを見た知らない人が「こいつはもうだめだ、明日には死んでる」って言ってたんだ。死んでるとまでは言ってなかったかもしれないが、だめだとは言っていた。だめだなんて言わないでほしかった。

あじさい、見たんだけどさ、その色とか形とか、どうやって語ればいいんだろう。語る言葉があるんだろうか。そういえば、そこに行くまでの電車で、長田弘のこんな文章を読んでいた。

 今日、銀杏並木の美しい黄葉を見ました。
 重なり合った銀杏の葉が実にさまざまに異なった微妙な色合いを映して、日の光りのなかに揺れていて、その黄葉の見事さは思わず息を吞むほどでしたが、目はそのさまざまに違う色合いを認識していても、さて、ことばで、その黄の織りなす美しいさまざまな黄色をどれだけ言いあらわせるだろうと考えると、難しいのです。
 十二色のクレヨンの色ぐらいしか色彩のヴォキャブラリーをもたなければ、黄葉の美しさをなすさまざまな黄も、結局、ただ黄色とだけしかいえないだろうなあと思う。1

この話の銀杏をあじさいに換えて、黄色を紫にしたら今のわたしの話になる。わたしにはあの色を紫としか語れない。菖蒲色? 葡萄色? 半色? 紫紺? 菫色? どれもピンとこない。
他方で、まど・みちおのこんな言葉も思い出す。

ここにコップという物がある。視覚はこれにあうと、いやおうなくこの物のコップという名前を読まされることによって、この物を水やサイダーやビールを飲むための器だと承知させられる。そしてそれですべてを忘れさせられる。たまたまはっと己が役目に気がついた視覚が、名前のうしろに隠れている物そのものを見とどけようとしても、すでに読んでしまった名前が、執拗にふり廻すコップ観による妨害をなかなか防げはしない。2

ここでは、わたしが現実にあるものを見るとき、現実とのあいだに意味が(言葉が)立ち塞がり、現実そのものを見ることができないって、そんなことを言っている。少なくとも、わたしはそう読んだ。かたや言葉の充実を必要としていて、かたや言葉を枷と捉えていて、食い違っているように見えるけれど、わたしはそのどちらも嘘を言っていると思われない。わたしは言葉に対して、どのような態度をとればいいんだろうか。この日見たあじさいについて、何を語ればいいんだろう。

写真家であれば、撮った写真でそれを語るのだろう。だけど写真だって真実を写すわけではない。いや、それはそういうものでいいのだろう。語られることが真実でないといけない、というわけではない。実際、写真家が撮った写真を見て、心打たれることがある。というかまさに心打たれてきたんだっけ。あじさいを見に行ったついでに『ザ・テイル・オブ・ゲンジ』の博物館に行ってさ、そこで写真家がその世界観をイメージして撮ったという写真を見てきたんだ。写真そのものが虚構を含んでいるし、レタッチの過程でさらに嘘の濃度が高くなって、それがプリント・アウトされた頃には真実がいくら残っているのかわからない。でもわたしはそれを見てきれいだと思ったし、映っている人が写真の中にたしかに生きているように見えたんだよ。写真ってすごいんだなってさ、あじさいの話から離れてしまったけど。

ことばだって、それが真実を語らなければならないって決まっているわけじゃない。あじさいという言葉で、その花を言い表すことによって、意味の世界ではあじさいの典型が現実のそれにとって代わる。でもそれによって現実のあじさいがなくなるわけじゃない。あじさいについて誠実に語りたいと思うのなら、するべきなのは沈黙することではなくて、わたしがあじさいを見たことによって受けた揺さぶりを、言葉を凝らして伝えようと苦心することじゃないかな。まったく何言ってんだか。なんの話をしているんだ。

