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個人的な「セカイ系」備忘録(『エヴァ』-『ハルヒ』まで)

0.お断り

セカイ系について詳しいよ!

→備忘録なので特に真新しいものがありません。寧ろいろいろとお話聞かせて下さい。僕には友達がいないので、きっと喜びます。

セカイ系について知りたいから開いたよ!

→こんなの読むよりこの辺のを買った方がいいと思います。

  • ノーブランド品

 

 

Q.こんな手垢のついたものをなんで今さらになって公開するの?

→あくまで個人的メモ。何かアウトプットしないと数年後には死ぬ気がするから。

Q.メモなら公開する必要がないのでは?

→自己顕示欲は致死量の猛毒。友達が欲しい。

 

 

1.概要 

 ゼロ年代にいわゆるオタクを筆頭としたサブカルチャー文学を賑わせた「セカイ系」という言葉があった。1995年放送のアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』に端を発したと言われるこれは、「小規模な主人公とヒロインの関係」(「きみとぼく」などと呼称される)を、「社会や国家のような中間項の描写を挟むことなく」、「破滅に向かう世界」に対してどのように立ち向かうかという、自意識を強く描写したものとして膾炙が進んだものである。

 ゼロ年代を特徴づけるかのようにインターネット発のこの言葉は、評論・文壇に上がり活字になるに連れて熱を帯び、やがてはストーリーのジャンルのみならず特定の世界観の空気を表す言葉として、賛美・否定両方の意味合いを持ちながら使用されていくこととなる。

 このような状況からセカイ系というタームは、ゼロ年代サブカルチャーにおける議論として頻繁に論じられており、前島賢セカイ系とは何か』を筆頭に、その系譜にどのような作品・議論があるか、何故消費者に必要とされたのか、という点についてはある程度明文化がなされている一方、定義については未だ錯綜していると言わざるを得ないのが現状である。

 

1-1.セカイ系の拡散者・東浩紀と批判者・宇野常寛

 セカイ系」という言葉を明確に定義するには非常に困難を要する。東浩紀大きな物語の瓦解を背景に概ねセカイ系に関して肯定的と言われており、彼の定義は多くの評論家たちの座標となり、やがてゼロ年代においてセカイ系オタク評論の中心を占めるまでに至った。他方でこの時代の後に出てきた宇野常寛は、『ゼロ年代の想像力』のなかで東とその系譜を継ぐ批評家たちを槍玉に挙げ、彼らのせいで批評に思考停止が起こり、「この国の『批評』は完全に時代に追い抜かれた」と舌鋒鋭く批判していることでもまた知られている。そしてその宇野はセカイ系を原義的には「結末でアスカに振られないエヴァ」であるとした*1。その上で、従来の東らが提唱した論に端を発し、『エヴァ』以降の「セカイ系」を愛好するオタクが持っていた自閉的な性質を、「自己を母親として全承認してくれる異性の所有」「女性差別的」「レイプ・ファンタジー」などとわざわざ暴力的な言葉を用いてまで、徹底的に進歩のないものとして唾棄する。

 この東、宇野の対立は、東以降オタク評論の大家がいないと言われていた界隈を大きく賑わせた。宇野が『ゼロ年代の想像力』を発表しはじめた2007年には既にセカイ系の作品そのものが下火になっていたにもかかわらず、この対立構図が生まれたことにより批評間においてのみ用いられ過熱していくという奇妙な様相を呈した。そして両者もまた、自分からリングに上がっていくかのようにして侃侃諤諤の議論を交わすことに乗り気だったのである。

 この状況が意味するのは、「純粋に物語のプロットとしてのセカイ系」と「批評に用いられた道具としてのセカイ系」が双方存在することである。しかも、両者の時間軸はややずれている。前者は『エヴァ』が生まれた1995年から、せいぜいライトノベルブームのさなかで『涼宮ハルヒの憂鬱』が絶大な影響を誇った2006年ごろまでだろう。対して後者は、セカイ系の批評については東らの主張が長らく論壇を支配してきた。そこに対抗馬として現れたのが宇野なのだが、先述のとおり宇野が『ゼロ年代の想像力』を著しはじめた2007年以降であり、僅かにゼロ年代の半ばで掠る程度なのだ。私は、セカイ系の定義が混乱をきたす理由は、間違いなく「セカイ系」という言葉が孕むこの両義性にあると思う。よってここでは、「物語のセカイ系」と「批評のセカイ系」の両者を識別し、それぞれの経緯を追っていく必要があるだろう。

 

2. セカイ系の原点とは

2ー1.セカイ系という言葉の誕生

 先ほど示したように、特異な体系を持つセカイ系を説明するにあたり何から始めるのが相応しいのか。

 「セカイ系」という言葉は、2002年に個人サイト「ぷるにえブックマーク」の管理人であったユーザー・ぷるにえが造語したものである。既に指摘されていることであるが、これは当初単に「エヴァっぽい」世界観(一人語りを多分に描写する)ないし、高々自分の中の世界でしかないものをさも壮大に語る行為を揶揄するものとして生まれたものであり、けして予め深い含みを持たせたものではない。つまり、個人ブログの大して意味を持たせずに誕生した造語が、消費者ないし批評家の的を射た表現だとしてここまで市民権を得るに至ったのである。つまり、セカイ系の出発点は『エヴァ』であり、内面の誇大な描写なしには語れない。よって本論では、これを原点とみなしセカイ系を定義する。

 また、ここから派生して前島は「『新世紀エヴァンゲリオン』の影響を受け、90年代後半からゼロ年代に作られた、巨大ロボットや戦闘美少女、探偵など、オタク文化と親和性の高い要素やジャンルコードを作中に導入した上で、若者(特に男性)の自意識を描写する作品群」と説明しており、セカイ系が時代とともに変遷していたことを是認した上で俯瞰して見ると、この主張は的を射ているように思える。

 また、これら既存の情報に加えてここでは「セカイ」という単語がどこから引用されてきたかということを提示しておきたい。ぷるにえは本来「槻矢いくむ」などの名義でジュブナイルポルノ作家を営んでいた人物であり、その消息並びにセカイ系への言及は「とかたきくちる」名義で開設しているX(旧:Twitter)アカウントでも確認することができる。調べる限りでは、「セカイ」を造語した原点は評論家・切通理作よるものが大きいようである。

 彼の代表的な著書に、評論集『お前がセカイを殺したいなら』がある。作中には「セカイへと橋をかける試み」という表現が見られる通り、「セカイ」を概念的な文脈として取り入れようとしている。他にも切通は『ある朝、セカイは死んでいた』『情緒論 セカイをそのまま見るということ』といった意図的に「セカイ」というタームを使用した評論を執筆しており、さらには『ぼくの命を救ってくれなかったエヴァへ』というエヴァンゲリオンに言及したものもある。これらを鑑みれば、ぷるにえ以前に「セカイ」という言葉をより空想的なものへと敷衍し、セカイ系の原型を築いた人物と言えるだろう。

