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# 今野真二『「言海」を読む』を読む

17日の記事でもちらっと書きましたが、年末年始に積ん読消化したこの本が、(予想どおり)とても刺激的でした。

著者は今野真二さん。2019年に直接お話を聞きにいったことがあり、そのときのことは旧ブログで記事にしています。

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本書は、タイトルどおり『言海』を軸にした一冊で、その辺の細かい話も実におもしろいのですが、ここではその部分を思い切って除外し、辞書全般について印象に残ったことだけ記録しておきます。

まず序章から。漱石が使っている語彙が『言海』で「訛語・俚語」(文字どおりには「訛や俗語」という意味だが、『言海』では「日常語」のような意味で使われている)とみなされると紹介したあとに続く記述。

そこで使われている語が現代も使われている語である場合には、わたしたちはその「語性」(=その語がどのような語であるか、という語の感じ)にあまり注意が向かない。しかし、作品が書かれた時期にもっていたその語の「語性」がわかれば、そのことによって、作品をよりいきいきとしたものとして受け止めることができるかもしれない。(p.16より)

自分が辞書を引く状況、つまりふだんの翻訳に引きつけて考えると、漱石の語彙を『言海』で引くのに近い場面はそうそうあるものではない(文芸翻訳の方が古い時代の作品を訳すときは、きっとそういう場面だらけなのだろう)。が、ある語が使われる文脈をふまえて「語性」を考えるという考え方は、広くいろいろと応用できそうだ。

 

次は、『言海』が採用している「青海波」という見出し項目に触れた文脈から。

着物が好きであれば、模様の名として知っているかもしれない。着物が好きということは「書きことば」と直接は関わらないが、しかし、ずっと使われてきた模様の名称は、過去の日本の文化とつながっており、そうしたものを知り、その名称を記憶しておこうとするかしないかは、大袈裟にいえば、「生きていく姿勢」につながる。(p.59より)

これも、ここだけ読めば翻訳者の仕事と直接はリンクしそうにないが、わたしたちも広く「ことばに携わる」職業である以上、ことばやそれが表している事柄・文化にどう向き合うかという、まさに「生きていく姿勢」を問われるのは当然で、ずしんと心に響く。ことばの背景には常にこういうことがあるのだ、ということを意識して辞書を引くことは、とても大切だろう。

 

『言海』以前の辞書は古語や雅語を扱ったものが多く、『言海』がほぼ初めて「今、ここ」の日本語の記述に努めたと要約したあとで、最近(今野氏の執筆当時)の状況について述べている部分。

日本文化を大切にしようという話は耳にすることがあるが、その場合の「日本文化」に「過去の日本語」は含まれていないのだろうか。百年前の日本語が読めなくなっていいのだろうか。「今、ここ」性は加速しているように思われる。(p.62より)

前項とも関連しているが、この指摘の重要性は説明するまでもないだろう。産業メインの翻訳でも、日常的な仕事のうえで一世紀ほど前の英語を理解することが必要になる場面は皆無ではない。

 

その延長で、「わかりやすさ」が求められる現状に言及した流れで出てくる一節は、さらに現代性を帯びている。

「今、ここ」で展開する「話しことば」を「今、ここ」で理解し、それに対応して話すことも大事だ。(中略)それとともに、「書きことば」から情報をよみとり、練られた「書きことば」で書く技術も必要であると考える。辞書をよむということは、おもしろい語釈を探すということよりも、辞書ということばの宇宙にちりばめられた語の間を自由自在に飛び回って遊ぶということではないだろうか。(p.75)

後半は、17日の記事でも引用した部分だ。日本語をとりまく今の状況、それこそ生成AIのあり方まで想起される、と考えるのは牽強付会にすぎるだろうか。そんな時代にことばを扱う人間が意識すべきこと、目指すべき道まで示唆されている。そのうえで、「辞書ということばの宇宙」を、自分もぜひこんな風に泳いでいきたい。

 

あまり引用しすぎるのも何なので、あとふたつにとどめよう。語Aを引くと語Bだと説明されていて、語Bを引くと語Aだと説明されている、いわゆる辞書における「堂々巡り」が『言海』にもままあると説明したうえで――

しかし、語Aの語義を説明するやりかたの、もっとも単純なかたちは、語義がよく理解されているであろう語Bの語義と(ほぼ)同じだと説明することともいえる。いろいろなことばを使った語義説明は、かえってわかりにくくなったり、母語話者の自然な理解から遠ざかったりすることもある。(p.91)

堂々巡りになっている語釈はアウト、という考え方はたしかに今では通念になっているのでて、この一節もなかなか衝撃的だった。全面的に首肯できるわけではないとしても、たとえば(英語も日本語でも)同義語・類義語という存在も含めて考えてみると、考えさせられてしまう。そういう辞書もあっていい気がする。やはり、ことばをことばで説明するというのは難しい試みなのだ。少なくない先達が、そして同時代人がその難業に挑んできた、挑んでいるということには、本当に頭が下がる。

 

どんな辞書でもそうだが、『言海』も、語釈中で使っている語を見出しにしていない例は多い。そういう限界はあるものだ。

「開かれた記号体系」とも呼ばれる言語は、時の経過とともに姿を変え、新しい語をうみだしていく。それはいわば「はてのない宇宙」のようなもので、辞書は、その「はてのない宇宙」から幾つかの語を切り取ってきて、それを説明していることになる。(p.98より)

辞書という世界について、けっして目新しい言い方ではないが、あらためてしっかりと噛みしめておきたいことばだ。あらゆる辞書は、「はてのない宇宙」を切り取ったものであり、その切り取り方はすべて異なる。辞書ごとに書かれ方が違うのは当たり前で、どの辞書にも限界はあって、だからこそ辞書はおもしろいのだ。

ということで、わたしはずーっと「複数の辞書を引いたほうがいい」と言ってきたが、たぶんそれは間違っていた。「複数の辞書を引かなきゃいけない」のだろう。

 

そう思いながら、『東京人』2月号の特集記事も通読したのだが、物書堂の辞書アプリを詳しく紹介した見坊行徳さんも、あっさりと書いていらっしゃった。

実は、辞書を最もうまく使う方法は、他の辞書と引き比べること。

さすが。ことばの重みが違う……

 

そして、辞書を引き比べるとどうなるか――その一端も、2月9日にはお見せできると思います。

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