とにかくさ、あじさいを見たんだ。暑い中。人がいっぱいいて、みんな写真撮っているから、つられてわたしも写真を撮っていたんだ。あじさいという花を初めて見たのはそう昔のことではなく、ここ2、3年のことで、それまでは言葉としてのあじさいしか知らなかった。6月、雨の中、黄色いレインコートの子供、カタツムリと一緒に想起されるあじさいのアーキタイプ。丸くて紫の花。わたしは長らくそれしか知らなかった。だから現実ではなく意味が先なんだ、わたしの中のあじさいは。あじさいという意味を得てから20年以上たってようやく本物を見た。あじさいは丸いだけじゃなくって、真ん中の小さな花たちを守るようにガクと呼ばれる花みたいなやつがぐるりを取り囲んでいるものがある、ということを知った。そいつは額紫陽花と呼ばれるらしく、なんだか楽しげな姿が好きになった。むろん、丸っこいやつも可愛らしくて好きだ。そんなあじさいを今日、見に行ったんだ。赤いやつ、青いやつ、白いやつ、二色のやつ、薄紅色のやつ、装飾花のないやつ、地を這うやつ、幻の……は探したけれどどれがそうなのか、わからなかった。ハート型のあじさいもあったな。色についてもっとちゃんと表現するなら、紅碧? 二藍? 光の加減、影のかかり具合によって色の感覚は変わってくるものだから、やっぱり何色だったのか、うまく言い表すことができない。遠目に見た、日陰のなかできれいに色づいていたあのあじさいは紅掛花色といえばいいのかな? 白いあじさいなんかは、葉の緑を反射してか、白緑にも見えた。そもそも語彙が貧弱なんだ。12色そろっているかどうかも怪しい。色見本を見ながら記憶に合う色を必死に探している。借り物の言葉でしかない。結局のところ、自分の言葉では「きれいな紫だった」とだけしか語れない。

でも、きれいだったんだよ。

だって好きなんだ、あじさい。

いろいろ言ったけど、あじさい。


  1. 長田弘『すべてきみに宛てた手紙』(筑摩書房, 2022) p.19
  2. 谷川俊太郎(編)『まど・みちお詩集』(岩波書店, 2017) p.110

今日、紫陽花を見なかった

今日は用事があったので、休みを取った。ちょっと前に二日ほど有休を取ったとき、全然うまいこと過ごすことができなかったので、その反省として、どこかしらにいこうと意気込み、そういえば今は六月だから、あじさいでも見に行こうかなと、気軽に行けそうなところにあるあじさいで有名な庭園のある寺を訪ねていったのだが、開いていなかった。何かを意気込めば空回りする。うまくいかないなあ。

仕方がないから、そこの近くにあった別の寺を少しだけ見に行ったが、何の心構えもしていなかったので、何を見たらいいかも、どこへ行けばいいのかもわからず、20分くらいでそそくさと出て行った。歩いただけ。電車に乗っただけ。停車していた特急電車の排ガスとエンジン音で気分悪くなっただけ。アフリカで子供が飢えて死んだだけ。アメリカで子供が肥えて死んだだけ。日本では今日も8トンの米が廃棄されている。イスラエルで爆撃があって、それによって幾人かの子供がみなしごになっただけ。中国のハイスクールで、いや世界中のハイクールで、今日も女の子(あるいは男の子)がいじめを苦にして自殺して、学校はそれを隠蔽している。いじめっ子は新しい標的はだれがいいか、ああでもない、こうでもないと真剣に悩んでいる。明日からいじめられる予定の子は、昨日自動車にひかれた子猫を公園に埋めたところ。その猫が今日、カラスに食い荒らされるのをみていたところ。わたしは今日、それと知らずに昼、カレー・ライスを食べた。北インド風カレー。でもぶっちゃけ期待したほどのものではなくって、食べたりなくて後からマクドナルドのテリヤキ・バーガーを食べた。別にそうするまでのことでもなかったのだけれど。

別にそうするまでのことでもなかったのだけれど、人は人を殺す。食べ物を粗末にする。偽りの善行をする。つまらないことで悩む。学校をサボる。国家転覆を企てる。会社の金で離島に私物を送る。まつろわぬ神に祈りを捧げる。ホームレスをリンチする。写真を撮る。日記を書く。そんな必要ないのに。