 また余談になるが、ぷるにえはもう一つ副次的に「セカイ」のヒントを得ているようで、それが2000年にリリースされた声優・堀江由衣のアルバム「水たまりに映るセカイ」である。堀江はゼロ年代以降飛躍的に出演数を増やし時代を代表する声優として君臨したが、ぷるにえはこのアルバムを聴いたことがないと述べており、こちらは単にそれらしい言葉を借用しただけと解釈するのが妥当だろう。

 

2-2.『新世紀エヴァンゲリオンの顛末』とその多大なる影響

2-2-1.理想としてのエヴァンゲリオン

 セカイ系」というコンテンツについて触れる際、どんな定義があろうとまず避けて通れないのは『新世紀エヴァンゲリオン』(以下『エヴァ』と表記)である。『機動戦士ガンダム』のような従来のロボットアニメシリーズと雰囲気を異にする当作は、後のオタク評論が活性化する大きな契機となった。例えば、東浩紀は『動物化するポストモダン』の中で大塚英二の『ガンダム』を筆頭とした「大きな物語」を引き合いに出し、『エヴァ』のファンが求めた「主人公の設定に感情移入したり、ヒロインのエロティックなイラストを描いたり、巨大ロボットのフィギュアを作ることだけのための細々とした設定」といった虚構の物語性を、「大きな非物語」と名付けた。そしてこれが東の提唱する、「消費者は物語の世界観を重要視しているのではなく、「キャラ萌え」のようなパーツごとの情報を主体として消費している」とする「データベース消費」へと繋がっていくこととなる。

 ただし、『エヴァ』が初めからそうした「データベース消費」を行おうとしているオタクを対象としていたのではなく、寧ろ当初は『ガンダム』のように「大きな物語」の展開を前提としたうえでオマージュを多分に含み、旧来のオタクに訴求するように作られていたため、二面性を孕んでいる、と主張するのが先程も挙げた前島の論である。

 この「旧来のオタク」に相当するものについて前島はいわゆる「オタク第一世代」に当たる岡田斗司夫の『オタク学入門』の中のオタク像を引き合いに出し、「映像の時代に過剰適応した視力」「引用や『パクリ』を発見できる能力」を挙げる。このうち後者が分かりやすいと思うのでそこから『エヴァ』を見てみると、登場人物の名前は村上龍『愛と幻想のファシズム』が由来になっていたり、作品に頻出する「人類補完計画」なる単語はコードウェイナー・スミスの、最終話のタイトルである「世界の中心でアイを叫んだけもの」はハーラン・エリスンSF小説が由来になっていたりと、「映像作品の中から、引用や『パクリ』」を含む要素は枚挙に暇がないほど存在する。

 つまり、当初『エヴァ』というのは寧ろ由緒正しい「オタク向けのロボットアニメ」といった具合で、当初はそうした消費者層におおむね好評を博した。また、ササキバラ・ゴウの論によれば、そもそも『エヴァ』を制作したガイナックスという会社はそうした「マニアック」な人物が多いと言い、本来オタクである消費者層がプロシューマ―(生産と消費を同時に行う存在)となって制作していたものと考えられる。

 

2-2ー2.誤算としてのエヴァンゲリオンと、その反響

 では、何故『エヴァ』が旧来のオタクの価値観を廃し、「セカイ系」という新しいタームを切り開くきっかけになったのか。それは元を辿れば、スケジュールの破綻により方向転換せざるを得なかったことにあるという。

 以下は1997年に出版された『庵野秀明 パラノ・エヴァンゲリオン』に収録されている著者の竹熊健太郎と周知の通り『エヴァ』の監督である庵野秀明の対談であるが、その時の様子を一部抜粋する。

 

竹熊「本放送の時点で12話くらいしか出来てなかったと云う話ですが」

庵野「ええ、それも作画が出来たっていうだけでフィルムとして完成しといたのは僅か数本」

竹熊「もうその時点でやばっかたわけですね、かなり」

庵野「そうです。一年半から二年かけて12本ですから残り半年(放送期間)でもう14本。1/3から1/4のスケジュールで後はやらなきゃいけない」

竹熊「エヴァのファーストCDの解説で庵野さんはじめスタッフの皆さんがパニクッてる、というのを書いてるじゃないですか。皆さん悲壮な事を書いてますよね(笑)我々には本当に時間がないとか、オンエアの始まった日とか、これは相当切羽詰まってるなと思った」

庵野「オンエアが始まった時にもう崩壊が見えていた(笑)」

竹熊「その時に大規模な戦闘シーンが後何回しか出来ないってもう読めた?」

庵野「そうですね。25話では大規模な戦闘シーンを予定していたんですが19話の作業前にもう無理だって事が分かった。戦闘シーンが出来ないんですよ。それで戦闘シーンを外したプロットで出来るか検討してみたけど無理で、戦闘シーンはもう台詞で見せるか、リピートなへなちょこな絵で見せるしか方法はなかった。もうダメだっていうのが僕の中にありましたから」

 

 と、このように19話辺りからどんどん現場が逼迫し、当初想定していた消費者のニーズにまとも沿えるようなことができなくなってしまっていたことが伺える。さらに同書に収録されているプロデューサー・大月俊倫の話によれば、25話に取り掛かる手前辺りで庵野は制作から降りたいと語っていた。そこで大月は庵野に求められ自らが窮地に陥った際の原体験を聞かせたところ、庵野は立ち直り「やる」と言い出したのだという。これに関して大月は「よっぽど嬉しかったんでしょうね。人の悲惨な話聞くのが(笑)」と述べており、ある種『エヴァ』のエッセンスは庵野秀明の持つこういった部分に凝縮されていると言っても過言ではない。

 ともかく、そうした現場事情もあり、終盤以降『エヴァ』の映像作品としてのクオリティは大きく低下した。その結果どうなったかと言えば、それまで消費者に訴求していた細部の設定や謎の一切をかなぐり捨て、主人公の内面を描写するという方向性へのシフトである。

 この結果「人類補完計画」などといった作中に残された重要なワードは一切省みられることはなく、最後は主人公・碇シンジがただ一人の自己葛藤の末に自分を肯定し、仮想空間のような風景の下、他の登場人物たちに「おめでとう」と祝福される光景で幕を閉じる。

 この一見意味不明な結末には当時の視聴者から批判が殺到した。特に取り上げられるのが、オタク第一世代に数えられ、先述の「大きな物語」論の提唱者である大塚の論である。大塚はそのラストシーンが「自己啓発セミナーのカリキュラムの最後と見事に同じ」「彼らは自らの「全体性」への渇望と、同じにそれを統合する「超越性」を提示する能力を彼らが欠いていることを無惨にも顕わにした」とその物語性を酷評している*2

