
はじめに
こんにちは、コンピューティング研究所の辻です。私は、富士通スモールリサーチラボ(以下、富士通SRL)という産学連携の取り組みで、広島大学に常駐して共同研究に従事しています。広島大学SRLでは、量子化学計算の高速化について研究しています。量子化学は、電子状態を考慮することで分子構造の最適化や物性予測の精度を大幅に向上させられますが、計算量が極めて大きいという課題があります。情報科学と化学という異なる専門分野にまたがるハードなテーマですが、組織的な連携を強化した富士通SRLの仕組みを活かして、理論的な枠組みの理解から並列アルゴリズムの考案・効率的な計算の実装まで一気通貫で取り組んでいます。今回は、開設から3年目となる広島大学SRLがGPUを用いてフルスクラッチで研究開発した量子化学計算ソフトウェア「GANSU」のOSS公開についてご紹介します。本研究成果は、2025年3月17日に広島大学からプレスリリースとして公開されました。
富士通スモールリサーチラボ
富士通SRLは、2022年から始まった組織的な産学連携の取り組みであり、投稿時点では国内13大学・海外4大学に展開されています。各大学に富士通のラボを開設し、そこに研究員が常駐して大学の先生や学生と協力してスムーズな共同研究を推進するという点が大きな特徴です。各SRLでは、その拠点で双方の人材育成を強化しながら、異分野融合をテーマに幅広い研究活動が進められています。私は入社2年目から広島大学に赴任して、量子化学やGPUコンピューティングなどを基礎から学び始めました。私はこの機会を活かして博士号の取得を目指していて、研究室の学生と一緒に毎週進捗を報告するというSRLならではの社会人博士生活をしています。
広島大学では、富士通SRLの拠点として2022年11月に富士通次世代コンピューティング共同研究講座が設置されました。当共同研究講座では、数理最適化や並列処理などを得意とする先進理工系科学研究科の中野浩嗣教授、伊藤靖朗教授、Victor Parque准教授のもとで量子化学計算の高速化に取り組んでいます。これまで馴染みのなかった分野の研究開発に正面から取り組むにあたって大学の存在は大きく、産学連携の力を実感しています。

量子化学計算とは?
概要
量子化学は、量子力学に基づいて分子のエネルギーや電子構造を理論的に求める計算化学の一分野です。その中でも、シュレディンガー方程式に基づいて過去のデータや経験則に依存しない理論的なアプローチは第一原理計算と呼ばれ、原子・電子レベルの高精度な分子シミュレーションを実現することができます。量子化学計算は、創薬分野における医薬品候補化合物のスクリーニングや触媒活性の予測による材料開発など、その応用範囲は多岐にわたります。またコンピュータ・シミュレーションによって、毒性のある物質を扱うような危険な実験を回避したり、実験的なアプローチの結果を理論的に説明・補完するといった活用方法も考えられます。
量子化学の代表的な計算手法には、平均場近似を用いてシュレディンガー方程式を数値的に解くハートリーフォック法や電子相関を考慮したポストハートリーフォック法と、コーンシャム方程式に基づいた密度汎関数理論(DFT)などがあります。いずれの手法も基本的には、対象分子に含まれる原子の座標と、電子の軌道を近似する基底関数と呼ばれるパラメータを入力として、数値計算によってエネルギーや電子の軌道を求めることができます。

量子化学計算では、出力のエネルギーなどを用いて分子構造の予測をすることもできます。例えば水素のような二原子分子の原子間距離は、エネルギーを計算・プロットしたポテンシャルエネルギー曲線によって求められます。下記の例では、エネルギーが最小となる原子間距離が最も安定な状態であり、基底状態の原子間距離がオングストロームであることが計算によってわかります。

