先週の土曜日の城(じょう)ミアちゃんの、
『アツマさんの隣でウェディングドレス着てる愛ちゃんが早く見たいよ』
という発言が頭から離れない。
離れてくれない。
先月の教育実習の時の伊吹(いぶき)先生の、
『そろそろ――戸部(とべ)アツマくんと、結婚したくなってきたんじゃないの?』
という発言も頭から離れない。
離れてくれない。
ミアちゃんや伊吹先生だけじゃない。今年に入ってから青島(あおしま)さやかもこのような類の発言をわたし目がけて投げつけてきていた。
消化しようと思っても消化できない。消化しようとするから消化できない。
『結婚』だなんて。
たしかにわたしは高校1年の時からアツマくんとつきあっている。たしかにわたしは7年以上アツマくんのカノジョとして寄り添い続けている。2年前からはマンションで「ふたり暮らし」も始めている。
だけどいきなり『結婚』に関する◯◯について言及されたって困っちゃう。ココロの準備ができていないトコロに複数の人間から期待されたり弄ばれたり促されたり……。ただでさえ進路のコトで忙しない日々を送っているトコロなのに、ミアちゃんや伊吹先生やさやかの『そんな類のコトバ』が混入してくるから、脳内が無限のメリーゴーラウンド状態と化してきそうになる。
× × ×
今日のわたしのココロも落ち着きを欠いていた。
大学の中央図書館で勉強していた時だった。ふとした弾みで土曜日の『ミアちゃん発言』がフラッシュバックしてきた。途端に脳内全体に『ミアちゃん発言』が染み渡り、専門書に書かれているコトバもノートに書いたコトバも一切理解できなくなった。苦し紛れに『ミアちゃんのバカ!』とノートの欄外に走り書きしてしまう体たらくだった。
ションボリとソワソワとが掻(か)き混ざったままマンションに帰った。わたしが夕食当番の日だった。6月の半ばだというのに水道の水がやけに冷たく感じられた。キャベツをまな板に置いたけど脳内がこんがらかっているせいか次の工程を一瞬ド忘れしてしまった。しかも挽き肉を炒めている時に間違えてポン酢をフライパンに入れそうになってしまった。本来はオイスターソースを入れるべきなのに手にしていたのがポン酢の瓶だったのが大混乱の証拠になった。
アツマくんと向き合ってごはんを食べている間、『口数をできるだけ少なくしよう』と思い続けていた。下手に喋り過ぎるとボロが出てしまうと思ったからだ。試みは成功してほぼ無口のまま『ごちそうさま』までたどり着けた。でもその直後に今度は不安が生じてきた。不安というのは、『彼の舌がわたしの作ったモノに違和感を覚えなかっただろうか?』という不安だ。正直に言って本日わたしが調理した夕食は合格点とは言い難かった。もちろんわたし基準での物足りなさではあったけど、彼の舌が違和感を覚えない保証は存在しなかった。『もしかしたら味付けのコトで何か言ってくるのかも……』とビクビクしていた。
幸いにして食後の彼の口からは疑問も不満も出てこなかった。お料理におけるわたしの不甲斐なさを感じ取っている様子も無く、上機嫌と断定していい表情だった。
わたしが作ったお料理の味に鈍感なのは良かったけど、別の種類の不安が直ちに芽生えてきてしまった。別の種類の不安というのは、『彼の眼にはわたしの姿がいつもと違うように映ってないだろうか?』という不安だ。落ち着きが無くてグジャグジャと混濁しているわたしの内面を見透かされるのが怖かった。わたしの内面に敏感ではない保証は存在しなかった。だから、『鋭い『指摘』がいつ何時(なんどき)彼の方から飛んでくるか分からない……』と寒々とした背筋になっていた。
アツマくんは意外にも切り込んではこなかった。鋭い指摘でわたしのココロが抉(えぐ)られるコトは無かった。それでもまだ安心はできない。口には出さないけど胸の内では『気付いている』のかもしれない。わたしのために口に出さないだけなのかもしれない。『今のタイミングで口に出してしまうと傷付けてしまうのではないか?』と配慮して黙っているだけなのかもしれない。そうだとしたら優しい。わたしの好きな温かい優しさだ。むず痒くはあるけど、紛れもない彼の方からの愛情……。
午後8時27分現在のアツマくんはリビングのソファに座っている。背もたれに背中を密着させて録画していた音楽番組を観ている。食後のコーヒーをほとんど飲み切ったわたしはダイニングテーブルの席から立ち上がるココロの準備を開始する。
腰をやや浮かせてアツマくんに視線を寄せる。
たくましいカラダ。わたしとは造りが全然違う。『男らしさ・女らしさ』だとかそういう表現がどんどん不適切になってきているご時世。だけども『男らしい』という形容詞を付けてあげたくなるのを抑え切れない。褒めコトバとしての『男らしい』という形容詞が、誰が何と言おうと、アツマくんには似合うのだ。
だけど、だからこそ、
『彼は男子で、わたしは女子だから、彼のキモチになり切るのは、わたしには不可能なのかもしれない』
というキモチが湧き出てきて、ヒヤリとなる。
恐ろしい感情。究極的には相手の立場になり切るコトはできないという、絶望に近似した想念。
椅子に座り直してしまう。首をブンブンブンブン振りまくってしまう。首を振りまくるコトで心身を温め直したいという衝動があった。どう考えても「やけっぱち」だった。やけっぱちの羽田愛だった。
沈み込むように椅子に座り込んだ。アツマくんを見られなくなった。
長くも短くもないグレーの地(じ)のスカートの裾を右手で握り締めた。わたしの悪癖ワースト1(ワン)だった。追い込まれると同じ悪癖を繰り返す。寝室に飛び込んでベッドに飛び込みたくなってしまう。
再び首を振りまくった。ブンブンブンブン振りまくった。もうこれ以上は温まらない。負の螺旋階段の無限なる生成が開始されていく。
テレビの音が止んだ。
生成を開始していた負の螺旋階段が螺旋を描かなくなる。テレビの音が止んだというコトはアツマくんが録画の再生を停めたというコトだ。彼が再生を停めたのが思ってもみないコトだったから、奇妙な感覚に包み込まれ始める。
初めは奇妙だった感覚が、次第次第に、ポジティブな意味合いの強い感触へと変化していく。ポジティブな意味合いの強い感触によって、わたしにとある『気付き』が産まれる。
それは、
『アツマくんの方から、『気付いてくれた』』
という『気付き』だ。
ソファから腰を上げたアツマくんがわたしの眼の前に来てくれるまで時間はかからなかった。
カラダにもココロにも『ほぐれ始めてきている』という確信が出てきたわたしは、スーッと顔を上げていく。
喉ぼとけの付近を見つめるわたしに、
「お悩みがあるみたいだな」
とアツマくんが言ってくれる。
それから、
「袋小路(ふくろこうじ)になったんだろ。おれのココロの中とかを過剰に気にしちまって。そんで、『相手の立場にならなきゃ……』とか思ったけど、見事に失敗しちまった」
と、『正解』を言ってくる彼。
「どうしてわかるの。あなたの言う通り、わたし、あなたのキモチを過剰に意識しちゃってた。だけど……過剰な意識を、ズバリ推し量れるだなんて」
嬉しいけど眼に何かがこみ上げてくるわたしの頭頂部に、
「おれは工藤新一や江戸川コナンよりも名探偵なんだよ」
と、明るく告げながら、アツマくんはアツマくんの右手のひらをそっと置いてくれる。