 だが他方で、当時オタク第二世代として頭角を現していた東浩紀は物語性を廃した言説を行った。「後半の庵野は妥協がない。通常数話を要するエピソードを、彼は、早いシーン転換とわずか数コマのカットの多用、演出上の省略と難解な台詞により一話に凝縮してしまう」と映像へ向けたフォーカスを行う。増田聡はこの大塚・東両者の言説を比較したうえで、東の論を「映像を物語ではなくテクストとして読む観点をもつという点において、アカデミックな映像把握の視点と共通性を持つからではないか」と論じている。

 こうした批評家たちによる幾度もの議論を経て、果たして庵野の選択とは終盤で行ったキャラクターの内面性をさらに描くという行為であった。それを象徴するのがテレビ版の翌年(1997)にシリーズ完結の劇場版として公開された『Air/まごころを君に』(以下、英題の『The End of Evangelion』の略称に由来した通称で『EOE』と表記)である。これは特に時間が足りなかったという25,26話をリメイクしたものであるが、十分な納期があったにもかかわらず、相変わらず碇シンジの葛藤を描いていることに変わりはない。さらにその上で、シンジがヒロインの一人である惣流・アスカ・ラングレーを想い自慰行為に耽るシーンや、そのアスカの「気持ち悪い」というセリフで終幕するシーンなど、寧ろ結末は「悪化」しているといってよい。そして当然、テレビ版の前半で散りばめていた謎や設定も何ら回収されることなくシリーズが完結しまう。

 こうした展開について前島は、このような作品的展開の破綻こそが却って『エヴァ』を「オタク向けアニメを越えた社会的大ヒット作」にした原因であると言い、また終盤で庵野の内面を描いたことが皮肉にも共感性を呼んでしまい、内省・自分探しの時代だった1990年代を象徴する出来事であるとしている。

 また、『Air』で庵野と共に監督を務めた鶴巻和哉は、『EOE』のパンフレットの中でこう述べている。

 

「例えばね、庵野秀明は『アニメファンは内側向いていてイカン』ていうじゃないですか。『もっと、外へ出て行かないと』って。それで言えば、アニメファンじゃない人が観てくれるというのは、嬉しい事のはずなんですよね。でも、結局のところ『エヴァンゲリオン』+『エヴァンゲリオン』に関する庵野秀明のコメントっていうのは、彼自身を含めた、もちろん僕め含めたアニメファンに向けてのメッセージなんです。実はアニメファン以外の人が観てもしょうがない。普通に生活できて、普通にコミュニケーションとれてる人が観ても仕方ない作品なんですよ」

 

 鶴巻の発言を見るに、庵野の内面を描いたという点については、オタク文化のプロシューマ―であるガイナックスという集団のメンバーの一人という視点から見ても、庵野のオタク観が多く含まれていたことが是認できよう。即ち、「内面」としての『エヴァ』は、「オタク(庵野)が自省を込めてオタク向けに作った、オタクのための作品」と言えるのではないだろうか。

 

 以上の『エヴァ』を巡る一連の流れを踏まえると、前島の主張を借りれば、セカイ系の出発点とは「"終盤の"『エヴァ』」であると分かる。セカイ系発案者であるぷるにえの「エヴァっぽい」という言葉は、このような「終盤の『エヴァ』」で展開される自意識に大きくフォーカスしたものであった。こういった自意識の過剰なまでの描写は、以降当時過熱していた美少女ゲームライトノベルといった媒体に伝染し、ゼロ年代前半にさらなる解釈を生むこととなる。

 

3. 「アフターエヴァ」の流行――美少女ゲームを例に

 ここまで述べてきた通り、『エヴァ』という存在とその顛末は、消費者としてのオタク像にも、評論としてのオタク像にもあまりにも大きな影響を与えることとなった。ここではそうしたイデオロギーを「アフターエヴァ」と呼称しているが、まず、それを醸成したものとして挙げていかなければならないのは「美少女ゲーム」という存在である。

 

3-1.美少女ゲームとは?

 「美少女ゲーム」とは、主人公の視点を通して、美少女キャラクターとの恋愛をシミュレーション的に描き出したゲームのことである。その作品の大半は主人公とヒロインの性行為を始めとしたポルノ要素を含んでいることが多いが、ここではそうした要素は重要ではない。見るべきは、その画面形式とシステムである。

 美少女ゲームは、ヒロインを主体とした一枚絵の中にテキストウィンドウが並び、会話ないしストーリーが進んでいくという形式をとる。そしてある程度会話が進むと主人公の行動を規定する選択肢が現れ、どのヒロインと恋愛をするか、また物語をどのような結末にするかという選択を迫られることとなる(俗にこの選択肢のことを「分岐」、その分岐を経た先の結末を「ルート」と呼ぶ)。

 こうして概要を見た時に、「ゲーム」と名付けられてこそいるものの美少女ゲームにその要素は皆無に等しい。たまに選択肢を迫られること以外は、美少女を中心として映されるテキストを読む行為が大半を占める(さらにその選択肢すらほとんどない、あるいは意味をなさないという作品がセカイ系美少女ゲームには散見される)。これはイラストと口語調の文章が特徴として挙げられるライトノベルの形式と非常によく似ており、東浩紀もこの行為を「プレイというより読書」であり、そのためライトノベルのユーザーと被っているとも述べている。

 

3-2.Leafがもたらした「美少女ゲーム」の転換点

 つまり、後半の『エヴァ』がもたらした自意識の描写と、データベース消費的なヒロインの存在を抽出したものが当時の『美少女ゲーム』ブームの背景にあったと言える。こうした要素を先導したのがゲームブランド「Leaf」であった。サウンドノベルゲーム『弟切草』の手法を根底に敷いた『雫』(1996)とその続編である『痕』(1996)はサスペンスタッチでシリアスなものだが、そのシナリオとキャラクターが大きく評価され、従来の美少女ゲームのイメージを一変させたと言われる。つまり、それまで性的消費の道具でしかなかった美少女ゲームは、オタクの間の「読み物」と化したのだ。冒頭で「ポルノ要素は重要ではない」と述べたのはそういった事情である。「アフターエヴァ」の美少女ゲームにとって、あくまでポルノ要素は物語を楽しむための歯車でしかないのだ。

 そして3作目の『To Heart』(1998)で「アフターエヴァ」の概念は決定的なものとなる。本作はいわゆる「学園ラブコメ」などと言われる普通の学園生活の中でありふれた恋愛をすることを主題に置いたもので、そこに存在する物語的背景は実に希薄である。そしてキャラについても、例えば東浩紀は『動物化するポストモダン』のなかでデータベース消費を象徴するキャラとして本作に登場するメイドロボ「マルチ」を挙げているほどであり、美少女ゲームにメイドという属性を与えた大きな存在でと述べる。またシナリオライターであり同時代に美少女ゲームのシナリオを手掛けていた元長柾木は、『To Heart』について「ゲームの面白さを感じる部分が、フルサイズのCGが表示されているイベントシーンではなく*3、立ちキャラクターと背景が表示されている日常シーンへ移行した」と評している。なお元長は「セカイ系」という言葉を初めて紙面上に持ち込んだ人物だと言われており、美少女ゲームセカイ系の発達に不可欠だったことが伺えるだろう。

