※)これは”チラ裏”レビューです。あまり十分な推敲もしておらず、本来はチラシの裏にでも書いて捨てるレベルの駄文ですが、ここに書いて捨てさせていただいております。この先は期待値をぐっと下げて、寛容な気持ちでお読みください。ではどうぞ。
作品名:沈黙 (映画 2016)
評価:★5(★★★★★)
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遠藤周作の原作小説を、マフィア映画などで有名なハリウッドの巨匠、マーティン・スコセッシが映像化した。江戸時代初期、キリスト教の信仰が禁止されていた時代の長崎で、密入国したカトリックの宣教師2人を主人公とした映画。
2025年3月、Amazonプライムビデオでレンタルして鑑賞した。価格は400円だった。
感想。深みのあるすごい映画だった。私が今までに観た映画の中で十指に入るレベル。
映画には主に3つの立場の人々が登場する。キリスト教(カトリック)の宣教師、隠れキリシタンの村人たち、キリスト教を取り締まる役人たち。主人公の2人の宣教師の視点で描かれるが、他の人々についてもニュートラルな視点から丁寧に描いている。
特に、キリスト教を取り締まる役人たちを安直に極悪人にせず、踏み絵の場面でも「軽く踏むだけでもいいんだぞ」などと言っていたりして比較的穏健な印象だ。ただし「棄教」を頑なに拒否し続ければ最終的に火炙りなどで処刑されることも示唆されている。詳しい史実は知らないが概ねこういう感じだったのだろうと納得感があった。
宣教師2人の生き方の対比も面白かった。
ガルペ神父はカトリックの本来の教えに厳格な性格で、信者農民の天国の解釈の勘違いを強い口調で訂正したり、踏み絵に関しても「絶対にしてはならない」という立場。最後は簀巻にされて海に沈められる「切支丹」の農民の姿を見かねて助けに入り、一緒に海に沈められて「殉教」した。
ロドリゴ神父はガルペ神父に比べると現実派な性格で、踏み絵に関しても「(自分たちの身に危険が及ぶようなら)やってしまいなさい」という立場。ロドリゴ神父が棄教するまでのプロセスは丁寧に描かれていて見応えがあった。目の前で切支丹の村人が斬首されるのを見せられ、長崎奉行・井上筑後守が丁寧に説得しても応じずにいると、次にガルペ神父が殉教するところに立ち会わされ、その後ついにかつての師・フェレイラ神父に引き合わされる。フェレイラは棄教し、日本人の妻を娶って名を沢野忠庵と改め、キリスト教の”欺瞞を暴く”書まで書いており、ロドリゴにも棄教を勧める。「この地にはキリスト教は根付かない」「日本人が信じたのは歪んだ福音だ」「彼らは自然の中にしか神を見出せない、キリスト教の神の概念をもてない」と。かつての師が”変わり果て”てしまったことにロドリゴはショックを受けるがそれでもまだ説得には応じない。最後は逆さ吊りの拷問にあう切支丹の村人たちを救うためについにキリストのレリーフを踏んだ。
この物語をより俯瞰した視点で見るにあたり、ポルトガルなどのカトリック教国がキリスト教を道具としてアジアを侵略しようとしていたことを知る必要がある。そして、豊臣秀吉や徳川家康はその目論見を見抜き、日本や日本人を守るためにキリスト教を禁止した。この俯瞰視点で見ると、キリスト教を道具としてアジアを侵略しようとしていたポルトガルなどの為政者だけが加害者であり、この映画に登場するのはみな被害者側である。
宣教師たちはキリスト教の”真理”を未開人たちに”教えてあげよう”という驕りはあったにしても、それは純粋な好意から発したものであり、母国の為政者の野望のために利用され、異国の地で失意を味わった被害者。禁教の法律とキリスト教に準ずる気持ちの間で板挟みになった切支丹たちも被害者だ。教えに殉じて処刑された者たちはもちろん、何度も棄教しては神父に救いを求めるろくでなしのように描かれているキチジローも、この板挟みの末に精神が分裂してしまった被害者だと思う(彼は家族全員を殺されるという地獄を味わっているのだ)。
奉行所の井上とその通辞(作中で名前は呼ばれない。浅野忠信が演じた)は、日本の秩序を守るための職務を忠実に確実に遂行した。禁教を徹底するための手段として処刑などの残酷な手段も用いたが、何の防衛手段も講じずに侵略戦争が始まってからの被害と近代化前の時代であることを考えれば、それは致し方ないところだし、宣教師や信者たちに踏み絵の機会を与えているところもかなり理性的で穏当な措置だ。(現代の日本の政治家も、人権だの弱者によりそうだの綺麗事ばかり言っていないで、もう少し日本を中国やロシアなどの覇権主義国家から防衛する責任感を持ってほしい。)