本を買った。まだ読んでいる本があるのに。

津島佑子『本の中の少女たち』

「本の中の少女たち」というけれど、「少女」という言葉自体なにか観念的というか、現実味がないというか、空想上の生き物のようというか、そもそも本の中にしか「少女」っていないんじゃないかなんて思う。
プロローグだけ読んだ。プロローグでは、著者は「少女」という言葉が何を指しているのかについて、かつて「少女」の当事者であった? いやどうなんだろう? という自分自身の回想とともに探求を試みる。

赤毛のアン』の世界は、ひとつのシンボリックな世界だった。顔が美しくなく、金持ちではない少女でも、その心がけと努力次第で、こんなに幸せに生き抜くことができるのですよ、という、普通の少女たちにとってはげましの世界なのだ。そうして、その世界を、いわばひとつの教科書として私も熱心に読んでいたのではなかったか。挙げ句の果ては、私たちの大抵はこれほどの逆境で育ったわけでもないし、容貌に著しく悩んでいるわけでもないけれど、それにしてもこの『赤毛のアン』のようには現実は調子よく、心豊かに生きていけるものではない、とぼそぼそ一人でつぶやいたのではなかったろうか。

金井美恵子『軽いめまい』

1990年代の東京、中産階級の主婦の日常に潜む「めまい」をえがく中編小説。らしい。知らない作家だが、最初のところをちょっと読んでみて、ちょっとクラクラしたので読んでみようかなと思った。ひと段落まるまる句点がない。酸欠になるぞ。
ところで中産階級って、いまじゃあ死語というか、そんなのいねーよって思ったりもするんだが、当時はいたのかな。そういう時代の違いを肌で感じられるというか、当時の生活とか一般的な人生観とか、そういったものを垣間見れるような気もする。『なんとなく、クリスタル』みたいに。知らんけど。

玖月晞『少年の君』

中国の小説。あらすじになんだか中国的な郷愁を感じたので読んでみようと思った。中国的な郷愁ってなんだよって思ったが、なんかそういうのがあるんだよ。ないか。著者の読みは「ジウユエシー」。新潮文庫の翻訳ものの棚で、シェイクスピアとかスタインベックとかに囲まれて、一つだけ漢字の名前が浮いていたのが目についた。それで手にとってみたのだが、そこでさっきのわけわからん中国的な郷愁ってやつをあらすじに見いだしたってわけだ。
あとでちょっとだけこの本について調べてみたところ、映画化されていて、それが映画界では有名らしく、なんだか権威ありそうな賞の名前も見られた。で、Wikipediaのページもあったんだが、そこでネタバレの不意打ちを食らったよ。クソが。

これら買った本を、このまま帰るとたぶん読まないだろうから、せめて冒頭だけでもと、近くのカフェで読む。それぞれのプロローグ、第一章、Chapter1を読む。先週の日記をまとめて書く。そうこうしているうちに日が暮れて、カラスが少女に追い立てられて、学校はいじめの責任問題についてまるで被害者のように振舞って、ムスリムマグリブの礼拝を終えたところ。12代目イマームが訪れるのを待っている。わたしはといえば、店を出ようとして荷物をまとめて席を立ったところで、ワイヤレスイヤホンがポケットから転がり落ちているのに気づいたところ。それを拾って、ほかに何か落としてはいないか、あの青い空の波の音が聞えるあたりを調べてから、店を出た。まだ6月なかばというのに暑い。そうか、もう6月なのか。あなたに出会ってから1年。気づけば早くも長い時間をともに過ごしてきたみたいだねと、わたしは用意してきた台詞を言う。あなたはすごいねと言う。そうだね、とわたしは同調する。わたしは、今日のことを忘れると思う。今日死んだ見知らぬ子どもたちのことも、いじめも戦争も横領もサボタージュも親父狩りも、見たこと見なかったこと、すべてを忘れてしまうと思う。そうしないことには、生きていけない。そういうことになっているんだ。

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12代目のイマームを待っているのはシーア派らしいけど、シーア派は礼拝の回数がちょっと少ないらしい。シーア派は日没の時間に礼拝するんだろうか。学生のころ、イスラーム文化についての講義を受けていたけどほとんどなにも覚えていない。

