苦しい夢を見てしまった。苦しい夢が尾を引いた。だから、キャンパスに到着するのが30分遅れてしまった。
午前9時30分を過ぎた。文学部キャンパスの奥の方のベンチに腰掛けている。苦しい夢を見る前から、『今週の土曜の朝は、文学部キャンパスの過疎ってる場所でマッタリしたい』と決めていた。苦しい夢を見たからキャンパス内の過疎地点に引きこもりたかったワケでは無い。
予想以上に静かだ。さっきまでカラスが来て鳴きわめいていたけど、そのカラスも飛び去ってしまい、ほとんど無音に近い空間になっていた。
あまりにも静けさに包まれているからだろうか、苦しい夢がぶり返してきてしまう。
夢の内容その1。元カレが出てきた。元カレは、ただ出てきたワケでは無く、別れのコトバを告げてきた。言わば、ツラい過去のフラッシュバックだった。大学入学後3番目につきあった彼氏が別れを告げてきたのは、去年の梅雨明けの時期だった。つまり、大学生活における3番目の彼氏との別れからちょうど1年が経とうとしているのだ。1周年記念なんだけど、もちろん少しも記念したくは無かった。
夢の内容その2。両親が出てきた。実家暮らしなのに夢に両親が出てくるだなんてちょっと奇妙な話だけど、両親との今の距離感が、両親が出てくる夢をわたしに見させたのかもしれない。当然のごとく、両親はわたしにお説教をかましてきた。現実世界で言われるお小言(こごと)よりも遥かに苛烈(かれつ)なお説教だった。寝起きの左側頭部が疼(うず)くぐらいの苛烈さだったから、階下(した)のダイニング・キッチンで両親と顔を合わせたくなくなった。
× × ×
羽田愛ちゃんをからかったバチが当たったのかもしれない。先月のコトだった。わたくし城(じょう)ミアは、文学部キャンパスにおいて、この場所と同じぐらい閑散とした地点で、隣に座る愛ちゃんに、愛ちゃんの彼氏さんに関する話を振った。わたしの興味がエスカレートして、「カップルの今後」に話が及んでしまった。勢い余って、『結婚式会場はこんな所がオススメなんじゃないの!?』とか、カップルのデリケートな◯◯に触れる発言まで口から出してしまった。
いったんフキゲンになったけど、愛ちゃんは許してくれた。
でも、昨夜(ゆうべ)の悪夢はやっぱり、先月某日に愛ちゃんをからかい過ぎたコトの罰(ばつ)だったのかもしれない。因果応報。悪いコトをしたら必ず自分に返ってくる。
罪の意識を感じながら、バッグから新潮文庫を取り出した。新潮文庫を握り締めるチカラが強くなり過ぎたから、ロングスカートの上に慌てて置いた。
ロングスカート上の新潮文庫の表紙を見つめた。
トルストイの『青年時代』という作品だった。
トルストイを読もうとするのは実は人生初だった。新潮文庫には『戦争と平和』も『アンナ・カレーニナ』もあるというのに、なんでこれまでスルーしてきたんだろう。わたしは、『新潮文庫をひたすら読む』という試みを大学入学後ずっと続けていて、5年生の現在、読了した新潮文庫は400冊を超えている。それなのに、その400冊の中にトルストイは一切入っていない。
古書店で買った『青年時代』。何が書かれているのか予測できない。おそらく、トルストイ自身の『青年時代』を回顧するような側面が大きいんだろう。だけど、いったい青年時代の何を回顧するっていうんだろうか。
もしかすると、失恋、とか?
青年時代に失恋は付き物。19世紀でも21世紀でも、そのコトに変わりは無い。
もし、この古い新潮文庫の中に失恋が描写されてたなら、ちょっぴりイヤだな。
だって、元カレが悪夢に現れたばっかしなんだもん。
× × ×
過疎地点のベンチに腰掛け続けて『青年時代』の表紙を見つめ続けていた。
腕時計を確かめた。『青年時代』の表紙を見つめ始めてから約20分経過していた。
失恋描写があるのかどうかが気になってしまうのが主な理由で、読み始めるのをためらっていた。
でもそろそろ、覚悟を決めて気合いを入れる必要があると思った。
「読まなきゃ前に進まないんだ。覚悟しろ、気合いを出せ、わたし」
わたし自身に向かってそう言った直後にロングスカート上の『青年時代』を掴み取り、大きく息を吸ってから、表紙カバーの折り返しに右親指をくっつけた。