午後3時5分である。「笹島飯店(ささしまはんてん)」は昼休み中である。
エプロンを外して客席の椅子に腰掛け、テーブル上の2紙(にし)のスポーツ新聞を見ていた。2紙の片方は「青春(せいしゅん)スポーツ」、後輩の戸部(とべ)あすかちゃんが来年度から記者を務めるコトになるスポーツ新聞だ。なお、もう片方のスポーツ新聞の詳細は「笹島飯店」の都合により省略させていただきます。
2つのスポーツ新聞が中央競馬の同じレースの馬柱(うまばしら)を載(の)っけている。2つのメインレースの馬柱(うまばしら)を見比べる。「馬柱」とは、競馬予想のための出馬表のコトである。JRA公式の出馬表よりも細かい情報が書かれていて、馬名の下には予想印を記す欄が置かれている。
今年で24歳のわたしは、実家の中華料理店たる「笹島飯店」の仕事が土日は特に忙しいから、原則土日開催の中央競馬の馬券を買ったコトが無い。原則平日開催の南関東競馬の本場(ほんじょう)に行ったコトも1回も無い。
公営ギャンブルとは一見関わりが無いようなわたしが、なぜ「馬柱」なる独特の用語を知っているのか? そして、なぜ今この時、スポーツ新聞の馬柱に眼を凝らしているのか?
それは――。
× × ×
「ソースケ、競馬中継はいいの? メインレース、始まっちゃうよ? 今だったら、店内(ここ)のテレビでテレビ東京の中継観(み)られるよ?」
まさにメインレースが始まろうとしている時間帯。中村ソースケにカラダを近付けて、『甘え寄り』の声で訊いてみる。
中村ソースケが「笹島飯店」のガラス扉の前に姿を現したのはたった3分前だった。ソースケの帰京(ききょう)が嬉しくて、ヒョロヒョロしたカラダを全速力で店内に引き入れた。現在(いま)は、客席の椅子で隣同士。左横のソースケとの距離をどんどん無くしていくわたしがいた。
『エプロン付けて出迎えた方が良かったかな?』と一瞬だけ思った。だけど、生身(なまみ)のソースケと久々に寄り添えている幸福感によって、エプロン付ける・付けないだとか、そういうコトが本当にどうでも良くなった。
あと2センチで、ソースケの右肩にわたしの左肩が触れる。
「マオ」
わたしの名前をソースケが呼ぶ。くすぐったくて嬉しい。
「なあに」
わたしの『甘え寄り』の声は持続する。
「現在(いま)は、レースは、後回しでいいんだ。JRAレーシングビュアーって文明の利器があるんだし」
優しく言うソースケに、
「JRAレーシングビュアーを使えば、レースリプレイ映像が幾らでも観られるんだよね」
「レースリプレイだけじゃないぞ、マオ。パドック映像だって見返せるんだ」
『甘え寄り』だったわたしの声が『甘々(あまあま)』に発展し、
「あんた、『パドック派』じゃなかったじゃん。『馬体のコトで素人があーだこーだ言ったって仕方が無い』って言ってたじゃん」
と言うと同時に、ついに肩に肩を密着させて、それから、
「なんだか、JRAレーシングビュアーの宣伝みたいな会話の流れになっちゃってるね」
と言い、『甘々レベル』を2段階上げていく。
「……だな。おまえの言う通りだ。意図的にPRするつもりなんて無いんだが、事実上、PRみたいになっちまってる」
「わたしたちまるで、中央競馬ピーアール・センター……」
「ははは、確かにな」
ソースケの温かい声が来る。
吐息の温かさまで実感できちゃう。