 

3-3.Keyがもたらした「美少女ゲーム」のセカイ系

 そして、この「アフターエヴァ」が持つ日常的描写を取り入れつつも、セカイ系の鍵である自意識というタームを決定的にしたのが、ゲームブランド「key」がリリースした『ONE 〜輝く季節へ〜』(1998)、『Kanon』(1999)、『AIR』(2000)といった作品群である。当作品群は俗に「泣きゲー」などと呼ばれる、プレイヤーに感動させるシナリオであったことが大きく話題を呼んだ。特にこのうち『AIR』については、やはり東浩紀が批評を行い、後続に影響を与えたことで知られている。これらの作品群に共通して言えるのは、東の言葉を借りれば「メタ美少女ゲーム」と言えるものであり、ここに自意識の正体がある。

 この「メタ美少女ゲーム」という言葉を理解するには、東が『ゲーム的リアリズムの誕生』で述べた、同書のタイトルである「ゲーム的リアリズム」について触れなければならない。これについては、北出栞がうまい具合に要約していたので引用させてもらう。

 

 ノベルゲーム*4のプレイ体験における、「プレイヤー」と「主人公」が重なった「コンピュータを介して物語の世界に没入する自分」と「コンピュータを操作している自分」が二重になった感覚は、デジタルテクノロジーとともに暮らす私たちの根底をなすものである。その感覚に批評家・哲学者の東浩紀が与えた名前が「ゲーム的リアリズム」だった。

 

 つまり「ゲーム的リアリズム」とは、プレイヤーとゲーム内の主人公の視点を一体化させることによって、メタ視点的あるいは自己言及的な要素を含んだことを意味している。そしてそれらを内包し、プレイヤーに体験を与えるものの代表格が「メタ美少女ゲーム」なのである。むろん、この法則は美少女ゲーム以外のセカイ系にも流用できる。

 また、ここで北出は東が同書で触れていた「半透明」の文体についても補足している。例えば、よくセカイ系と比較されがちなSF小説は、その背景に膨大な設定や科学考証が存在する。しかしセカイ系はというと「同級生が宇宙人であったり」「学園生活そのものが仮想世界であったり」といったテンプレートさえあれば、たとえそれが曖昧な領域であったとしても、読者側が背景を勝手に補完することができる。そうした中で浮かび上がったのが、現実でも透明でもない「半透明」の文体だとしている。この概念は後述する「三大セカイ系」の説明に当たり北出のキータームともなってくる。

 

3-3-1.『AIR』が生んだ論争

 少し遠回りとなったが、東の『AIR』論は、「評論としてのセカイ系」を形作るにあたり指針となるくらいには重要なので触れておかねばならない。『AIR』は三部作からなるが、そのうち第一部「DREAM」は、主人公・国崎往人(くにさきゆきと)とちょっぴり「不思議ちゃん」なヒロイン・神尾観鈴(かみおみすず)とのひと夏の交流を描く。そして国崎は、友達がおらず家族も母親代わりの伯母しかいない(作中ではこの関係が「家族ごっこ」と呼ばれる)観鈴を満たす存在として交流を深めていく。しかし観鈴は難病を抱えており、その難病の原因が自分にあると知った国崎は神尾家を出る。これにより、「家族ごっこ」という新たな共同体づくりは失敗に終わる。その次の第二部「SUMMER」は第一部の前日譚となっており、平安時代を舞台に、国崎と美鈴が前世でどのような関係があったかということが示唆され、観鈴が1000年前に呪いをかけられた神奈備命(かんなびのみこと)の生まれ変わりであるとプレイヤーは知る。そして物語の核をなすと同時に、これまでの美少女ゲームとは一線を画す第三部「AIR」が重要なポイントである。これは第一部のリプレイ、そしてその後を描いたものとなっており、プレイヤーの視点は国崎ではなく、観鈴が飼い始めたカラスの「そら」にある。つまりプレイヤーは何も物語に介入できず、観鈴が第二部で示された呪いと戦いながら死ぬさまを看取るほかなく、物語は苦い結末を迎える。観鈴を救うルートは存在しない。

 東はこのシナリオを参照して、『AIR』には二度の挫折があるとした。一つは、「『父になりたい』、すなわち、観鈴を救いたい、彼女とコミュニケーションをとりたいという、キャラクター・レベルの素朴な欲望」。もう一つは、「『父にはなれないが、自由にしたい』、(中略)コミュニケーションがとれないがゆえに永遠の少女として所有したいという、プレイヤー・レベルでも否定神学的な欲望」である。このうち前者は第一部、後者は第三部のことを指している。そして第一部では「零落したマッチョイズム」(家父長制補完的な想像力)の脱臼、第三部では「『ダメ』な自己欺瞞」(反家父長制的な想像力に隠れて超家父長制的な欲望を密輸入する構造)を解体するとした。

 このうち前者はこれまでの美少女ゲームと同じシステムなのだからわかりやすい。美少女を保有することによって本来プレイヤーが持たない(=作中の主人公というキャラクターが持つ)「零落したマッチョイズム」、すなわち家父長制的欲求を満たすという欲望のことである。後者についてはやや複雑な書き方だが、美少女ゲームのような「零落したマッチョイズム」を満たすという欲望を持ったプレイヤーの自己嫌悪を投影しているものと言える。すなわち、美少女ゲームをプレイするという行為自体は本来反家父長制的であるにもかかわらず、ヒロインの所有のためにプレイヤーは主人公というキャラクターを通して通常の家父長制的なものを越えた”超”家父長制的な振る舞いをしなければならない。この矛盾により生じた消費者の「自己反省」こそが第三部を形づけるものだと述べている。こうしたプレイヤー視点での自意識の二層性を持った『AIR』の性質を、東は『エヴァ』などの過去作品と比べながら「きわめて批評的なものである」と一定の評価を与えている。

 2004年に『波状言論』内で発表されたこの東の論は新興勢力とされた「セカイ系」の論考を支えるものとして一定の成果を残した。そして先述したようにその僅か前の2002年にはぷるにえの手により「セカイ系」という言葉が生まれたこともあり、この頃になって批評の一貫として受容されるセカイ系が確立されつつあった。

 しかし、2007年頃になってセカイ系そのものを否定する勢力が現れる。その発端となったのが、宇野常寛の著書『ゼロ年代の想像力』であった。

 ただ、ここでは宇野の論を紹介する前に「物語のセカイ系」と「批評のセカイ系」は別物であるという概念をここで再掲しておかねばならない。というのは、一般に物語としてのセカイ系は言葉が生まれて間もない2003年頃に終焉しつつあったとされているからである。

