五月雨(さみだれ)の名残のような長雨が止んでくれない。午後のコーヒータイムだというのに、雨音が鬱陶しくて、川又(かわまた)ほのかちゃんが持ってきてくれた豆で淹れたコーヒーを上手に味わえていない。
邸(いえ)のダイニング・キッチン。ダイニングテーブルを隔てて真向かいにほのかちゃん。わたしとは対照的に、ココロ穏やかに、美味しそうに、コーヒーを味わっている。
ほのかちゃんはコーヒーカップを口に近付け、中身を啜(すす)る。啜る音がほとんど聞こえてこない。どうやったらこんなに丁寧にコーヒーを啜られるんだろうか……?
コーヒーカップをテーブル上に置くほのかちゃん。置く音すらもほとんど聞こえてこなかった。ほのかちゃんの丁寧さによって劣等感みたいなモノも感じ始めてしまう。劣等感の自覚がわたしを俯かせていく。
「あすかちゃん」
ほのかちゃんが呼び掛けてきた。
呼び掛けに呼応しなきゃいけないのに何にもコトバが出てこない。しかも俯いている。
サイアク。眼の前の大親友と上手くおしゃべりできないなんてサイアク。
ほのかちゃんは、
「スポーツ新聞記者の『予習』はしてるの?」
と彼女の素肌みたいに柔らかな声で訊いてくる。
不甲斐無いなりに答えるしか無かった。
声を振り絞らないワケにはいかない。俯いたままであっても。
義務がわたしにはあったから、
「うん、してるよ」
と弱い声音(こわね)ながらに答える。
さすがに、『うん、してるよ』だけでは答えとして失格だろう。もっと具体的に説明する必要がある。だから、
「記事を書く練習をしてるの。例えば、プロ野球の試合結果を毎日チェックして、それを素材にして文章を書いてみたり」
と、目線は未だ上げられないけど、具体的に説明する義務を果たしていこうとする。
「スゴいね。やっぱりあすかちゃんは流石だね。文章を毎日書く能力(チカラ)なんて誰にでもあるワケじゃない。もちろんわたしにもそういう能力(チカラ)は乏しいし」
そんな風にわたしを称(たた)えるほのかちゃんに対して、
『卑下(ひげ)しないでよ……』
と胸の奥だけで呟いてしまう。
わたしは、
『あすかちゃんは『高校生作文オリンピック』の『銀メダリスト』なんだもん。当然、そういう能力(チカラ)が備わっていないはずが無い。正直、ちょっぴり羨ましいかも』
というような称賛のコトバがほのかちゃんの口から出てくるのが怖かった。
でも、この流れだと、そういう称賛のコトバが出てこない可能性の方が薄い。怖いから、称賛のコトバを出してきてほしくないのが本心だけど、褒め称えてくるほのかちゃんの勢いを押し留められそうにない。
俯いて、びくびくしながら、ほのかちゃんが褒め称えてくるのを待つ。俯いて待機するコトしかできないだなんて。今日のわたし、見た目もココロもいつもの3割増しでブサイクだ。
情けない身構え方をしたまま時間が経過する。
雨脚(あまあし)は弱まるどころか響きの強さを増幅させていっている。
……小さな違和感がわたしには芽生えていた。
いつまで経っても、ほのかちゃんから、わたしの文章能力を褒めちぎるコトバが届いてこないのだ。
なんで沈黙してるんだろう。奇妙な間(ま)が生まれてる、生まれちゃってる。ほのかちゃんが早く褒めちぎってくれた方がむしろわたしには「ありがたい」のに。ダメージを受けるのは当たり前だけど、奇妙な間(ま)が持続し続けるよりは全然マシだ。早く何か言って欲しい。たとえ褒めちぎりのコトバであっても。わたしの胸の中にダメージを与える褒めちぎりのコトバであっても。
ほのかちゃんがなぜか何にも言わないから、却(かえ)って、わたしの目線が上昇を始めていく。
視界に入ってきたほのかちゃんは笑顔。でも、たしかに笑顔ではあるんだけど、真面目なキモチが笑顔の周りに漂っている気がする。さっきからの怖さとは別種の怖さが生まれてくる。これはシリアスな笑顔だ。女子の直感、大親友としての直感で、把握する。把握できてしまう。
彼女は、ようやく口を開く。
「あすかちゃん、なんかジメジメしてない?」
……こういう疑問形のコトバが、わたしに向かって送り届けられてくる。
完全に予想外だった。「肩透かし」とはちょっと違う。「肩透かし」だったら遥かに穏便だろうけど、ほのかちゃんが今言ったコトバは100%穏便じゃない。称賛とは全く別の意味合いの疑問形のコトバが、わたしの感情をドラスティックに動かしてくる。
激しい感情の揺らぎと連動して、目線がさらに上昇していった。真顔のわたしの眼が、シリアスな笑顔のほのかちゃんの眼と、ついにドッキングする。
その途端に流れたのは冷や汗だった。冷や汗が背中を伝うメカニズムを理解できないままに、わたしはわたしの視線をほのかちゃんのシリアス笑顔に固定させる。
今度は、冷めた感触が胸を抉(えぐ)ってくる。ほのかちゃんのシリアス笑顔に、そこはかとなき冷気(れいき)を読み取って感じ取ってしまう。カラダの前側も後ろ側も冷え冷えとしてくる。
『あすかちゃん、なんかジメジメしてない?』
ほのかちゃんはそう言った。わたしの態度が『ジメジメしてる』ように見えたんだろう。
だけど、ほのかちゃんは誤解している。持ち前の読解力とは裏腹に、眼前(がんぜん)のわたしを『誤読』している。『ジメジメ』じゃない。湿っぽさの100倍の『冷たさ』がわたしの全部を包み込んでいこうとしている。……これが、事実。
ジメジメしてたら、恐怖感の温度がこんなに低くなるワケないじゃん。
氷点下に近いんだよ、わたしの恐怖感?
もはや、ほのかちゃんのシリアス笑顔をまともに見られる余力は残っていない。あっちに行ったりこっちに行ったりと、わたしの眼が、自由過ぎる泳ぎ方の泳ぎを始めている。
ひとりでに、
「ジメジメよりも……ヒンヤリ、だよ」
と情けない声が自分の口からこぼれた。
「ヒンヤリ?」
問いのコトバを返すほのかちゃんが居た。彼女はゆっくりと『ヒンヤリ?』と言った。『ヒンヤリ?』と言うだけの短い疑問呈示だったけど、本当に丁寧な疑問呈示の仕方だったから、わたしのココロの暴れ出しを喚起するには十分だった。
わたしは音を立てて椅子から立ち上がってしまった。
暴力的な立ち上がり方。大親友女子の気分を既に害しているかもしれない。
左サイドに顔を背けた。視線の先には大きなコンロがあった。
コンロの中の1つに、さっきコーヒーを淹れるためにお湯を沸かしたヤカンが置かれたままになっている。
さっき沸騰していたヤカンをわたしは凝視する。