13時50分。俺のアパートの部屋。ひたすら机に向かって、漫画を制作中である。
背後では大井町侑(おおいまち ゆう)さんが眼を光らせている。彼女の監視の眼から逃れられる術など無い。部屋に入ってきた瞬間に俺のスマートフォンを没収するなど、いつも通りの厳しさを存分に発揮させていた。
ペンを動かし続けるしか無い。『何もしないのも退屈だから、ワイヤレスイヤホンで音楽聴きながらあなたを観続けてるわ』と言うと同時に、大井町さんは俺のベッドに腰掛けた。きっと、俺の気の緩みを感じ取った瞬間に、ワイヤレスイヤホンを外して立ち上がり、急速接近してきて咎(とが)めてくるコトだろう。そうなったら怖い。鬼より怖い。
それにしても、大井町さんは、ワイヤレスイヤホンで音楽を聴き込む程に音楽が好きだっただろうか? たしかに、大井町さんが入社したのはレコード会社だ。でも、『大学時代、音楽にめちゃくちゃ造詣が深いというワケでも無かった』という認識を俺は持っているんだが。
「あ」
余計なコトを考えていたからバチが当たったのだろうか、『あ』という「気付きの声」が背後からやって来て、
「あなた、わたしの音楽の趣味を舐めてるんじゃないの? 疑ってるんでしょ、わたしがどれだけワイヤレスイヤホンで音楽を聴き続けられるのかを。漫画制作からキモチが逸れちゃってるみたいね。あなたの猫背の度合いで分かるわ」
痛烈に俺を縛ってくる大井町さんは、
「まず、音楽聴くのも仕事の一部だっていう前提があるし。その次に、『聴く曲が9割方深夜アニメの主題歌のあなたよりは、バランス良く楽曲を聴いている』っていう事実があるし」
聴く音楽のジャンルの多様さを強調してくる彼女。俺は言い返せない。『9割方』という指摘が的確過ぎて恐ろしい。
× × ×
俺のすぐ後ろにいきなり立ってきて、『もうちょっと描線が太い方が、漫画の内容に合ってるんじゃないの?』とダメを出してきたりする大井町さんがいた。
ダメを出した後、離れぎわに、『新田(にった)くんの『まんが道』を応援してるんだから、アドバイスなら何回でもしてあげるわよ』と言ってきた。『まんが道』と彼女が言ったコトで藤子不二雄A先生の某名作漫画をすぐにイメージしてしまったが、おそらく藤子不二雄コンビの2000分の1ぐらいしか俺には能力が無い。『アドバイスなら何回でもしてあげるわよ』という彼女のキモチを受け止める一方で、俺自身の『まんが道』の行く末が不安になってしまい、原稿用紙の中のキャラクターの輪郭を描く勢いが鈍ってしまった。
なんというか、「受け身」である。
大井町さんがピッチャーだとしたら俺はキャッチャーで、というコトは俺は彼女の投球を捕球する側で、しかも彼女はノーサインで豪速球をガンガン投げてきている。彼女の球速は時に150キロを超える。……いや、160キロを投げる投手が何人居てもおかしくない時代だから、彼女の球速も158キロぐらいに見積もっておいた方がいいのかもしれない。
俺のキャッチャーミットを無視して彼女が投げてくるコトがある。身体(カラダ)で受け止めるしかないのだが、身体(カラダ)で受け止めるたびに痺(シビ)れるような痛さがやって来る。
俺と大井町さんのバッテリーは逆にならない。すなわち、俺は永遠にキャッチャーで、彼女は永遠にピッチャー……。しかも、彼女の方が立場がだいぶ上である。俺が高卒ルーキーのキャッチャーだとしたら、彼女は実働10年以上のエースピッチャーだ。
「受け身」になってしまう。どうしても「受け身」になってしまう。
ただ、本来は、俺と彼女は対等な立場であるべきはずだ。大学の同期という以外にも、対等な立場であるべき根拠は3つ以上思い浮かぶ。
それらの根拠をいちいち説明していたら収拾がつかなくなるので、根拠の詳細は敢えて伏せておくが、最も肝心なコトは、
『俺だって、『受け身』のままじゃいられない。いつまでも、『受け身』のままじゃいられない』
というコトだ。
