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今はまだ生成AIに自分の文章を書かせたくない

少し前にエンジニア採用に携わっていた頃は、XのDMなどでスカウトを送っていた。丁寧に文面を考えていたので、一通に大体15~30分かかっていた。それもあって、スカウト返信率は70%を超えていた。そういう僕のスカウト文を見て「これはAIでは書けない文章だ」と誉めてくれる同僚もいた。

実際、僕はスカウト文を作るときに最近の生成AIは使っていなかった。ただ、生成AIでスカウト文をいい感じに書いてもらうことも全然できるだろう。やっている人もいるだろうし、それは全く否定しない。単に、僕の個人的なポリシーとして、文章を書くときには「まだ」生成AIを使わないようにしているというだけだ。

別に、未来永劫使いたくないという話ではない。今はこの新しい道具を自分に馴染ませていくフェーズなのだ。実際、文章を書く以外のリサーチや、ちょっとしたコードや画像の生成に生成AIを使うことはもはや日常になった。

それでもなお、まだ、文章を書くときに生成AIを使うことに慎重になっている理由としては、「庶民性が発する警戒心」と「作品性への拘り」の2つがある。

庶民性が発する警戒心

僕はWebエンジニアの中では比較的保守的側だし、そこが逆に特性になっている自覚がある。そんな僕の中の庶民性みたいなモノが、強力な武器を手に入れたときに警告を発するのだ。強力な武器が目の前に現れたとき、その振るい方は人によってスタンスが異なる。躊躇せずに振るえるか、恐る恐る振るうのか。

僕は怖がってしまう。その武器に振り回されて他人を傷つけないか、その強度に溺れて自分を見失わないかを懸念してしまうのだ。身の丈に合わない金銭や権力を突然手に入れて、それに溺れ、身を持ち崩したり、人を傷つけてしまう話は枚挙に暇がない。昨今の生成AIも、人類の目の前に突然現れた(様に見える)、強力な武器だと感じる。だから気をつけないといけない。

大きな力、お金や権力をどれだけ適切に扱えるかは育った環境の影響は大きい。帝王学みたいなものの重要性も最近は感じるようになった。僕はあくまで庶民だから、身の丈に合わない武器を振るう前に、適切に振るう為のトレーニングをしながら徐々に自分に馴染ませていかないと危ないと自戒している。

作品性への拘り

もう一つ、これはオールドタイプな拘りであり、弱みにもなりうると思っている話だが、僕は自分の文章に対して「作品性」を感じていることに気付いた。文章を単に他者に何かを伝えるためだけの手段ではなく、自分の作品だとも考えているのだ。実際、説明のためのドキュメントに生成AIを使うことには抵抗感が無い。

そして、文を書くこと自体が好きであるということだ。これは自動運転よりも自分で運転したいとか、自分で料理したい、みたいな話にも似ている。

自分が好きな行為にテクノロジーの支援を受ける場合、それでも楽しめるかどうか、その成果物が自分の作品だと思えるかどうかが肝になる。テクノロジーの支援は受けて当然だ。僕だって眼鏡やPCが無いと文章は書けない。最近はtextlintで校正をかけることもある。今更、裸眼で原稿用紙に筆で文章を書けと言われたって、生産性はがた落ちするし、逆に楽しめないだろう。

眼鏡とPCを使って書き上げた文章は「僕の文章」だと胸を張って言える。だから、生成AIというテクノロジーを使って文章を書き上げたとしても、それが自分の文章だと実感できるのであれば、僕としても問題ない。今は僕がそう思えないだけで、将来的にはそうなっていくのだとも。

そこの時計の針を無理して早く進める必要はないし、徒に早め過ぎない方が良いと思っている。文章作成に生成AIを活用している人は増えているが、適応速度には個人差がある。それに、生成AIでの文章作成を使いこなしているつもりでも、「AI臭さ」を全然隠せていない人は数多く存在する。

これは、強力な武器を自分のモノとできておらず、振り回されていることに気付いていないということだ。これは僕が作品性に拘るがゆえ、そこを過剰に感じ取って課題意識を感じてしまう部分はあるだろう。別にAI臭くたって、伝われば問題無いという考え方もある。しかし、僕としては、そういった事例を見るにつけ、生成AIを自分の活動に対して慎重に適用していきたいと思うのだ。

ワープロ黎明期における作家の適応

ワープロの登場は、特に文筆業にとって、破壊的イノベーションだったことは想像に難くない。しかし、その当時も現役だった栗本薫先生と夢枕獏先生、両者とも同世代で共に驚異的な多作で知られる作家だが、ワープロに対するスタンスは正反対であった。