そして、棄教した2人の神父、フェレイラとロドリゴ。2人はこの俯瞰視点から見れば被害者だが、彼らの置かれた厳しい状況で、激しい葛藤の末に宗教の枠を超えて、人間として最も大切なものを選び取った。「キリストがここにいてもそうした(踏み絵をして切支丹を処刑から救った)だろう」その通り。自分の家族や隣人を守ることより大切なことなどない。2人の行動には、単なる悲劇を越えた感動がある。
最後に、日本人俳優の演技が素晴らしくて誇らしかったことも書いておく。長崎奉行・井上筑後守を演じたイッセー尾形、通辞を演じた浅野忠信が素晴らしかった。キチジローを演じた窪塚洋介もよかった。
【あらすじ (Wikipediaより)】
17世紀、江戸時代初期― ポルトガルで、イエズス会の宣教師であるセバスチャン・ロドリゴ神父(アンドリュー・ガーフィールド)とフランシス・ガルペ神父(アダム・ドライバー)のもとに、日本でのキリスト教の布教を使命としていたクリストヴァン・フェレイラ神父(リーアム・ニーソン)が日本で棄教したという噂が届いた。尊敬していた師が棄教したことを信じられず、2人は日本へ渡ることを決意する。
2人は中国・マカオで日本人の漁師にしてキリシタン(キリスト教徒)であるキチジロー(窪塚洋介)の手引きにより、日本のトモギ村(大村藩領内、現在の長崎市西出津町付近)に密入国する。そこでは隠れキリシタンが奉行の弾圧に苦しみながらも信仰を捨てずに祈り続けていた。司祭はなく、「じいさま」と呼ばれる村長のイチゾウ(笈田ヨシ)だけが洗礼のみを行えるという環境だった。2人は村人達と交流を交わし、布教活動を行っていく。キチジローはかつて弾圧を受け、踏み絵により棄教を示したが、自分以外の家族は踏み絵を行えず、眼前で処刑されたのだという。罪の意識を背負い苦しむキチジローは自分の村である五島列島にも2人の宣教師を招き、布教を広める。そこでフェレイラの手掛かりも掴み、任務は順調かと思えた。
しかし、キリシタンがトモギ村に潜んでいることを嗅ぎ付けた長崎奉行・井上筑後守(イッセー尾形)が村に訪れ、2人の宣教師の身柄を要求した。村人達は必死に匿ったが、代償としてイチゾウ、キチジロー、そして敬虔な信者であったモキチ(塚本晋也)を含む4人の村人が人質となった。奉行は踏み絵だけではキリシタンをあぶり出すことは困難と考え、「イエス・キリストの像に唾を吐け」と強要した。4人の内キチジローを除く3人は棄教しきれず、処刑されることとなった。
自分達を守るために苦しむ信者達を見てロドリゴは苦悩する。「なぜ神は我々にこんなにも苦しい試練を与えながら、沈黙したままなのか―?」
ロドリゴ神父はキチジローに銀300枚で売られる。奉行所では、井上筑後守と通辞(浅野忠信)が穏当に棄教を勧めるがロドリゴは拒絶。ある日ロドリゴは海辺に連れていかれる。そこでは、キリシタンの百姓たちが簀巻きで海に沈められ、既に捕縛されていたガルペ神父も後を追って溺死する。奉行たちはキリストの教えで多くの民が死んでいくことを責め立てる。ロドリゴは、棄教して沢野忠庵を名乗るフェレイラ元神父と対面。フェレイラも棄教を勧める。ロドリゴの牢のそばで穴吊りの刑がはじまる。殉教者たちの苦しみの声に耐えかねたロドリゴは、踏み絵の前に立つ。ここでロドリゴは踏絵の中のイエスの声を聞く。「私を踏みなさい」"Step on me"と聞いたロドリゴは踏み絵を踏み、棄教する。
1641年、来日したオランダ人ディーター・アルブレヒトはロドリゴの消息を伝える。ロドリゴは井上奉行から岡田三右衛門の名を与えられ、妻を娶り、輸入品からキリスト関係の物品を除く任務にあたった。キチジローはロドリゴの前でこっそり告解するが、守り袋に小さなキリスト像を彫った板を隠していたとして連行された。ロドリゴは棄教を守り、日本で亡くなる。棺桶に守り刀が入れられ、仏教式の葬儀で火葬される。だが遺体が炎に包まれる直前、ロドリゴの掌にかつてモキチから託された小さなキリスト像があった。
【キャスト】
・セバスチャン・ロドリゴ神父:演 - アンドリュー・ガーフィールド
・フランシス・ガルペ神父:演 - アダム・ドライバー
・クリストヴァン・フェレイラ神父:演 - リーアム・ニーソン
・井上筑後守:演 - イッセー尾形
・通辞:演 - 浅野忠信
・キチジロー:演 - 窪塚洋介