「受け止める側」を終始貫くのは、耐え難いし、情けない。それに、受け止めてばかりだと、面白くない。10回に1回ぐらいはボールを投げ返したい。その方がもしかしたら、彼女にしてみても「張り合い」があるのかもしれないんだし。
俺は俺のカラダの向きを180度変えて、ベッドに座りっぱなしの大井町さんを眺めてみた。
今日もジーンズ穿(ば)き。ただ、ジーンズの色が珍しく薄い水色である。ここまで薄い水色のジーンズを彼女が穿いてきたのは、直近3ヶ月で3回だけだと思う。
眼を閉じながら音楽鑑賞中。ワイヤレスイヤホンで音楽の世界に入り込んでいる。眼を閉じるまで没頭しているのは意外だった。俺にひたすら睨(にら)みをきかせながら曲を聴いていると思ったから。
眼を閉じた彼女がリズムに乗っているのが、彼女の顔の動きから分かる。16歳の少女がお気に入りの曲のリズムと一体になっているかのようだ。正直言って可愛いのだが、『かわいい……』と声を漏らしてしまうと俺は途端に自己嫌悪に陥ってしまうだろうし、それ以上に、可愛い彼女の挙動を味わい続けるよりもやるべきコトが俺にはある。
俺は覚悟でもって息を吸い、息を吐いた。
閉じていた彼女の眼が開いた。覚悟という「対価」を払い、俺は俺の眼を彼女の眼に合わせた。
弾みで、彼女の背筋が伸びた。
すかさず、
「そんなに伸び上がる必要、無いよね」
と俺は言い、
「少しだけ休憩させてもらうよ。15分だけ時間をくれよ。――もっとも、きみがどれだけ『ダメ!』と言っても、『15分間』を俺は死守すると思うが」
と言った瞬間に、椅子から立ち上がった。
彼女は慌て気味にワイヤレスイヤホンを外そうとする。俺のサマになっていないセリフがどれだけ聞こえていたかは分からない。
俺が距離を詰めるのに比例して焦りを増していく彼女はやっぱり16歳の少女みたいだった。
とにかく、彼女から見て右隣に座ってみる。そうしなければ「15分間」は始まらない。
彼女の両脚に余分なチカラが入っているのが伝わってきた。同じベッドに座っているコト以上に、これまでのコミュニケーションの蓄積が、彼女の余分なチカラを俺に感知させた。
……『チカラが入り過ぎると、窓の外の景色が暗くなるまで座り込んでしまう』と思ったから、「作戦」を練り直してみる。
「驚かせたなら、謝る」
短くそう言って、腰を浮かせて、
「でも、俺には、要求したいコトがあって」
と告げ、完全に立ち上がる。
「よう……きゅう……??」
俺の右斜め下の彼女は完全に戸惑っている。直近6ヶ月でいちばん眼が大きく見開かれている。
「立ってほしいんだけど」
と俺。
「どうして……」
と彼女。
直近6ヶ月でいちばん唖然としている彼女が眼に映るから、苦笑いをこらえ切れない。
でもそれではダメなので、
「10分以内に立ってくれ。ゆっくりでいいから」
と要求のコトバを重ねてみる。
「『10分以内に、ゆっくり立つ』って。あなたのコトバのイミが理解できないから、わたし、カラダを動かせない……」
「それは悪かった」
キッパリと謝り、なおかつ、彼女の両肩めがけて、一直線に両手を伸ばす。
全精力を籠めて、彼女の両肩に両手のひらを柔らかく置く。
それから、
「俺の助けを借りたら、立ち上がれるかな?」
と言い、さらに、
「立ち上がれるよな」
と、ヒトリゴトの如く言い足す。
「セッキョクテキ……すぎるんじゃ、ないのっ??」
直近9ヶ月でベスト3に入るほど狼狽(うろた)える彼女に、
「あるいはそうとも言う」
と答え、容赦せず妥協せずに、その両眼に視線を注ぎ込む。
「あなた、こんなコトして、なにがしたいのっ」
彼女は言うが、
「もちろん、きみを立ち上がらせたいんだ」
精一杯抵抗の彼女は、
「だからっ、わたしがたちあがったあとにっ、いったいなにをしたいのかって――」
俺は、相手が言い終わらない内に、
「選択肢だったら、絞り込めるだろ?」
と言って、それから一旦、自分自身の言動ゆえの恥ずかしさを覚えるものの、その恥ずかしさを拭い去って、彼女の両肩に注ぎ入れる優しさを強めていく。