土曜日の夕暮れ時。夏祭り会場には露店(ろてん)が立ち並んでいて、人々のざわめきはどんどん大きくなってきている。
おれは、そのような喧騒(けんそう)から距離を取って、木陰(こかげ)に立ち、開いた文庫本のページに眼を凝らしている。
ちくま学芸文庫だ。18年間の人生でちくま学芸文庫を読むのは初めてだった。翻訳書だ。相当に歯ごたえがある。1つ1つのセンテンスを理解するのに時間がかかる。だが、そこがいい。読みごたえがあるので、面白い。
章(しょう)を1つ読み終えて、ちくま学芸文庫から一旦目線を上げてみた。
『見知った人間が近くに来ている気配がする』
そう感じて、すぐのことだった。
白地(しろじ)の浴衣が、眼の前に姿を表した。浴衣の白地にはところどころ、青や黒の水玉模様。その浴衣が包んでいたのは、身長160センチほどの、10代の女子だった。
「タカムラ……」
気づけば、おれは声に出していた。1学年下の同じ学校の女子の苗字を、声に出していた。
本来、苗字を声に出す必要性などなかった。しかし、自然と『タカムラ』という苗字が声になって口から漏れ出した、という現実があった。
おれらしくない声音(こわね)で後輩女子の苗字を呼んでしまったおれの手から、ちくま学芸文庫がすべり落ちていた。慌てて拾おうとする。ページの汚れを払う。カバーを整え、両手で文庫本をギュッと挟み、元通りの状態にしようとする。
文庫本をバッグに手早く戻し入れる。視線を元に戻す。
浴衣姿のタカムラかなえがまだ立っていた。右手に持った団扇(うちわ)を顔のあたりに添えて、怪訝そうな表情でおれの方に眼を向けている。
おれはおれが焦っているのを否定できそうになかった。
口からこぼれ落ちた『タカムラ』という後輩女子の苗字。手からすべり落ちたちくま学芸文庫。
いったい何をやってるんだ……と自己嫌悪に陥るヒマも無く、
「なんでお祭りに来たんですか、マスダ先輩? というか、マスダ先輩がこの場所に居る理由って、なんなんですか?」
というタカムラの声が、飛んできた。
約5秒間、地面を見ながら口ごもった後で、
「どういう意味だ、何が言いたいんだ」
という「訊き返し」を絞り出すも、
「だって、せっかくお祭りに来てるのに、屋台とかには眼もくれずに読書してるだなんて、この空間に居る意味、ないじゃないですか」
言い返すチカラが沸かなかった。
胃袋のあたりが何とも言えない感覚になる。不快感といえば、不快感か……。
タカムラかなえの顔もカラダも、上手く見られない。
白地に水玉模様の浴衣に眼を寄せようとすると、眼の動きが停まってしまう。
次第に、苦しさに苦しさが重なっていく。
「わたし、ヒト探しをしてるんですよぉ」
タカムラがいきなりそんなコトバを出してきた。
「マスダ先輩にも、一応お尋ねするんですけど」
と言ってきてから、
「栗色の長い髪をリボンでまとめた、とんでもなく美人な、水色系の浴衣の若い女性を、ご存知ありませんか?」
「……はぁ??」
ワケがわからないことを尋ねられた弾みで、おれは、タカムラかなえの姿を直視した。
「なんですか、その眼」
機嫌を損ねたような表情でタカムラは、
「ご存知ないんですね」
と言い、天を仰いで、
「あーもーーっ、お祭りの楽しみ、半分無くなっちゃってるじゃーーんっ」
と不満の声を上げる。
おれは、やや視線を下げながら、
「探してる女性(ヒト)は、おまえとどんな関わりがあるんだ」
すると、タカムラは、
「おおっとぉ」
と、おかしな声を出したかと思うと、
「栗色の髪のとんでもなく美人な水色浴衣の若い女性に、先輩も興味をお示しになられてるんですね?」
と、おれを面白がってくるように言い、
「マスダ先輩も、オトコノコなんだ。」
と、非常に余計なコトバを、ぶち当ててくる。
× × ×
羽田愛(はねだ あい)さんという女子大学生が来ている。タカムラたちのクラブ活動のOBである男子(ヒト)のお姉さんだという。タカムラはいつの間にか羽田愛さんを見失ってしまったから困っている。
「ほら、この女性(ヒト)です。こんな浴衣美人、今まで見たコトないでしょ?」
本当に『見たコトがなかった』ので、おれはコトバを無くし、タカムラが見せてきたスマートフォンの画面から眼を逸らしてしまう。
「やっぱりオトコノコなんだぁ」
無邪気に言うタカムラに、
「うるせえ」
と乱暴なコトバを吐いてしまうおれ。
おれの乱暴さに歯向かうのではなく、
「……たこ焼きソースの香ばしい匂いがする」
と、夜店から漂う食い物の匂いに話を強引に転じてくるタカムラ。
「買ってくればいいじゃねえか」
「どーしよっかな」
取り出した財布を凝視するタカムラ。
お小遣いと相談でもしているのだろうか。
ひょっとすると、財政状況が厳しめなのだろうか。
それならば。
「欲しいのか? タカムラ」
「……え」
「たこ焼きがどうしても食いたくて仕方ないんかってことだよ」
僅かにためらった後で、
「どちらかと言えば……どうしても、欲しいです、たこ焼き。とってもいい匂いだし」
「だったら」
おれは、どういうわけか、タカムラに向かって1歩踏み出して、
「買ってやらんでもないが」
「!? 先輩が、払ってくれるってコトですか!?」
気づけば、どういうわけか、
「先輩だからな」
と……おれは、言い切っていた。
× × ×
おれは何を言ってるんだ。どうしてこんな行動に出てるんだ。自腹でたこ焼きをタカムラに買ってやるなんて、おれはどうかしてるのか?