イスラームには興味があるけれど、こういう本はわたしは眠たくって読めないと思う。

休むとかえってしんどくなるような

先週の木曜日から休みをとっていたので、今日はひさしぶりの仕事ということになった。
今朝の気分はひどいもんだった。仕事が嫌ってわけじゃないはずなんだが、やっぱり働くってこと自体が嫌なことなのかもしれないな。休みですることもなのに、外を歩き回るのと同じくらいには。

けさのひどい気分の一端は、睡眠時間が短かったことにもよると思う。とはいえこれも、休みの日に余計なことを考えてしまうから眠れなくなるだとか、徘徊時の休憩に喫茶店に寄ってコーヒーばかり飲んでカフェインで目が冴えたりだとか、そういうことによるものだと思われるので、やっぱり変に休みを取ったことが影響しているのだろう。

休みをとるべきではなかったのか? というよりも、休みの日の過ごし方が間違っているのだろう。 では正しい過ごし方は? それがわからない。 わかっていないからああなっているのだし、わかるのならばもっとマシに過ごすさ。 休みの日ってなにをすればいいんだ? 家でぐうたら眠りこけていたら、夜眠れなくなる。 夜眠れるようにしつつ、いらぬ疲労感とか憂鬱な気分とかを拾ってこないような過ごし方。 自転車に乗ればいいのか? 山に登ればいいのか?

あんまり遅くまで考え込んで、また寝不足になるわけにもいかないので、また休みの日にでも考えようか。

われわれはこれから相互に脈絡のない小間切れの役割を演技しながら……

われわれはこれから相互に脈絡のない小間切れの役割を演技しながら、日常生活を送り、人生を過ごすようになるだろう。嘘が、喜ぶべきものに見えてくるだろう。嘘が飾らぬものは、空しくて耐え難いものになってくるだろう。1

自分を刺激するものとしての仮面、演技、誇張、嘘、ロールプレイ。そんなものが、生活を成り立たせるための「求心力」として求められるようになる、という秋山の予言。
これを読んだとき、自分にも心当たりがあって、びくっとした。

わたしはいっとき、空想上の恋をしていて、それによる心の動きみたいなものをいろいろとメモに残していた。そうして書かれたメモは、あまり人に見せられたものではないが、自分自身読んでみたところ、なんというか瑞々しく、生命力に満ち溢れているというか、辛くもそれもまた喜びであるようにみえた。そのときわたしがやっていたのは、ここで秋山が言っているようなこと、つまり「相互に脈絡のない小間切れの役割を演技しながら、日常生活を送り、人生を過ごす」ことの実践だったんじゃないかと思う。
わたしは生に耐えるために、とにもかくにも役割を求めていたんだろう。
「あなた」のことが好きで、好きで、たまらなく好きなわたし、という役割を演じることで、「あなた」のちょっとした振る舞いとか、言葉とか、会える会えないだったり、連絡してみて返事を待つ時間だったり、そうしたものにいちいち胸がときどきドキドキときめいていたし、ただ胸に秘めているあふれる思いによって毎日が輝いていた。「あなた」の気を惹くこと、「あなた」を愛し愛される仕草をすること、「あなた」に会うために、待って、待って、待ち続けることが、生活の目標、希望、努力の動機となっていた。このときわたしは、わたしが生きられなかった子供時代を生き直していたんじゃないかとまで思う。

この一年は、テレビの「おしん」がブームだったという。おしん、の象徴的な意味合いは、生活における子供時代ということだ。子供時代には、生活の目標、希望、努力といったあの求心力が、ごく自然に生きて働いている。2

そうした演技に全身全霊で打ち込んでいる間はよかったんだけど、いまとなっては魔法が解けてしまったように思うよ。無心に役割を演じられなくなったんだ。いまも、わたしはあなたのことが好きだ。そう言ってみても、なんだか白々しさを感じずにはいられない。 それで、そうなるのと一緒に、わたしは生きる希望も無くしてしまったんじゃないかな。 だからまた死んでしまいたいなんて言いはじめたんだ。たぶんね。


  1. 秋山駿『簡単な生活者の意見』
  2. Ibid.



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