「『水温(みずぬる)む』って季語は知ってる?」
丸田吉蔵(まるた よしぞう)くんが俳句トークを始めようとする。
「春の季語だよね」
丸田くんの面倒くささを感じ取りながらわたしは答える。
「ご名答」
声のテンションを上げていく丸田くんは、
「象徴的な季語だと思うんだ。本格的に春になっていく実感をたった五音(ごおん)で表している。季語というモノのチカラを遺憾無く発揮している」
と言い、
「『水温む』はそんな季語だ。季語であると同時に『詩語(しご)』でもある。俳句は詩なんだ。ポエジーを感じさせないといけない。『水温む』というコトバ自体にポエジーが宿っている。修飾を施す必要も無いほどに」
丸田くんの語りの分量がいつも以上になる悪寒がする。『水温む』ドコロじゃ無くなってきてるんですけど。
金曜の夜道なのだ。『図書館に本を返しに行きたい。明日は予定があって行けないから』とおとーさんに告げたら、『吉蔵くん、ほのかに付き添ってやってくれないか』と、臨時アルバイトと化してエプロン姿で食器を拭いている丸田くんにおとーさんが依頼した。
丸田くんは残念ながら快諾(かいだく)。
『ほのかの用心棒になってくれて、助かるよ』
おとーさんのコトバがわたしの心身に痛く響いた。
× × ×
「あっ!! 沈丁花(じんちょうげ)!!」
丸田くんが春の季語をいきなり叫んだから、電流が走るような感覚に襲われた。
「沈丁花がこの近くにたぶん咲いてるんだよ!!」
なんでそんなコト分かるの。沈丁花からテレパシーでも送られてるの?
「第六感だよ第六感。俳人(はいじん)としての第六感だ。沈丁花の香りがおれの第六感をくすぐってるんだ」
コワいコトを言ってくる丸田くんが小さな公園のある方角を眺めて、
「確かめてくるよ」
と言ったゼロ秒後に動き始めた。
付き添いの意味が無いじゃん。
丸田くんを待たざるを得ない。わたしはその場に立ったまま。
丸田くんが長時間戻って来なかったらどうすればいいのか。
彼を放置して1人で図書館に向かうべきか。
判断が鈍った。丸田吉蔵くんという厄介な男の子を放って置く決心がなかなかつかない。丸田吉蔵くんによる束縛から自由になれたら嬉しいはずなのに。
一基(いっき)の街灯に照らされながら立ち尽くす。丸田くんを棄(す)て切れない自分のコトが分からなくなってくる。
自転車の音が背後から聞こえてきた。
1台だけの自転車の音ではなかった。
何台かの自転車は盛大に音を立ててわたしの間近で停まった。
ココロの体温が下がっていくわたしは後ろに振り向く。
3人居る。それぞれの自転車からほとんど同時に降りてくる。
『ガラの悪い男の子たちが再び出没し始めたみたいだから、気を付けて』
おかーさんの警告がわたしの中に響き渡る。
遮断器が両方とも下りた踏切の中から抜け出せなくなるような感覚が浸透してくる。
「あぶないよー、若いオンナノコの金曜夜の1人歩きはー」
わたしのココロを舐めてくるような声がやって来る。
暗くて見えにくいけど、真ん中の男子から発せられた声。
「金曜夜って、ちょっとトクベツな夜なんだよねえ。――オレが言ってるコトの意味、わーかーるー?」
そんな問いを発した男子の両サイドから汚い笑い声がこぼれる。
真ん中男子が距離を詰めてくる。非常識的な色に染め上がった髪。スカジャンの模様がわたしに気持ち悪さを与えてくる。
スカジャンのポケットに両手を突っ込みながら見下ろしてくる。距離はおそらく3メートル未満。154センチのわたしよりも20センチは高い。圧迫される。
舌なめずりをするのが眼に映り、耳に響く。
胃袋が針で突き刺されるような感覚。
両足が硬直し、返却図書の入った右手のバッグが落下する。
「キミ、女子中学生と見せかけて、実は22歳ぐらいなんでしょ」
言い当ててくるから、衝撃がカラダの中を垂直に貫く。
「分かるんだよ。キミみたいな子も、それなりに『経験』してきてるから」
恐ろしい笑顔で恐ろしいコトを言い放ち、
「そして、たぶん、かしこい。ワセダかケイオーの文学部あたりに通ってそう。どっちかっていうと、ワセダかな? そーんな顔だ」
と、所属大学までも……突き止めてくる。
「童顔(ドーガン)で頭が良(い)い子は――好物なんだ」
犯罪的なコトバとともに、スカジャンのポケットから両手を抜いてくる。
絶対に両手は伸びてくる。絶対にわたしの両肩は掴まれる。
後(あと)ずさるコトができない。『逃げなきゃ』という意識が少しも働いてくれない。
このままだと、わたし、被害者になっちゃう……。
