ビル・エヴァンスのピアノが鳴り響いている。外の小雨と調和している。
そして眼の前のダイニングテーブルの椅子にはあすかちゃんが座ってくれているのである。
わたしの左斜め前の時計の針が午後2時20分を示している。平日なのだからアツマくんは仕事場に行っていて不在である。しかしその不在をあすかちゃんが埋めてくれているのだ。アツマくんの実の妹にしてわたしの妹分たるあすかちゃん。わたし独りでマンションの部屋に籠もっていたらダレてくる時間帯だから、あすかちゃんが居てくれて本当に助かる。
「ビル・エヴァンス流し続けてるけど、そろそろ飽きてきたんじゃない?」
わたしは訊いた。わたしよりも『ロック女子』の度合いが何倍も高いあすかちゃん。ジャズピアノの何倍も刺激的な「音」が欲しくなってくる頃合いなのかもしれないと思ったのだ。
「リクエストしてくれたら、CDをチェンジしに行ってあげるわよ」
左腕で軽く頬杖をつきながら言ってあげる。
すると、あすかちゃんが前のめり気味になって、
「『サバス』がいいです」
わたしは少し驚いちゃった。『サバス』といえば当然『ブラック・サバス』だ。ブラック・サバスなのだからビル・エヴァンスよりは何倍も激しい。でも……。
「ずいぶん昔の洋楽が聴きたいのね? たぶん『Paranoid』辺りが聴きたいんでしょ?」
「ずばり」
あすかちゃんは即座に答えるけど、
「『ワルツ・フォー・デビイ』と『Paranoid』のリリース年、実は10年ぐらいしか違わない……」
とわたしは言ってしまう。
不用意なわたしのコメントを華麗にスルーして、
「こまかいコトはいいんですよ、こまかいコトは」
とあすかちゃんは言い、
「団塊世代がハマってたような洋楽、わたし割りと好きだし」
と言って、朗らかに笑う。
× × ×
オジー・オズボーンのボーカルに聴き入りつつ、あすかちゃんは砂糖いっぱいのホットカフェオレ(2杯目)を味わっていた。
アルバムの再生が終わった。静寂が訪れた。
『是非とも』とか『どうしても』とかそういう副詞は付かないけど、訊きたいコトがわたしにはあった。
あすかちゃんがマグカップから口を離した瞬間に、
「川又(かわまた)さんとは会ってるの?」
と言ってみた。
軽めの好奇心に過ぎなかったから、何気なく訊いてみる時によく用いる声音(こわね)で訊いてみた。
マグカップをテーブル上に置かないまま静止するあすかちゃんが居た。
あれれ?
「『川又さん』って……ほのかちゃんのコト、ですよね」
わたしの妹分はコトバを出してはくれたけど、マグカップをテーブル上に置かないまま目線を下降させてしまう。
違和感を覚えながらも、
「そうよ。川又ほのかちゃん。わたしの可愛い後輩にして、あなたの大親友」
とコトバを返す。
どんどんあすかちゃんの目線が下降していく。
わたしの顔を見てくれなくなったからわたしは焦ってしまい、
「とっ、とりあえず、マグカップは置いた方がいいんじゃない?」
と促す声が慌て気味になってしまう。
× × ×
どうしちゃったって言うんだろうか。
亀裂? ケンカ?
わたし、あすかちゃんとほのかちゃんが出会った時から現在に至るまで、2人がケンカしたトコロなんて目撃したコト無い。
知り合ってからかなり時間が経っている2人なのだ。それでいて、不穏な空気になった場面を見せてきたコトが一切無い。わたしとあすかちゃんが険悪になってしまったコトは幾つか思い出せるけど、あすかちゃんとほのかちゃんが険悪になってしまったコトなんて記憶の箱の中に存在しているワケが無い。
それだけ仲良しだったのに、今さっき、わたしが何気なく『会ってるの?』と訊いた途端に、あすかちゃんが由々しきリアクションを見せてきた。ほのかちゃん関連のトピックでこんな風になるだなんて。『ほのかちゃんとショッピングして楽しかった』『ほのかちゃんと歩きながらした会話の中身が面白かった』『ほのかちゃんオススメのカフェのコーヒーがとっても美味しかった』。……いつもは、こういう風に、わたしに向かって笑顔で報告してきてくれるのに。
由々しい。
× × ×
マグカップは置いてくれたけど、視線は未だ斜め下だった。
問いを投げかけても生返事しか返ってこないのではないか。……そんな悪寒がわたしのココロを震わせる。
それでも、
『ほのかちゃんと、何かあったの?』
と問うてみる必要はあると思った。
わたしの左斜め前の時計の短針は午後3時を指し示し、長針は30分過ぎを指し示している。このマズい空気の中で夕方を迎えるのはマズい。わたしたちの空気が沈み込んだままの状態でアツマくんが呑気に帰宅してくる危険性がある。危険を回避するためには前に進んでいくしかない。そして前に進むためには、『ほのかちゃんと、何かあったの?』と切り込む必要がどうしても出てくるのだ。
だから、
「あすかちゃん。あなたのデリケートな部分に触れちゃったら、『ゴメンナサイ』なんだけどね」
と前置きしてから、
「ほのかちゃんと……何か、あったの?」
と、切り込みを実行してみる。
切り込む声が震えを帯びていた。情けなかった。情けなさの余波であすかちゃんから視線が右方面に逸れてしまった。
合わない視線。すれ違い。沈黙。
外で雨量が増しているのを感じ取る。気まずい沈黙のおかげで、雨量の増加を敏感に感じ取るコトができる。
わたしのカラダは指先までも冷え込み始めている。作動中の弱冷房を止めたいぐらいになってしまっている。
今、弱冷房を止めるために席から立ち上がったりするのは、本当に不甲斐無いし、情けない。大切な妹分のために、卑怯な姉貴分にはなりたくなかった。
だから、カラダの冷え込みにもココロの冷え込みにも耐えて、着座を続けた。
そして、「打開策」を産み出すために、両眼を閉じた。
「……おねーさん」
両眼を閉じてから数秒後に、わたしの妹分がわたしを呼ぶ声が耳に入ってきた。
当然のごとく、わたしは両眼を開ける。
「あのね、おねーさん」
ぽつり、と言ってから、5秒間程度間(ま)を置き、
「とりあえず、ごめんなさい」
と謝ってくる。
あちら側から謝られてしまったから、胃袋がキリキリと痛む。
「――それでね」
何も言えないわたしに、あすかちゃんの大人びてシットリとした声。
「ワガママ、なんだけどね。6月終わりまで、ほのかちゃんに関するコトには、『蓋(フタ)をしておいてほしい』かなー、って」
痛烈だった。
あすかちゃんは何にも悪くないに決まっているから、なおさら。
ミディアムのスカートの膝上付近を右手でキツく握り締めているわたしが居た。