 例えば前島賢は『セカイ系とは何か』のなかで、「セカイ系が大きな話題になったのは2003年前半がピーク、2003年末にはすでに過去のものとなった感がある」と述べ、実際にネットを探すと2003年の時点で「それはもう1年以上前の流行ですよ」という指摘があったという経験則を語っている。つまり、本来であればセカイ系はこのまま終焉へ向かうコンテンツになるはずだったにもかかわらず、東の『AIR』論、そして宇野の反駁といった構図によって論壇の上で息を吹き返したのだ。後述する「三大セカイ系」にしろ『涼宮ハルヒの憂鬱』にしろ、このことは念頭に置いておくべきであろう。

 さて、宇野の「アンチセカイ系」については、先程の東の『AIR』論を否定した論調を参照するのがわかりやすい。先述のように東の『AIR』の評価点はプレイヤー視点から見た時の自意識の二層性にあるのだが、宇野はまずこれに疑問を持つ。第三部を形作る「『ダメ』な自己欺瞞」とは、プレイヤーの自己反省として機能するのではなく、むしろ第一部のマチズモ(マッチョイズム)を強化するものに過ぎないからだと主張する。もし本当に自己反省を促すのならそもそも国崎は観鈴に恋愛対象として拒絶されなければならない。しかしそれが行われず、観鈴が国崎に所有されたまま彼女が死ぬというのは、むしろマチズモを永遠としてしまう行為である。こうしたプレイヤーにあたかも自己反省を促すように見えて、その実マチズモを再強化する回路を携えたものを宇野は「『安全に痛い』自己反省パフォーマンス」と称している。

 その上で宇野はこの「『安全に痛い』自己反省パフォーマンス」がセカイ系に多く見られると主張し、それまでの東が述べてきた受容する態度としてのセカイ系を、時代遅れで「引きこもり」的思想だと一蹴する。そして東が論壇で隆盛を誇った2000年代前半にはすでに同時多発テロ事件などの影響によりセカイ系の時代は終わっており、世相には「引きこもっていたままでは死ぬ」という思考から生き残りをかけた「サヴァイヴ感」とそれに基づいた「決断主義」が蔓延っているとする。そこで宇野は小畑健の漫画『DEATH NOTE』などを引き合いに出し、引きこもるのではなく、決断するのが「ゼロ年代の想像力」だという論調を展開していく。

 当書のなかで宇野は自身が主張するゼロ年代が持つ決断主義と対比させるようにとにかくセカイ系をこき下ろし、先程の「『安全に痛い』自己反省パフォーマンス」「引きこもり」もそうだが、「思考停止」「レイプ・ファンタジー」などその罵倒表現は枚挙に暇がない。それでも宇野の主張は「セカイ系vs決断主義」対立構図を明確にしたことにとって一定のユーザーから支持された。そして何より、長らく東の主張が論壇を占めていた界隈に、新たに刺客が現れたという事実が大きい。これにより、批評としてセカイ系は論壇の上で『涼宮ハルヒの憂鬱』の人気が収束する頃までは生き永らえたのである。

 ただし、繰り返すようだが「物語のセカイ系」は東の『AIR』論があった2004年には既に虫の息であった。そのような背景の中で生まれた『涼宮ハルヒの憂鬱』は「セカイ系」と定義されながらも、同時に「脱セカイ系」の性質を含んだ両義的なものであった。これについては後述する。

 

4.三大セカイ系とその曖昧さ

 少し時計の針を戻そう。セカイ系を語るにおいては欠かせない、3つの作品がある。具体的に何を指しているのかと言えば、高橋しんの漫画『最終兵器彼女』(2000)、秋山瑞人ライトノベルイリヤの空、UFOの夏』(2001)、新海誠のアニメ『ほしのこえ』(2002)の3作のことである。

 これらが何故セカイ系の代表作として挙げられるようになったかと言えば、やはり東浩紀らの手によるものであり、これまでにも何度か俎上に上げてきた『波状言論』のなかで主張されたことがきっかけである。そしてこれらを総括して、東はセカイ系とは「主人公と恋愛相手の小さく感情的な人間関係(『きみとぼく』)を、社会や国家のような中間項の描写を挟むことなく、『世界の危機』『この世の終わり』といった大きな存在論的な問題に直結させる想像力」を持つ作品であると評した。浅羽通明はこれについて、「世界の危機」とは全世界あるいは宇宙規模の最終戦争や、異星人による地球侵攻などを指し、「具体的な中間項の描写を挟むことなく」とは国家や国際機関、社会やそれに関わる人々がほとんど描写されることなく、主人公たちの行為や危機感がそのまま「世界の危機」にシンクロして描かれることを指す戦争のことだと説明している。

 また、この東の主張の根源となったであろうものが、評論に初めてセカイ系を導入したと言われている笠井潔の主張である。笠井は、『エヴァ』ではなく、それ以前のコバルト文庫を筆頭とした少女小説の恋愛観を出発点としてセカイ系を説いた。その中で作家の久美沙織による批評を参考としつつ、かつて少女小説の恋愛観は、主人公と対象(ここでは少女小説なので前者が女性で後者が男性)の恋愛空間は閉鎖的としながらも、対象の存在は点線で社会領域へと通じているとした。ところが、その社会領域がライトノベルとなると完全に廃され、主人公とヒロインの関係性、そして「日常と異常」という二項対立のみで成立し、それと同時に、中間項である内面性と社会性が排除されたのだとする。この主人公とヒロインの関係性を笠井は「キミとボク」と呼び、三大セカイ系のヒロインのような「戦闘美少女」と関係づける。

 立ち返って見るに、この時点でぷるにえが最初に提唱した際の「エヴァっぽい」という「揶揄」の側面はほぼ薄れている。この辺り、セカイ系が論壇の上で転がされ、新たな批評家の手に渡るにつれ定義が変遷し、曖昧な概念となっている理由が承認できるところである。

 そして既に指摘されている通り、この「三大セカイ系」は東・笠井の定義における条件をすべて満たしているわけではない。にもかかわらず、この3作品はセカイ系として不動の地位を築いている。何故か。これについては、「他に共通項があるから」と考えるのが自然だろうと思われる。

 

4-1.真のセカイ系の共通項とは

 前島は従来の主張以外に三大セカイ系の共通点として「世界設定の排除」を挙げる。2-2で述べたような『エヴァ』に則れば、前半では「人類補完計画」のような世界設定を匂わせる単語を留置しておきながら、後半ではそれらを一切明かすことなくシンジの自意識を描写して物語が完了する。しかし三大セカイ系では「後半の『エヴァ』」だけでしかなく、そもそも「人類補完計画」のような意味深長な単語は登場せず、消費者は物語の語られない背景にアクセスすることはできない。