量子化学計算の課題
しかしこのように強力な量子化学計算ですが、計算量が極めて大きいという課題があり、特に大きい分子や高精度な手法によっては現実的な時間で計算が終わらないという問題が実用化を妨げています。量子化学計算では、入力となる原子のリストから、各原子核の周りに分布する電子の軌道を基底関数として表します。対象とする系の大きさは基底関数の数によって決まり、これは原子数や原子番号に応じて増加します。そして計算量は時間・空間ともに、最も基本的なハートリーフォック法でも
、厳密解を求める完全配置間相互作用法(Full-CI)では
となります。さらに周期の大きい原子が含まれる系ほど、原子や電子間のクーロン相互作用に関する分子積分が複雑化するということも高速化を阻む要因となっています。

従来の量子化学計算ソフトウェアは長年の開発によって多機能化が進む一方で、膨大な計算手法やアルゴリズム・実行オプションを備えた巨大なパッケージとなっており、プログラムの一部を書き換える表面的な改善では根本的な高速化が困難となっています。また、最新のプロセッサやアクセラレータへの最適化は一部の計算手法に限られており、計算機の性能をあまり引き出せていないことが多いという課題も残されています。
GANSU: GPU Accelerated Numerical Simulation Utility
そこで広島大学SRLでは、シュレディンガー方程式からエネルギー計算に至るまでの理論的な枠組みを理解し、アーキテクチャに最適化されたアルゴリズムで計算カーネルを刷新して、上記の課題を解決することを目指しています。広島大学と共同でゼロから研究開発したGANSUは、GPUの並列計算アーキテクチャを最大限活用することで高速な量子化学計算を実現しました。特に、ハートリーフォック法におけるボトルネックである分子積分を効率よく計算する並列アルゴリズムを提案することで、既存のソフトウェアに対して最大7.1倍の高速化を達成しています。ハートリーフォック法だけでも、一電子積分や二電子積分などの分子積分、SCFアルゴリズムといった計算負荷の大きい処理がいくつもあり、これらの実装を部分的に改善するアプローチでは全体として大きな高速化効果は得られません。GANSUでは、計算に必要なデータをほぼ全てGPUメモリに格納し、行列計算などをGPU上で完結させることでデータ転送のオーバーヘッドも大幅に削減しています。


GANSUの公開時点ではハートリーフォック法のみ実装されていますが、今後は空間計算量を削減できる計算手法を用いた大規模分子への対応や、電子励起を考慮したポストハートリーフォック法のGPU実装も予定されています。さらにOSSとして公開することで一般利用可能となり、ユーザはGANSUのインターフェースを通じて今後の研究成果を容易に活用できるようになることが期待されます。量子化学計算は、専門性の違いから情報系の研究者やエンジニアの参入が少ない現状がありますが、研究成果をOSSにすることでコミュニティの拡大も目指しています。
おわりに
GANSUと言う名称は、魚のすり身を揚げた「がんす」という広島の名物にちなんで名付けられました。広島に根付いたOSSとして多くの人に親しまれるように、今後も機能拡張・改善を継続してさらに実用的な量子化学計算ソフトウェアを目指していきます。富士通SRLでは単なる共同研究にとどまらず、学生や富士通の研究員などが同じ環境で刺激し合うことで、双方の人材育成を強化するねらいもあります。今回のGANSUに関する研究成果は、学生を含めて国際会議でのBest Paper Awardを3件受賞するなど、富士通SRLの産学連携によって学術的な貢献を生み出す人材育成の環境を実現できたひとつの例ではないでしょうか。この環境を継続・拡大できるように努めたいと思います。
References
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リンク
- GANSUのGitHubリポジトリ:https://github.com/Yasuaki-Ito/GANSU
- 広島大学 先進理工系科学研究科 コンピュータシステム研究室:https://cs.iss-j.org/
- 広島大学 先進理工系科学研究科 知的システム研究室:https://www.emb.hiroshima-u.ac.jp/
- 富士通次世代コンピューティング共同研究講座:https://nextgen-computing.hiroshima-u.ac.jp/