玄関で靴を脱いでから数歩進んだわたしの数メートル先にお兄ちゃんが立っている。
「なーんか、距離感、微妙じゃね?」
軽く指摘してくるお兄ちゃん。
少し俯いてしまうわたし。
でも、『お兄ちゃんの顔をちゃんと見てあげなきゃダメ』というキモチがあったから、俯きを解(ほど)いて目線を再上昇させる。
お兄ちゃんの方から歩み寄って来られるのは、イヤだった。
歩み寄って来られないようにするためには、わたしから進んでいかなきゃいけない。
わたしは息を大量に吸う。
足を進めていくために、こんなに大げさに息を吸ってしまうなんて……とは思うけど、今日は、特別な日だから。
兄妹にとって特別な日。とりわけお兄ちゃんにとって特別な日。
ペタペタと通路を踏んでいき、ダイニング・キッチン入り口付近に立っているお兄ちゃんの至近距離に到達する。
「よくできた、よくできた」
歩み寄るコトができたわたしをホメてくる。ホメる声にコドモ扱いのニュアンスがほんの少し含まれていたから、ほんの少しムカッとなる。
だけど、ムカッとなっている場合じゃなかった。
だから、わたしはまたもや大きく息を吸って、
「お兄ちゃん」
と呼び掛け、
「やさしく、される、まえに……やさしく、したいから」
とキモチを吐き出す。
お兄ちゃんの温(ぬく)みがもう既に染み込み始めていた。
お兄ちゃん、カラダもココロもあったかいから、温みがすぐに伝わってくる。
でも、これ以上浸透してしまうと、わたしが優しくする前に優しくされちゃったコトになっちゃう。
それはイヤだから、それはダメだから、わたしはより一層距離を詰めていく。
いつでも抱きつくコトのできる位置まで来た。
コトバは要らない。スキンシップで分からせればいい。
背中に両腕を回して、お兄ちゃんのカラダを引き寄せようとする。
グリグリする場所をどこにするか迷ったけど、胸板をグリグリしていくコトに決める。
お兄ちゃんの胸板は分厚い。グリグリするのにチカラが要る。
グリグリし甲斐があるってコト。
「痛い?」
控えめにわたしは問う。
「痛くない」
アッサリとお兄ちゃんは答える。
『こんなに頼り甲斐のあるカラダを作ってくれて、ありがとう』
そんな感謝のキモチが産まれ、わたしの中でジワジワ拡がる。声に出せるワケも無いんだけど、拡がる。
声に出して伝えたいコトなら、あらかじめ準備していた。
グリグリをやめないまま、
「お誕生日、おめでとう。お父さんも、天国で喜んでるよ」
と、お兄ちゃんに声を贈り届ける。
お兄ちゃんの両腕がわたしの背中に伸びてくるのが分かった。
怖いなんてあり得なかった。
こういう時、スキンシップで自分のキモチを表現してくるのが、お兄ちゃんらしさ。
わたしのカラダとココロをどれだけ火照らせてきても、許してあげる。
× × ×
薄紫色のエプロンを装着しているおねーさんの眼が潤んでいる。
お兄ちゃんは俎板(まないた)と包丁を使い始めているけど、おねーさんは調理に取り掛かれない。
感動感激しっ放(ぱな)しのおねーさんが微笑ましいから、彼女が眼を潤ませている冷蔵庫付近まで歩いてあげる。
どこからともなく未使用のハンカチを取り出したわたしは、
「泣かなくたっていいのに」
と言う。
半分戯(じゃ)れつくような声で言ったんだけど、真に受けてしまって、
「だって、こんな兄妹愛を見るの、ホントに久々だったんだもん……!」
と、ハンカチをなかなか受け取ってくれない。
「泣きじゃくり続けるおねーさんは、ちょっとイヤかも」
わたしはおねーさんの手にハンカチを更に近付けていく。
「ホントに……?」
とおねーさんは声を震わせ、
「泣きじゃくり続けると、わたしの美人の度合いが減少しちゃうってコト……?」
笑いを堪え切れないけど、笑いを堪え切れないからこそ、半ば強引に、彼女の左手にハンカチを託していく。
× × ×
調理は全て終わった。
おねーさんの表情は、もちろん晴れやかになっている。
涙を拭ってから完全回復までの速さは流石だと思う。
――さて、実の夫婦同然に息の合った連携プレイで夕食のご馳走を作り上げてくれた2人は、現在、キッチンのすぐ側(そば)で向かい合って立っている。