どうすればいいかなんて解(わか)るワケも無い。どうしようも無い。どうにもならない状況が強く強くわたしを追い込んでくる。
防犯ベルなんか携帯しているワケも無い。喉から声を放つ能力も喪失している状態。
両肩に強い負荷がかかった。
何をされているのかを認識した瞬間に、相手の両手指が両肩に食い込んできているのを感じ取る。
凍りつきそうなぐらい、わたしの全ての部分の温度が急降下する。
その時だった。
わたしの右斜め前後方から、誰かの速い足音が聞こえてきたのは。
駆け足の音が急速にわたしに近付いてくる。
スカジャン目がけて眼にも止まらぬ速さで突っ込んでいく人影が視界をかすめる。
両肩に食い込む感触が一瞬にして消えてなくなる。
スカジャンから伸びていた手がわたしのカラダから切り離されたのに気付くと同時に、スカジャンが吹っ飛ばされて仰向けに倒れ込む光景が眼に映る。
身を起こせないスカジャン男子の呻(うめ)きのようなモノが耳に食い込む。スカジャン男子は起き上がれないままに、馳(は)せ参(さん)じてきた人間に左脚を強く踏まれている。
馳せ参じてきた人物の正体にわたしはようやく気付く。
気付くがゆえに、驚きの感情がかき混ぜられて何がなんだか分からなくなる。
倒されたスカジャン男子からなんとも言えない呻き声が発せられる。今度は、悲鳴に限りなく近い呻き声。
左脚を強く強く右脚で踏み込まれたがゆえの悲鳴同然の呻き声だった。
右脚で踏み込んだ張本人のカラダが前方に傾いていく。
数秒も経たずに、鈍い打撃音の響きがわたしの鼓膜を震動させる。
勢いを増す打撃音が重なり、夜の路地に響き渡る。
× × ×
全身を震わせながら、落としたバッグを拾う。
左斜め前に堂々と立っている丸田吉蔵くんが、
「ずいぶんと腰抜けだったな」
と、彼自身の腕でコテンパンにした3人の不良男子について触れ、
「引きずるように自転車を漕いでいくのが、笑いを止められないぐらいに、滑稽だった」
と、晴れ晴れとした声で言う。
眼にも止まらぬ速さ。……不良男子3名に対する丸田くんの立ち回りは、そう形容するしか無かった。
蝶のように舞っていた。蜂のように刺していた。
しかも、瞬速で。
不良(あっち)は一度も手を出せなかった。ボクシングジム仕込みの丸田くんの拳(こぶし)が、彼らを次第に底無しの恐怖に陥れていった。
本当に……鍛えてたんだ、丸田くんは。
口先だけじゃ無かったんだ。いざとなると強いってコトを彼はわたしに証明した。誰かを守れるチカラを持ってるってコトを彼はわたしに証明した。
左斜め前で誇らしくしている彼の背中がこれまでに無く大きく見えるのも当たり前のコトだった。
「図書館どころじゃ、無くなっちゃった」
呟くように言ったコトバは彼の大きな背中に届かせたいコトバだった。
真下なんか向かない、真下なんか向いていない。大きな背中を見据えている。
「確かにね」
苦笑混じりに言う彼は、
「でも、明日は図書館、行けないんだろ? バッグ、手渡してくれたら、幾らでも運んで行ってあげるけど」
「……そうなったら、わたしが独(ひと)りぼっちになっちゃうじゃん。取り残されるのはイヤだよ。これ以上、寒くて怖い思いはしたくないし」
弱音めいた声音で本音を吐き出すわたしに、
「じゃ、どーするの……ってツッコミ入れる場面、なんだろうけど」
と彼は言い、
「ほのかさん。きみが落ち着きを取り戻すまで、おれはこのままでいるよ。ここから動いたりはしない。……危ない事態に直面した女の子のキモチぐらい、おれだって、ほんの少しは把握できるから」
……優しい。
知り合ってから、今がいちばん、優しい。
彼は背中を向けたままだけど、その背中の大きさだけで、わたしの胸の奥の容器に優しさを満たしてくれる。
わたしの足が動き出した。
大きくて強い背中に向かっていくしか無かった。
「『ほんの少し』じゃ、無いって、思う」
「へ?」
わたしが届けたコトバに対して丸田くんはトボけた声を出してくるけど、不快感なんて全く芽生えず、
「あなた、女の子のキモチ、及第点あげられるぐらいには、把握できてる」
と、生まれて初めて、彼のコトをホメてみる。
彼に、『あなた』という2人称を用いたのも、生まれて初めて。
腕を軽く伸ばすだけで大きくて強い背中に触れられる。生まれて初めての距離感。今夜は、『生まれて初めて』がいっぱい。
これからわたしが丸田吉蔵くんという男の子にしていくつもりの◯◯も……やっぱり、『生まれて初めて』の◯◯。