 例えば、『最終兵器彼女』のヒロインであるちせは、人類の兵器として戦う運命にあるにもかかわらず、どのような存在と戦っているのかは一切明示されない。『ほしのこえ』も同様にヒロインである長峰美加子(ながみねみかこ)が搭乗する宇宙艦隊はどのような機構なのか語られない。そして『イリヤの空』に至っては、前島が作者の秋山にインタビューした一次情報から世界設定が意図的に削除されているとしている。世界設定をあえて設けずして余計な要素を排除することで、主人公・浅羽直之(あさばなおゆき)とヒロイン・伊里野加奈(いりやかな)の2人の関係にベタに感情移入できるというわけである。

 ほかにも、北出は『「世界の終わり」を紡ぐあなたへ』のなかで「半透明」の構造をセカイ系の定義であるとした。「半透明」とは先程「ゲーム的リアリズム」の説明のために2-3でも提示した概念であり、東が『ゲーム的リアリズムの誕生』で述べた概念を踏襲し、拡張していることが特徴である。

 北出はまず、「『セカイ』というカタカナの表記自体が、『世界』という日常的に使われる言葉にフィルターをかけて異化するものである」とし、ゆえにセカイ系は半透明であり、「曖昧な領域を肯定する思想」であると主張する。

 この主張については確かに肯うことができるものだ。例えばセカイ系に近しい存在として、同じくインターネットで生まれ定義が錯綜しがちな「ライトノベル」というタームがあるが、これについては作家である杉井光が「グレーゾーンがあっても有用である」という同様の立場を示している。そもそもぷるにえが造語した時点で曖昧だったのだから、半透明を受容する姿勢は極めて自然と言えるのではないか。

 そして北出はこの半透明の構造を用いて三大セカイ系の共通項を説く。『イリヤの空』については東が指摘した文体の半透明性だけでなく、三人称視点での小説であることに着目する。三人称を採用することで、主人公とヒロインのみならず、その脇を固める大人や友人の視点を描くことができ、「読者の心情を一人称視点にシームレスに同化させる」。これによって、読者を半透明の視点に誘導できるものとしている。

 『最終兵器彼女』については、作者の高橋による繊細さと暴力性を同居させた淡い絵筆のタッチによるものが大きいと述べている。ヒロイン・ちせが自らが兵器化したことによって自我の境界が曖昧になっていく感覚を、漫画表現としても半透明の構造を用いて取り入れたとする。さらにここで北出は、高橋の制作環境というテクノロジーの観点から半透明を導出するという新しいメタ的視点を提示している。北出の論に依れば高橋は1990年代前半という極めて早い段階でデジタルの制作環境を導入したのだという。そして2000年頃にこのデジタル環境が徐々に普及していく状況は、先述したちせの「人間と機械の境界が曖昧になる」という主題と重ね合わせられるという大胆な論を展開する。

 『ほしのこえ』についてもまた、制作者である新海誠の制作環境を反映させている。当作は25分に渡るアニメーションの中で作画や脚本のほとんどを新海が一人で手掛けているが、そのために制作の痕跡が色濃く残る。そしてその痕跡は当時普及し始めていたMacAdobeといったテクノロジーとしてのソフトウェアに還元される。これによって、作り手である新海と受け手である消費者、そしてそれを媒介するデジタルテクノロジーといった図式が成立する。このデジタルテクノロジーの立ち位置は、『イリヤの空』で述べたような三人称の視点に近いものと捉えることができ、ゆえに半透明であると言えるのだろう。

 

5.『涼宮ハルヒの憂鬱』が持つ「セカイ系」のディレンマ

5-1.セカイ系ライトノベルが『ハルヒ』に至るまで

 ここまで、いくつかの作品と論調からセカイ系を論じてきた。そこで最後に取り上げたいのは谷川流ライトノベル涼宮ハルヒの憂鬱』である。当作を私は物語としてのセカイ系リバイバルさせ、そして終焉へ向かわせた両義性を持つ作品と位置付けている。よってここではその軌跡を追っていきたい。

 もともと、ライトノベルの中でセカイ系として取り上げられる作品には上遠野浩平ブギーポップは笑わない』(1998)やこれに影響された西尾維新『戯言』シリーズ(2002)などがあった。とりわけ、『ブギーポップ』については西尾や佐藤友哉といった、講談社ファウスト」の面子、加えて時雨沢恵一を筆頭とした数々のライトベル作家に影響を与え、ライトベルにパラダイムシフトをもたらした存在として言及される。例えば、ここまで幾度となく述べてきた東は上遠野のデビューをきっかけに、それ以前から存在していた『スレイヤーズ!』『ロードス島戦記』といったRPG的ファンタジー作品をライトノベル群から切り離す言説を展開した。また宇野に関しても、『ブギーポップ』はライトノベルの射程を伸ばした作品であると同時に、『エヴァ』と「セカイ系」の橋渡しをしたと論じている。

 この内実について、榎本秋の主張のようにそれまでファンタジーが主流であった1990年代のライトノベルに「現代もの」の視点を導入したことが一例として挙げられる。そこからさらに「学園ファンタジー」「現代異能」といった、いわゆるロー・ファンタジーチックな要素も取り出すことができ、この現実的な視点の導入によって読者の視点を投影しやすくできるものとする。これに付け加えるのであれば、この「学園ファンタジー」「現代異能」というのは、例えば高橋弥七郎灼眼のシャナ』(2002)などを筆頭に『ハルヒ』以降も長らくライトノベルの中心トレンドとして台頭し続け、2010年代前半頃まで主流であったと言ってよい存在である。つまり『ブギーポップ』の存在はセカイ系との橋渡しどころか、それを超越して21世紀のライトノベルの輪郭を作った存在と言っても過言ではないだろう。

 また、西尾の『戯言』シリーズについても触れておかなければならない。当作はライトノベルレーベルではない講談社ノベルスから発行されているにもかかわらず、ライトノベルの系譜で語られることが多い。その定義についてはここでは触れないが、西尾とともに講談社ファウスト」での執筆が目立った滝本竜彦奈須きのこ乙一らもまた同様である。

 西尾の作風は、前章の三大セカイ系とは雰囲気を異にする。にもかかわらずセカイ系と言われるゆえんについては、ここまで何度か述べてきたように自意識の描写が特徴としてある。

 例えば、前島は『戯言』シリーズの第1巻『クビキリサイクル 青色サヴァンと戯言遣い』において、一人語りが激しく、語り手自身の了見でしかないものをまさに「世界」という誇大な言葉で表したがる性質が見られることを指摘する。その上で、西尾の作品群におおよそ倫理観というものが欠落した主人公が多く存在することを挙げ、それらを1997年の神戸連続児童殺傷事件や、2000年の西鉄バスジャック事件などの少年犯人像と結びつけ、倫理観の欠如を肯定するような自意識がセカイ系と名指されたのだと述べる