ラブコメディ的なやり取りが今にも始まりそうなのが楽し過ぎるから、ダイニングテーブルのキッチンとは逆サイドの椅子に座るわたしは、左手で頬杖をつきながら2人の様子をジックリコトコトと眺めていく。
「今朝もお祝いしたけど、あらためて」
おねーさんが言う。
「おう」
お兄ちゃんが真面目に応答する。
「ハッピーバースデーだわ、アツマくん」
とおねーさん。
「ド真ん中の直球だな、ちょっと意外だ」
とお兄ちゃん。
「あなたって、そう言っちゃうトコロが『玉にキズ』なのよね」
とおねーさんは言ってから、
「『ハッピーバースデー』に球数(たまかず)制限は無いのよ?」
「なんじゃそりゃ」
お兄ちゃんは軽く応えるけど、
「それと、プレゼントはとっくに渡してるけど――眼に見えるモノだけが、プレゼントじゃないから」
と伝えていくおねーさんのカラダは、お兄ちゃんのカラダに向かって傾き始めていた。
× × ×
「『キッチンをピカピカにしたいの』ってあいつは言ったけど……つい最近、おれがキッチンを磨いてやったばっかなんだけどな」
「無神経なコト言わないの、おにーちゃん」
「ぬぬ」
「おねーさん、わたしとお兄ちゃんだけの空間を、創(つく)ってあげたかったんだよ」
「ぬぬ……」
「ダメだな~、受け答えがワンパンマンになってる」
「……そこは『ワンパンマン』ではなく『ワンパターン』と言ってほしい」
「ヤダ」
わたしの左隣に座るお兄ちゃんが眼を逸らす。
リビングソファには、当然、お兄ちゃんとわたしだけ。
テレビも点(つ)けずに寄り添っているというのに、わたしと反対側に眼を逸らすのは、評価してあげられない。
「わたしの顔に眼を寄せてくれないと、『お兄ちゃん』じゃなくって『優柔不断兄貴』って呼んじゃうよ?」
そう告げたら、期待に応えてくれるお兄ちゃんは視線を180度近く転換してくれて、
「『優柔不断』ってなんだ『優柔不断』って」
とツッコミを入れ、
「……『優柔不断兄貴』、だなんて、長過ぎな呼び方だろ」
と何故か照れくさそうに指摘する。
「そーかもね。そもそも、『優柔不断』って的確な表現じゃないと思うし。『優柔不断兄貴』は、撤回」
そう言いながら、わたしはお兄ちゃんの眼から自分の眼を一切離さない。
5秒間ぐらい見つめ合う。
やっぱり、カラダもココロもポカポカになっちゃう。お兄ちゃんも同じような状況なんだろうけど、わたしのポカポカの方がポカポカなレベルは高いんだと思う。
兄妹として温(あたた)め合っているのが尊いんだと思う。
幾つになっても、兄妹は兄妹。
お兄ちゃんがオジサンになっても、お兄ちゃんはお兄ちゃん。わたしがオバサンになっても、妹は妹。
「ねぇ」
わたしは声を出す。甘えたいから甘えた声を出す。
「……おねがいが、あるんだけど」
甘えながらキモチを伝えたいから、ゆっくりと発声していく。
もちろん、お兄ちゃんの顔を直視したままに。
「わたしとお兄ちゃんが兄妹だってコト、家族だってコト……いつまでも忘れないで」
告げてみる。
告げられたお兄ちゃんの視線は、揺らいでいない。わたしを見据え続けてくれている。
うれしい。
うれしいけど、必然的にくすぐったくなってくる、から、
「……お兄ちゃんの方からコメントをもらえると、ありがたいんですけど」
と言っちゃう。
お兄ちゃんは、それなりに間(ま)を作って、それなりにコトバを溜め込む。
両腕を伸ばしてきた。
わたしの両手をあっという間に掴んできた。
真剣さがひしひしと伝わってくる握力。
わたしの心拍数がそれなりに速くなる……んだけど、
「こういうのも、お兄ちゃんらしい愛情の示し方だと思う。……でも、コメントを声に出すのも、大事だと思うよ?」
と、ほんのちょっぴり、たしなめる。
数秒間の空白が下りたあとで、
「おれも、おれたちが兄妹で家族だってコト、絶対忘れない」
と言う声がわたしの鼓膜を震わせる。
「懸念材料は……兄妹ゲンカになるのを、なかなか回避できないだろうってコトだが」
言い足すお兄ちゃん。
「――『ケンカするほど仲が良(い)い』って便利なコトバがあるでしょ?」
そう言ってあげるわたし。
わたしの両手を握り込む両手に本日1番の優しさを籠めてくれる、大好きなお兄ちゃん。