蜜柑の作ったハヤシライスを3杯食べ、邸(いえ)を出て、最寄りの停留所で路線バスに乗り込み、昨年度までアルバイトをしていた某・商店街へと向かった。
アルバイト先だった模型店の中に入った時、午後2時をもう既に過ぎていた。模型店を訪ねる前に、馴染みの古書店と馴染みのレコード店で買い物をしていた。模型店のご主人のイバセさんの許可を得て、購入した古本とレコードを店内に置かせてもらった。
古本の入った紙バッグとレコードの入った紙バッグをレジカウンターの後ろのスペースに置いた後の腕は一気に軽くなっていた。
テレビを観ていたイバセさんが振り向いてきて、
「天堂(てんどう)さんの店と針生(はりゅう)さんの店に行ったんだろう? ずいぶんと買ったんだねえ」
天堂さんは古書店のご主人の苗字であり、針生さんはレコード店のご主人の苗字である。イバセさんのご指摘の通り、かなりの数の1000円札が古本とレコードのために消えていった。
社会人になったのだから、「なおさら」である。多くの1000円札でかさばっていたお財布は嘘のように厚みを失っていた。
「アカ子さんは、本と音楽がホントに好きなんだねえ」
イバセさんのそういうおコトバに、
「ハイ」
と、ココロからの笑みで、わたしはお返事をする。
イバセさんは、眼を細めて軽く頷いてから、わたしの父親なんかとは違って人を納得させるチカラのある「大人の微笑み」を湛(たた)えて、
「ミニ四駆大会、隣で始まってるからさ。覗いてごらんよ。ガキンチョどもの扱いに手こずるかもしれないけど」
『とっくに社会人なのだから、レジの前に立ったりするのは良くない』とココロに決めていた。わたしの「線引き」をイバセさんは当然のコトながら理解してくださっている。
レジの前に立つ代わりに、隣接の会場で行われているミニ四駆大会を見てみるコトをイバセさんは勧める。
その勧めに対して、わたしはすぐさま首を縦に振る。
小学生の男子たちが生意気で厄介なのは事実だ。でも、アルバイトの経験を積み重ねていく中で、生意気で厄介な男子たちと渡り合うコトに「やりがい」を見出すコトができるようになった。
あの子たちとも社会人になってから「ご無沙汰」だし、顔を合わせた瞬間に「懐かしさ以上のモノ」がこみ上げてしまうかもしれない。
× × ×
キヨシくんは今年の春から小学3年生の男の子である。
ミニ四駆大会の会場に入ったら、わたしの服をくいくい、と引っ張ってくる男の子がいた。その子がキヨシくんだった。
予想通りに、「懐かしさ以上のモノ」がこみ上げてきたコトによって、わたしの胸は熱くなった。
優しくしてあげたい。そんなキモチがココロの90%以上を占めていた。だから、社会人のお姉さんとしての優しさを籠めた視線を、正面に立つキヨシくんに注いであげていた。
けれども、わたしの優しさを裏切るように、
「アカ子ねーちゃん、だいじょーぶなん? シゴトがもう、イヤになってんじゃねーの?」
とキヨシくんが言ってくるから、わたしは焦って冷静さを欠き、
「い、いきなり、そういうコトを訊くのは、どうしてなのかしら、キヨシくん??」
「だって」
落ち着き払うキヨシくんは、
「アカ子ねーちゃんの会社、『ブラック』だと思うし」
右手を握り締めてしまうわたし。
背中に冷や汗を感じ取ってしまうわたし。
キヨシくんを見下ろす眼が険しくなってしまうわたし。
もちろんのコト、キヨシくんが事実を言い当てているから、では、あり得ない。
「……誰かがフェイクな情報を流してるっていうのかしら」
思わずそんなコトバをこぼしてしまうわたしに、
「ふぇいくなじょーほー??」
と無邪気に言ってくるキヨシくん。
「キヨシくん? わたしの言うコト、よく聴いて、答えて?」
「え、なんなんだよアカ子ねーちゃん、急にマジ顔になって」
「どうして、わたしの会社が、『ブラック』だって、思ったの?」
キヨシくんが十二分に理解できるように、ゆっくりとコトバを区切ってわたしは問いかけた。
しかし、キヨシくんは、わたしの真剣さを裏切るように、
「なんとなく」
と、あどけない苦笑いで……!!
わたしの上半身に良くない熱が籠もっていき、心拍数が急上昇する。
『大手自動車メーカーの、優雅な社長令嬢』という定評は、実は的を射ていない。短気だ、短気なのだ。大企業のお嬢さまではあるけれど、すぐに我を忘れてカッとなるから、『優雅』だとかいう形容は全くの見当違いなのだ。
握り締めていた右手を開き、スウウッ……と上昇させていく。
当然のコトながら、キヨシくんを平手打ちする意図などは無い。そんな意図があるはずも無い。そんな真似に出たら、この社会に居られなくなってしまう。
わたしの右手は他人に暴力を振るうためのモノでは無い。……蜜柑を時(とき)たま折檻(せっかん)するコトならあるけれど。
上昇させた右手は、キヨシくんの頭頂部へとゆっくり向かっていく。
これ以上無いほどのソフトさで、キヨシくんの頭頂部にタッチする。
大人のお姉さんとしての愛情。社会人のお姉さんとしての愛情。
そんな愛情を、キヨシくんの頭頂部に浸透させていきながら、
「人をバカにしないコトバと態度を、よっぽど教わりたいみたいね……」
と、わたしは告げた。
どんな声音(こわね)で告げたのかは社会人の事情で伏せるけれど、周囲の小学生男子たちの注目がわたしとキヨシくん方面に着実に集まってきているのは、疑いようも無かったのだった……!!