合理的な思考や行動ができなくなってる。こんなの、高校に入学してから初めてだ。たぶん、中学時代も、こんな状態になったことはなかった。
すべては。
すべては……。
認めたくは、ないが……。
タカムラかなえの浴衣姿を見た瞬間。
『そこ』から、『すべて』が、自動的に始まっていってしまったのだ。
ブレーキの無い乗り物。
そう喩(たと)えるしかない。
おれの理性がおれの感情を少しも制御できていない。
そもそも、制御できる術(すべ)など最初からなかったのか。
× × ×
タカムラがたこ焼きを食い終わってから少し一緒に歩いていたら、KHK(桐原放送協会)の活動ぶりに疑問を呈する気が完全に失せた。
この会場に来た当初は、タカムラに向かって『KHK批判』を浴びせてやる気で満々だったのに。
そういうエネルギーが失せてしまったのをタカムラの浴衣のせいにしたくて、右サイドのタカムラの白地浴衣(しろじゆかた)を睨みつけようとする。
しかし、白地浴衣の水玉模様が街灯でキラキラと照らされるのを眼にして、素早く視線を外してしまう。
「うわぁーーーっ」
突拍子もなく、叫び声同然の声をタカムラが上げた。
「見てくださいあのかき氷屋台!! フレーバーが10個以上もありますよ!!」
「10個以上フレーバーがあるのは、珍しいのか?」
そう訊くと同時に、右サイドのタカムラに再度眼を寄せようと頑張る。
しかし、タカムラの眼がこれまでになく輝いているのに直面して、さっきよりも素早く視線を外し、左サイドを向いてしまう。
タカムラの反対側を向いたまま、なにがなんだかわからないままに、
「どんなフレーバーが好きなんだ」
という問いを発してしまい、
「買ってやる。……返さなくていいから、たこ焼きの分の金も、かき氷の分の金も」
という、あり得ないセリフを口から出してしまう。
タカムラが視線を寄せてくる気配が濃厚に漂ってきた。
おれは、不甲斐なく眼を閉じながらも、顔の向きはどうにか元に戻す。
タカムラが何にも言わない。
だから、おれは、恐る恐る眼を開く。
タカムラは、今日1番の真顔だった。
× × ×
花火が揚(あ)がる直前。
まだ、2人だけで、隣り合って立っちまっている。
「マスダ先輩」
依然としてタカムラの距離が近いから、反応するのが難しい。
高校2年の女子であるのを過剰に意識してしまうのが、コトバを返すのを邪魔してくる。
おれの沈黙に構うことなく、
「負けませんから、2学期も。センパイには。」
立ち向かうためのコトバをなかなか振り絞れず、
「……強いな」
というコメントしか言えず、ココロの中で激しく自分自身の情けなさを恨む。
「はぃ!?」
タカムラかなえの発する声は、如何にも苦々しい顔になっていそうな声。
「しょーじきダサいです、今のセンパイの表情も、今のセンパイの声も、どっちも。よっぽど、『不幸が訪れる呪い』をかけられたいみたいですねえ」
そんな後輩女子の厳しいコトバを、荒れているさなかのココロの中で噛み砕こうとする。
――噛み砕き尽くす前に、最初の花火の音が、炸裂する。