バスルームのドアを開けたら、背後に愛(あい)の気配が。
「バスルームなら、わたしが掃除してあげるわよ?」
背後からのコトバにおれは驚く。
「お風呂掃除ってチカラ仕事でしょ? あなたは平日の勤務でくたびれてるんだから、できるだけ消耗させたくないのよ」
予想外の優しい声だった。背後のパートナーは昨日もずいぶんと甘く優しかったが、今日は昨日以上に……?
とりあえず振り返るおれは、
「しかし、ここの掃除は、おれが毎回担当してるんだし」
満面の笑みを広げる愛は、
「もぅ~~っ。そんなコト言わないでよぉ~~。ガッカリしちゃうじゃないのよぉ~~」
戸惑うおれを余所(よそ)にしてバスルームへと前進する愛。
「ホントにおまえひとりでやるつもりか? 心配なんだが」
「引き止めたいのぉ?」
と言ったかと思うと、輝かしき笑顔をおれに見せつけてきて、
「わたしを信じてよっ。あなたを絶対に失望させないバスルームにしてあげるからっ!」
いや、なに。『あなたを絶対に失望させないバスルーム』って、なに。
愛はニコニコを崩さず、
「わたしの日本語センスに疑問を感じてるみたいね。あなたの表情をよく確かめなくたって分かるわ」
うぐっ……!
× × ×
カーペットに仰向けに寝転んで文庫本を読んでいる愛に、
「エアコンの温度、上げてやろうか?」
と訊いたのだが、
「あなた、昨日とおんなじコト言ってる。おもしろーい」
と、愛は文庫本に眼を向けたまま、すこぶる愉快げに……。
ソファの中央に座るおれは劣勢を感じつつも、
「しなくてもいいみたいだな、温度調整……。おまえはどちらかというと、寒さや冷えには強くないイメージだったんだが」
「バカなコト言わないでよ~~~」
ものすごく愉快げな声を発してきたかと思えば、読んでいた文庫本を胸元で抱き締める。
それから、
「アツマくんがバカなコト言うから、読書を継続する気が無くなっちゃった」
と天井に向かって発言。
『バカなコト』って表現を2回使いやがったな。
そういう表現を反復するのは、良くない。
おまえはもっと、行儀良く、姿勢正しくだな……!!
「――『キレイな顔とは裏腹の性格の悪さが露出してる』とか、思ってる??」
ぐがっ。
おれのキモチをパーフェクトに読んでくるなっ。
俊敏に身を起こす愛は、
「あなたさっきまで某・少年の画報社から出てる某・月刊漫画雑誌を読んでたみたいだけど、ヤングでキングなアワーズは、今日はもう終わりよ」
そういう表現は某・月刊漫画雑誌の編集部や作者の方々に失礼だとは思わんのか……!!
おれの睨みつける眼に一切構うコト無く、立ち上がり、カーペットをリズム良く踏み、ソファまでどんどん接近してくる。
「漫画読むコトよりもっとキモチいいコト、あるでしょ」
下品なッ……!!
耐え切れず、
「お説教されたい気分でいっぱいみたいだな、おまえ!!」
と厳しく言う、のだが、
「お説教は4時間ぐらい後からお願いするわ☆」
と言われるやいなや、真正面から抱きつかれる……。
抱きつかれた瞬間は寒気(さむけ)も走ったが、愛のカラダの柔らかみと温かみに駆逐されていく。柔らかみと温かみは浸透し、お説教したい感情を急速に薄れさせていく。
苦し紛れに、
「なあ」
と声を発してから、
「昨日も今日も、サービス過剰なほどに、愛情を提供してきてくれてるが……。なんか、キッカケ、あったんか?」
即座に、
「あなたに教えるワケなんか無いでしょ」
と便利なコトバをお見舞いされるが、
「肝心なコトを、彼氏にも、隠しゴトにするってか」
と応戦したら、
「あと4時間『このまま』でいてくれたら、教えてあげなくもないけど☆」
と、卑怯にも……!!
× × ×
「おまえの愛情でヤケドしそうなんですけど」
「あなたにしては巧妙な表現ね」
「おまえ自体は重くはないが、おまえの愛情が重くなってきてる」
「だったらもっと溢れさせるだけよ」
「……」
「沈黙は禁物」
左肩をつねってきやがった。結構な痛みが走る。
追い込まれてきているがゆえに沈黙を打破できないでいたら、
「わたしに噛みつかれたいのかしら」
「……熊かよ」
「時事ネタに引きつけるのはやめて。あなたには安直な彼氏であってほしくないの」
たしなめてきたかと思えば、
「怖いの? 噛みつかれるのが」
と言った後で、
「お子様ランチ状態ね、まるで」
と謎めく比喩を繰り出してくる。
なんですか、『お子様ランチ状態』って。
お料理に喩えられるのは、不本意です。
しかも、『お子様ランチ』……。
反撃の狼煙(のろし)を上げたいキモチが昂(たかぶ)り始める。
『お子様ランチ』呼ばわりが、おれの闘争心をくすぐってきていた。
ソファの背もたれに押し付けられていた部分にチカラを籠める。
一気に押し戻す。おれのパワーがパートナーのパワーを凌駕していないワケも無いのだ。鍛え方が違うんだ鍛え方が。
今度は向こうが沈黙に陥りかけている。パワー勝負で負けて押し戻されてガックリしているのか。
パワーの絶対値においておれに敵うはずも無いのに。
健気だね。
……健気さを感じ取っていたら、固まっている状態の愛が、普段の何倍も可愛く見えてきた。
胸がくすぐったいのを否定できない。心地良きくすぐったさであるのも否定できない。
おれはおれの感覚や感情に忠実に、
「おまえの勢いを奪っちまった責任、取らせてくれ」
か細い声で、
「……せきにん?」
と言ってくる。
弱々しくて、可愛い。
好きだ。
だから、
「包み込まれるより、包み込みたいんだよ」
と言(げん)を発して――弱々しき束縛を振りほどき、丸くなった背中に両腕を伸ばし、ギュギュッ、とカラダをカラダで包み込んでいく。
「痛いトコロは無いか」
きわどいから、おれの問いに対してすぐに答えられない。
答えの代わりに、胸板の真ん中辺りをオデコでぐりぐりしてくる。
訊いてみたいコトはまだあったのだが、我慢して、可愛い背中をどういうふうにナデナデしてやるべきか、考え始める。