栗本先生はワープロをいち早く導入し「ワープロの導入によって、1時間に原稿用紙換算で50枚は書けるようになった。やっと自分の思考スピードに執筆スピードが追いつくようになってきた」などと嘯き、方や夢枕先生は「ワープロなどなくても、手書きでも1時間で原稿用紙12, 3枚は書けるから問題ない」などと豪語していた。両方とんでもない話である。夢枕先生は現在でも原稿用紙手書きで執筆していることで有名である。

両先生の話とも、あとがきなりエッセイなりで読んだと記憶しているが、出典をもはや覚えていないので、分かる方がいたら教えて欲しい。夢枕先生についてはトーンは少し違うが、先生の公式サイトで以下の記事を発見した。SF作家達のワープロ黎明期の様子が書かれた面白い記事だが、その中に時速でおよそ一〇枚くらいにはなるとの記載がある。

《第12回》~パソコン指一本でやってます~

夢枕先生はワープロというテクノロジーを使わずとも第一線で活躍を続けている。芸人でも爆笑問題の二人は太田さんは携帯電話自体持っていなかったり、田中さんはガラケーを使い続けていることで知られていた。方やオードリーの若林さんはChatGPTをバリバリ使っていることが最近話題だ。

これらは極端な例ではあるが、だからこそ、そういったテクノロジーにどのように適応するかは、人それぞれグラデーションがあるということだ。新しい革新的な道具をどのように自分に馴染ませるか、場合によっては使わなくも良いかも知れない、ということ。両極端になるほど難易度も希少性も高いのも同じである。

手段に誇りを持つ職人達

AIによるジュニアプログラマ不要論が論じられる事があるが、僕は反対の立場で、ティム・オライリー氏やSteve Yegge氏が書いたように、むしろシニアで昔のやり方に固執する頑固なプログラマが淘汰され、新しい物への適応が早い若いプログラマの方が生存しやすいだろう、という意見に同意する。

そして、昔のやり方にとどまり続ける事を一定肯定するような僕の発言は、オールドタイプで淘汰されかねない感性だと思う。作品性への「拘り」はまさしく古くさい頑固さだ。

ただ、同時に、AIの時代だからこそ「自分がやりたいこと」を見失わずに大事にした方が良いのではないか。目先の生産性のために自分のやりたいことをAIに全て明け渡す必要はないのだ。

AIをある領域に適用しようとする場合、その適用領域を単なる手段と捉えているか、目的とも捉えているかのスタンスの違いによる議論のすれ違いが良く発生する。例えば、絵や文章を単なる情報伝達の手段として捉えるか、創作自体も目的なのか、移動手段としての自動車なのか、それとも運転も楽しみたいか、課題解決の手段としてのプログラミングなのか、それともそれ自体も楽しいかどうか、そういった観点の違いである。

AI適用に限らず、ある領域を単なる手段とだけ捉えている人が、それが目的となっている人、その領域のプロフェッショナルのプライドを図らずも毀損してしまうことがある。そこには気をつけたい。

手段を目的化しているような人、その領域そのものに誇りを持っている職人がいるからこそ、技芸が発展してきた。テクノロジーの介在が増えることで、あり方は変化することはあれど、そういう人達がいなくなるとテクノロジーも空洞化してしまう。そこには敬意を払って尊重したいところだ。

他領域への敬意が充分かどうかの懸念

とは言え、僕にしても、絵を描くこと自体への興味が薄いので、画像に対する生成AIを気軽に、迂闊に利用してしまっている自覚がある。最近は趣味のOSSやポッドキャストのアイコン画像を生成AIに作らせているが、これは手段に拘りが無いからこそ、それっぽい絵が生成されたら、目的が何となく達成された気になって満足してしまうのだ。

気をつけてはいるつもりだが、これをイラストレーターへの敬意に欠けた行為だと感じる方もいるだろう。それと同時に、僕はいわゆるジブリ風の生成には抵抗感を感じている。これはジブリ公式がバズらせようとして推奨するならともかく、今はそうではないからだ。これらも結局、個人の線引きの話でしかない。

絵の世界においてAIへの反発は強めの傾向があるし、それについては散々語られているだろうし、僕は門外漢なので多くを語れる立場に無い。少しだけ書くと、おそらく絵の世界は、実用性に加えて作品性がより重んじられる価値観で、そこに誇りを持っている人達がいることや、そもそも生活がかかっていたり、それに加えて買い叩かれてきた歴史があるから、防御的に過敏になっている、といったところに大きな要因があるのだと考えている。

ただ、ワープロと同様、絵の世界でもデジタル作画が徐々に受け入れられてきた様に、AIも徐々に受け入れられていくことにはなるでしょう。多くのドローソフトやペイントソフトが既に何らかのAI的な機能を搭載しているという指摘もよく目にします。