 また、三大セカイ系とは雰囲気を異にするもう一つの理由として、『戯言』シリーズがセカイ系であると同時に「脱セカイ系」を掲げているとする言説が挙げられるだろう。これは宇野の主張であるが、彼の言葉を借りるのであれば本作が「セカイ系として始まり、それを否定して新伝綺で終わる物語」だからである*5。『戯言』シリーズの語り手である主人公・いーちゃん(「ぼく」)は、初めのうちはセカイ系的なモラル(宇野の論でいう「引きこもり」的思想)で描かれる。しかし、物語がセカイ系的世界観から、作中のミステリ要素を通して敵対組織との対決構図へと変貌するにつれ、いーちゃんは「誰かのために――何か、してみたい」という心情の変化が見られる。すなわちここの変遷に、宇野の言う引きこもりから決断主義への転向が挙げられるのである。こうしたロジックにより何度か述べたように宇野はセカイ系を時代遅れだと批判している。

 また主人公であるいーちゃんは読者の人気も非常に高いようで、宝島社の『このライトノベルがすごい!』では2005-2006年に渡り男性キャラクター部門で1位を獲得している。その人気の根底にあるのが決断主義への転向だったのかどうかはさておいても、読者層への訴求の強さという点では、宇野の「時代遅れ」という主張を補強できる要素にはなるだろう。そしてこのセカイ系と脱セカイ系の両義性は、本丸である『ハルヒ』を語るにあたっても重要な要素となってくる。

 

5-2.セカイ系の再興、そして終焉としての『涼宮ハルヒの憂鬱

 『涼宮ハルヒの憂鬱』は、2003年より刊行されている谷川流ライトノベルであるが、『エヴァ』や『ブギーポップ』のように「それ以前と以後」を隔ててしまうようなパラダイムシフトを起こした作品として周知される。それは刊行された2003年頃というよりむしろ、アニメ化が行われた2006年以降のムーブメントとしての側面が強いが、その人気の根源は、『戯言』シリーズに見られたようなセカイ系と脱セカイ系という、一見矛盾を孕んだ両義性が一因として挙げられるように思う。

 まず、セカイ系としての『ハルヒ』について見ていきたい。第一に、これまでも何度か述べてきたように東の「ゲーム的リアリズム」論に基づいた半透明の文体を持つことである。鈴木章子の論によれば、当作の「読者はキョン(執筆者注:「キョン」は主人公である語り手)を通してしか作品世界を見ることができ」ず、「地の文と会話がごっちゃになっている」と指摘する。これはまさに読者と主人公の視点が一人称のなかでシンクロナイズドする半透明の文体の特徴と言える。そして井上乃武はこの鈴木の主張を拡張し、キョンの語りには自らの「現実」とその理解を暗黙のうちに絶対化する「作者」という主体が背後に隠蔽されているのだと述べ、これによりメタ物語が展開するものとしている。この作者の視点というのはいわゆる三人称の視点に近く、先述した北出の『イリヤの空』論とも近しいものと言えるのではないだろうか。

 第二に、東の『AIR』論への反駁として宇野が述べた一貫したマチズモの所有――すなわち「セカイ系批判」としてのセカイ系要素である。『ハルヒ』のなかで主人公であるキョンは、たまたま話しかけたことにより縁ができたヒロインである涼宮ハルヒに振り回され、彼女が宇宙人、未来人、超能力者といった、超人的存在を求めるがために、朝比奈みくる長門有希古泉一樹とともに「SOS団」という部活を結成するところから始まる。そして何より重要なのが、実は涼宮ハルヒという存在は世界を動かす神に等しい力を持っており、キョン以外の団員は、本当に超人的力を持つ存在であるということである。具体的に言えば、朝比奈みくるは未来人、長門有希は宇宙人、古泉一樹は超能力者といった具合で、彼らは涼宮ハルヒを監視するために組織から送り込まれてきている。だが、当の涼宮ハルヒ本人にはそれが内密にされており、結果としてSOS団の活動は時として陰謀に巻き込まれながらも、主たるものはオカルト探しや草野球や離島合宿といった、ありふれた青春を謳歌するサークルのようなものになっている。

 宇野はこれを自らが提示した批判としてのセカイ系の最終形態だと『ゼロ年代の想像力』のなかで述べ、マチズモ=「自分より弱い女の子への所有欲」を、彼らの肥大化したプライドを傷つけず満たす極めて周到な構造が用意されているものとする。一見、本作は超人的存在を求めるがために数々の奇行をする涼宮ハルヒによってキョンが振り回されている構図が大筋のように思える。しかし、作品を追って行けば判明するようにSOS団の中で唯一、一介の男子高校生でしかないキョンハルヒの心の拠り所として機能しており、これによってキョンの視点で追う読者が所有欲を満たせる、という仕組みである。

 また、久米依子ジェンダーの観点からこのキョン-ハルヒの関係を考察し、宇野と類似した主張を導出している。少年一人をキャラクター性の違う美少女が囲む様子が『エヴァ』や美少女ゲームを想起させるものであるとし(古泉は男だが)、自己中心的なハルヒとそれに従うキョンという構図は一見従来の男女関係が逆転しているかに見えるが、その実ハルヒという少女像は宇野の言うように「心の拠り所」としてキョンの下に支えられており、少年の活躍で決着する少年小説には変わりないという論を展開している。この関係は、宇野が東の『AIR』の反駁として述べた、マチズモを再強化する「『安全に痛い』自己反省パフォーマンス」と通底しているのではないだろうか。

 では、反対に『ハルヒ』が「脱セカイ系」として機能していた点は何であろうか。ここでは再び宇野の『ゼロ年代の想像力』を参照したい。というのも、宇野はセカイ系としての『ハルヒ』を手厳しく批判する一方で、脱セカイ系としての『ハルヒ』を同時に評価しているからである。ここでまず、宇野は涼宮ハルヒが求めているのが本当に宇宙人、未来人、超能力者といった「非日常」なのかと問い、そうではなく、寧ろ日常の描写の方に本質があると述べる。本作で描写されるのはヒロインの戦闘や異能力バトルといった要素ももちろん存在するが、宇野の言う通り比重が割かれているのは、先述したような「オカルト探しや草野球や離島合宿といった、ありふれた青春を謳歌する」日常の部分である。つまり、ハルヒが求めているロマンは、本当は宇宙人、未来人、超能力者といった存在ではなく、むしろ日常の中にこそある。そして消費者もまた、非日常ではなく日常の部分に需要を見出しているはずである。こうした部分を総括して、宇野は『ハルヒ』を消費者のマッチョな所有欲を満たすサプリメント(批判としてのセカイ系)であるがゆえにルサンチマンを中和し、等身大の自己実現の祝福へと接続した想像力であると評している。

