ロングというワケではないスカートの裾を愛(あい)がギュギュギュッと握り締めている。ピンチになっている「サイン」だ。
愛はソファからなかなか立ち上がれないでいる。おれが仕事場から帰ってきてからずーっとソファ座りだ。
夕食は愛が作る予定だった。しかし、このままでは調理などできそうもない。『食材を買いに行っただけで疲れちゃったの……』とグッタリとした声でおれに言ってきていた。『何かあったんか?』とおれが訊いたら、首をぶるぶる横に振るだけで、答えてくれなかった。
おれが帰宅してから1時間が経った。現在おれは愛を眼前(がんぜん)にして、あぐらをかいている。何でもいいから喋ってきてほしい。しかし、塞(ふさ)ぎ込むだけで、口を開いてくれない。おれの忍耐力が試される状況になってきたぞ。
おれの方からアクションを起こさなければ、眼前のパートナーは永遠に口を開かないし、永遠にソファから動かない。ならば、どういうアクションを起こせばいいのか?
案その1。スキンシップ。例えば、スカートの裾を握り締め続けている右手におれの左手のひらを重ねてやる。いわばショック療法みたいなものだ。大きな「びっくり」の弾みで喋り始めてくれるかもしれない。
案その2。コトバで愛を動かす。突拍子もないコトを言って愛からの反応を誘発したり、『何か喋ってくれたら、◯◯してやるんだけどなー』みたいに「見返り」を提示したりする。
× × ×
2つの案を脳内でこねくり回した結果、「折衷案(せっちゅうあん)」という素晴らしきモノを思いつくコトができた。
空腹の度合いは正直増しているが、そんなのはどうだっていい。腹を満たすよりも大事なコトがある。
だから、思い詰めているかの如き表情に視線を合わせて、
「おれと取引をしないか」
と言いつつ、スカート握りの右手に左手のひらをそっと置いて、
「とりひき……?」
と、愛の口からコトバを出させる。
コトバを出させるのに成功したから、『ここがチャンスだ』と思って、
「もし、おまえがおまえの消耗の理由を話してくれたら、おれが隠し持っていたコーヒー豆で、すっげぇ美味しいコーヒーを淹れてやる!」
と高らかに宣言する。
眼を見張る愛。
おれに向かい少し前のめりになって、
「隠し持ってるって……どこに隠し持ってるっていうのよ」
と困惑ボイスで訊いてくる。
おれは、
「おまえ油断してただろ。油断してたから、キッチンのキャビネットの中におれがこっそりコーヒー豆を入れたのにも気付かなかったんだな」
× × ×
「授業に出席するだけで、こんなにくたびれるなんて。わたし、社会人になる自信を無くしちゃいそう」
そう言ってから、かなりの下向き目線になって、
「もっとも、教員採用試験落ちたから、来年度正規に雇用される見込みが無くなっちゃったワケだけど」
と厳しい現実を言った後で、
「後期の開始早々、わたしの中を不安がぐるぐる渦巻いてるわ……」
と、テンションをさらに下降させていってしまう。
沈み込むパートナーを目の当たりにしているワケだが、おれには確固たる打開策があるので、
「愛。そんな時はな、コーヒーだ。1(いち)にも2(に)にも、コーヒーだ」
と明るく言ってやる。
目線がほんのちょっぴり上がる愛ちゃんが、
「こっコーヒーなんて飲んでたら、いつまで経っても夕ご飯が作れないわっ」
と慌てるが、
「『すっげぇ美味しいコーヒーを淹れてやる!』って言ったの、もう忘れたんか。ついさっき言われたコトをもう忘れるなんて、賢いおまえらしくもない」
と微笑みながら言ってやる。
「でもっ、夕ご飯がっ」
慌てた弾みで、愛の右手がおれの左手から離れるが、動じないおれは、
「夕ご飯を作る役目も、おれにくれ」
慌てふためく愛は、
「そんなっ。アツマくん仕事でくたびれてるのに、負担が過剰に……」
「バカだなーおまえも」
弾むような声をぶつけてから、
「おれのスーパーマン的な体力は、労働による疲労など寄せ付けんのだ」
と、声をなおも弾ませて、
「そろそろ、DCさんかマーベルさんにスカウトされたいもんだ。こんなに鍛えてる日本人も、なかなかいねーだろ」
と、自画自賛の半分混じった冗談を言うのである。
× × ×
隠し持っていた豆を挽いて作ったコーヒーを愛が飲んでいる間に、ピンチヒッターとして夕食を作り上げていった。
夕食が仕上がるまでに愛はコーヒーを2回お代わりした。
元気が戻りかけている愛が、
「アツマくん、やっぱりお料理スキルが上がり続けてるのね。カラダがほぐれるぐらい美味しかったわ」
と、食後のコーヒー(今晩、通算4杯目)を啜(すす)った後で言ってくれる。
「おまえのおかげでもあるんだぞ?」
右手で頬杖をつきながら、愛に眼を合わせてキモチを伝える。今のおれは、どれだけ様(サマ)になっているだろうか。
「消耗してまで食材を買ってきてくれたんだし、レシピを考えたのもおまえなんだし」
そう言ってから、数秒間の空白を作り、
「ありがとよ」
と、ココロを籠(こ)めて感謝する。
結構な音を立ててコーヒーカップが置かれる。愛はいささか仰(の)け反(ぞ)り気味になり、次第に顔を赤くしていく。
戸惑いが最も表れているのは、口元だった。
コーヒーカップめがけて視線を下ろそうとする愛は狼狽(うろた)えを抑え切れない。
アワアワしながら、
「真心(まごころ)が、強すぎるわよっ、アツマくんっ」
と、何故か俳句の如きリズムで言ってきたかと思うと、
「まるで、『真心アツマくん』状態じゃないのっ」
と、過剰なる混乱具合いを示してきて、
「わたし、ソファに逃げ込みたくなってきちゃった……」
と言いながら、素早く立ち上がる。
『逃げ込みたくなってきちゃった』なんて表現しなくてもよかろうに。
だけど、今の愛の口ぶりは感情をダイレクトに届けてきていて、可愛げがある。
だから、どんな反応もどんな発言も許容できる。
そして、次に言ってくるセリフも、ある程度「読む」コトができる。
ソファがあるリビングの方角を懸命に向きながら、
「アツマくん。わたしがソファに逃避した後で、いつでもいいから、わたしの近くに来て。なんでもしていいから」
と愛は要求するけど、
「ソファに逃げ込みたいってのは、おれから距離を取りたいからなんじゃーなかったんか? 離れたいのに、『近くに来て』だなんて。矛盾以外の何物でもないよねー」
と冷静沈着にツッコむおれがいる。
立ち尽くす愛が、ロングスカートとは定義できなさそうなスカートの裾をまたもや握り締める。
きみ、スカートの裾が大好きなんだね。