楽しいことは人間がやろう

話を戻すが、これから色々なことをAIやロボットがやってくれるようになっていくからこそ、人間は自分の活動や行為に楽しみや充実感を感じるかがより大事になってくるのではないか。

様々な問題解決がやりやすくなっているから、未来を向いてしまいがちになる。未来もとても大切だ。解決すべき社会課題はたくさんある。ただ、そういう過剰な情報に惑わされず、今を幸せに生きること、手段を目的化することも大事なのではないか。未来を犠牲にして今を生きるのも良くないが、今を犠牲にして未来のために生きているつもりになるのも同様に嬉しくない。面白みを感じながら価値を創出ことが大切だ。

行為を楽しむこと。馬で移動する人や地域は少なくなったが、趣味としての乗馬や、競馬の騎手は存在する。自動車も自動運転になっていくだろうが、自動車レースドライバーは残るだろう。一般人が料理する時間は徐々に減っていくだろうが、生活の楽しみとしての料理は無くならないし、料理人も残る。作家も残る。

プログラミングにしたって競技プログラミングは残る可能性は高いし、ソフトウェアにしたって、僕はここも個性や作品性が大事な領域だとも思っている。なので、単に競技性だけではなく実用性も両立した形で、人間によるプログラミングやソフトウェア開発は残るでしょう。

マインスイーパーを遊びたいのが人間

「AIがマインスイーパーの途中経過を解いてくれるので、最後に残った運ゲーの部分の決断をするのが人間の役目になる」などとまことしやかに語られることがあるが、全然そんなことはない。むしろ、マインスイーパーの過程を遊んで楽しむのが人間の役目で、最後の運ゲーの部分が本当にランダムなら、そここそAIが勝手にやってくれる方が良い。

なんなら、マインスイーパーはtakesakoさんが13年目にPerlで自動で解かせている。それでも人類はマインスイーパーで遊んでいるのだ。楽しいかどうかが大切だ。以下のLTは必見だ。

www.youtube.com

人類の強みは変化力と適応力

プログラミングやソフトウェア開発は残ると書いたが、先のティム・オライリー氏のエントリーにもあった通り、プログラミングのあり方はたびたび大きく変容してきたし、AIによって、また再発明される。そうなっても、プログラミングが楽しい物であり続けて欲しいし、人間も面白みを感じられるように適応していく必要があるが、自然と適応していくとも思う。これまでもそうだったし、人類はその知能に加えて変化力と適応力を強みとする生物だからだ。

多くの仕事はなくなるし、変化への適応は必要だ。別に悲観する必要はない。これまでもそうだった。残念ながら(?)、人類が仕事を発明する創造性を舐めてはいけない。多くの仕事が失われたが、多くの人が今も働いている。8時間労働という上限制約設けてもなお、その上限いっぱいか、それ以上働いているのだ。コンテナ物語は、沖仲仕という港湾労働者がいなくなっていく過程が書かれている本だ。物理コンテナの規格化のどたばた話を含め、ソフトウェアコンテナを扱う我々も是非読んでおきたい本だ。

僕としては、AIやロボット技術の発達によって、人が苦痛に感じる仕事が減り、楽しめる仕事、充実感を感じる仕事の割合が増えることを期待している。

また、マクロな視点で見ると、世界において、衣・食・住の総量は大体足りている。今の世界の労働量でそれが賄えており、AIによって省力化が進んでも、その供給量が変わらないのであれば、生活に困る人が増えることにはならない。ただ、それが上手く分配できていないことが現在の貧困の大きな原因の一つだ。そこもAIによって是正が進み、困窮している人が減ることを期待している。

そうなると、人類に残された大きな問題は、エネルギー問題と気候変動である。個人的にはAIの電力消費による「地球を燃やしすぎ」問題には個人的に勝手に頭を悩ませている。地球の寿命を縮めてすぎていないかということだ。遅かれ早かれ、いつかは地球は無くなるが、この点が今のLLMやAIを個人的に肯定しきれない小骨のような存在になっている。

AIという猛獣をどう飼い馴らすか、もしくは共存するか

このエントリーは当然ながら生成AIの力を借りていない。だからこそ、AIに思い付くままに生成させたような、冗長な文章を書きたくないと思っていたが、結局こんな散らかったなってしまった。これもまた、AIに振り回されていると言えるかも知れない。

結局、人類は今、AIという猛獣に踊らされている。この狂騒劇がそれを物語っている。それぞれが飼い馴らし方や共存方法を模索し、それぞれの意見を言い合っている。この状況はまだまだ続くだろう。僕もまだ、その猛獣に食われるリスクを恐れて適用に及び腰になっているということだ。

そんな中だからこそ、人類が自分を見失わないこと、人生を楽しむこと、未来の可能性を信じる事、そういった根源的な哲学が大事なのだと考えている。




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