 そしてこの日常の部分に重点を置いた等身大の描写はしばしば「日常系」「空気系」などというジャンルで呼称されるが、私はこれがセカイ系を終末へと導いた大きなファクターであるように思う。どういうことか。それは『ハルヒ』が、セカイ系的な引きこもりにあらず、コミュニケーション・ツールとして機能し始めた側面を持つからである。冒頭で述べたように、『ハルヒ』が地位を確固たるものにしたのは2006年にアニメ化がなされた際のムーブメントが大きい。京都アニメーションが手掛けた作画、EDテーマ『ハレ晴レユカイ』を筆頭とした楽曲の評価など、クオリティが総じて高く、一般にもたらされていなかった深夜アニメという概念を広めるにも至った。そして何より、『ハルヒ』がここまで至った理由として、前島は視聴者に積極的な行動を起こさせる「祭り」と呼ばれる行為を指摘している。一例として前島はアニメ版が原作の時系列をシャッフルして放送されたことにより、原作ファンに訴求する小ネタが無数に散りばめられ、これが結果としてインターネット上での考察に繋がり、連鎖的に話題を呼んだとした。こうした現象からアニメ版『ハルヒ』はコミュニケーション・ツールとして使用され、セカイ系でありながら「後半の『エヴァ』」ではなく「前半の『エヴァ』」に近いものだと指摘している。

 同様のケースは『ハルヒ』の翌年に放送された、同じく京都アニメーション制作のアニメ『らき☆すた』(2007)にも見られる。オタクの少女・泉こなたとその周囲の美少女たちとのギークな交流の日常を描いた当作は、その題材からか『ハルヒ』以上にわかりやすく、オタク向けの小ネタを散りばめながら展開される。一例として、アニメーション制作会社、そして涼宮ハルヒ泉こなたの声優がともに同じ(平野綾)であることから、アニメ版の作中には涼宮ハルヒのコスプレをした泉こなたが登場するといった具合である。こうした『ハルヒ』から『らき☆すた』へのさらなる消費者層を限定した変遷を、宇野は当作に登場する美少女で「萌える」という東のデータベース消費の典型例を明示しながら、「排除型コミュニティの『狭さ』」と呼称している。

 そして『ハルヒ』『らき☆すた』といった作品で用いられた「祭り」としてのコミュニケーション・ツールの極北ともいえるべき存在が、2007年3月から正式にサービスを開始した動画共有サイトニコニコ動画」の存在である。このサイトは、動画を作る投稿者と、投稿されたコメントが動画の上に流れる消費者との双方向的なやり取りを可能にし、数多の創作物のスクラップ・アンド・ビルドを可能にしていった。『ハルヒ』『らき☆すた』もこうした例に漏れず、例えば『ハルヒ』のEDテーマ『ハレ晴レユカイ』を踊る催しが各地で行われたり、『らき☆すた』の二次創作的映像が作られたりするなどして、半ばネズミ算式と言っていいほどに、インターネットの象徴として拡大していくこととなった。

 こうした『ハルヒ』『らき☆すた』が醸成した「日常系」「空気系」のムーブメントを受けて、ライトノベルでは葵せきな生徒会の一存』(2008)、伏見つかさ俺の妹がこんなに可愛いわけがない』(2008)、漫画では蒼樹うめひだまりスケッチ』(2004)、『けいおん!』(2007)など、登場人物たちが他愛ないおしゃべりに興じるさまや、オタクを筆頭としたサブカルチャーに浸ったありふれた日常を過ごす作品が一世を風靡することとなる。

 つまり、『ハルヒ』以降に生じたオタクカルチャーは、もはやセカイ系のような「キミとボク」という矮小な関係ではいられなくなった。消費者が後半ではなく「前半の『エヴァ』」に興じることによって「引きこもり」を捨て、インターネットを筆頭としたコミュニケーション・ツールを利用するようになった。『涼宮ハルヒの憂鬱』がセカイ系を再興すると同時に終焉をもたらしたのは、この両義性によるものなのである。

 

参考文献(引用順)

東浩紀ゲーム的リアリズムの誕生 動物化するポストモダン2』 講談社現代新書、2007年3月

宇野常寛ゼロ年代の想像力早川書房、2011年9月

前島賢セカイ系とは何か』 星海社文庫、2014年4月

東浩紀動物化するポストモダン オタクから見た日本社会』 講談社現代新書、2001年11月

大塚英志ササキバラ・ゴウ教養としての〈まんが・アニメ〉講談社現代新書、2001年5月

竹熊健太郎庵野秀明庵野秀明 パラノ・エヴァンゲリオン太田出版、1997年3月

大塚英志「『超越性』批判---<サブカルチャー>であること」 『ユリイカ1996年8月号 特集=ジャパニメーション!』 青土社、1996年8月

増田聡エヴァにとりつかれた人々の悲喜劇 ~サブカルチャーを巡る言説闘争』(http://less.music.coocan.jp/hihyou/evatragedy.html) 1998年

宮本直毅『エロゲー文化研究概論 増補改訂版』総合科学出版、2017年4月

東浩紀など『波状言論 美少女ゲームの臨界点』臨時増刊号、2004年1月

北出栞『「世界の終わり」を紡ぐあなたへ』太田出版、2024年2月

浅羽通明『右翼と左翼』幻冬舎、2006年

笠井潔『評論 社会領域の消失と「セカイ」の構造 (特集 ポストライトノベルの時代へ)』 雑誌『小説tripper』2005年春季号、朝日新聞社

杉井光「『ライトノベルの定義』に対する最終回答」(https://note.com/hikarus225/n/n5ba21548bacf)  2020年11月

榎本秋ライトノベル文学論』NTT出版、2008年10月

このライトノベルがすごい!」編集部(編) 宝島社『このライトノベルがすごい! 2005』/『このライトノベルがすごい! 2006』2004年12月/2005年12月

鈴木章子『ライトノベルに関する一考察--文学としてのライトノベル』(https://cir.nii.ac.jp/crid/1520009408261847040) 白百合女子大学児童文化学会、2008年

久米依子一柳廣孝(編)『ライトノベル研究序説』 青弓社、2009年4月

 

*1:これは数ある『エヴァ』の作品群の中で、1997年の劇場版『Air/まごころを君に』を指している。次章で著述。

*2:これについて庵野は『クイックジャパン』誌におけるインタビューで「セミナーに参加したことはない」と否定しているが、それでもやはり大塚は「庵野の創意工夫の産物であったとしたら、まさにそれは彼(庵野)の「創造」力の限界なり不可能性を露わにしてしまっていることになるではないか」と批判している。また『エヴァ』の持つ内面性を、当時巷を騒がせたオウム真理教と関連付けている。

*3:「フルサイズのCGが表示されているイベントシーン」とはいわばポルノ要素を含んだ部分のこと。

*4:ここで言うノベルゲームとは、「美少女ゲーム」と同等のもの。

*5:先述した「ファウスト」で連載されていた講談社の作品群を主に指す。奈須きのこ空の境界』が特に挙げられる。宇野はここでは新伝綺セカイ系にとってかわった新勢力として紹介している。




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