やっぱり皆口(みなぐち)先生に大目玉を食らっちゃった。放課後の家庭科室で荒木(あらき)先生にカツ丼を食べさせてしまったからだ。『お料理同好会』の見学という名目だったのに彼を勝手に連れ込んでカツ丼を勝手に作っちゃったんだもんね。カツ丼完食後の彼に茶封筒を手渡したのもマズかった。茶封筒の中身を説明するのは文字数の都合でまた今度。
とにかく皆口先生にこってりと絞られたのだった。
彼女のお説教から幕を開けた水曜日。わたしの指導役である彼女の眼つきが厳格になっているような気がしてならなかった。わたしが『授業』をしている時は彼女は教室の後方に立っている。教壇のわたしを観る今日の彼女の眼差しは参観日に教室の同じ位置に立つ生徒の保護者とは真逆だった。その眼差しが怖かったが故に普仏(ふふつ)戦争について説明する喋りがたどたどしくなってしまった。大目玉は食らわないだろうけど授業後の『評価』は厳しくなりそうだった。
× × ×
放課後の部活動見学でバドミントン部に行った。結構な数のシャトルを打ったから皆口先生にタジタジだったカラダとココロがそれなりに癒された。部員の娘(こ)たち全員から瞬発力や腕っぷしの強さを賞賛されたのも嬉しくて癒やしになった。
けれども完全にリカバリーできたワケではない。1時間も経たずに体育館から引き上げなきゃいけなかったし。運動部の活動が過度になるのを戒める『お気持ち』は理解できる。学業との均衡を重視する方針は妥当だろう。だけど放課後にカラダを動かす時間をあと15分ぐらいは延ばしてくれてもいいのに。
「もっとカラダを動かしたいのは生徒じゃなくてわたし。実習生のワガママなんか許容してくれるハズも無いのよね……」
嘆きながら廊下を歩いているわたしが居た。
夕方5時を少し過ぎた。音楽室は着実に近付いている。グランドピアノを拝みたかったのだ。この流れで弾くコトなんか許されはしないだろう。でも思い出がいっぱい詰まったグランドピアノだったから外観だけはしっかりと眼に焼き付けておきたかった。実習終了までに焼き付けておきたかった。
グランドピアノとの感動のご対面直前というトコロで、
『あら、羽田(はねだ)さんじゃない! どーしてこんな所を歩いてるのかしら?』
という声が背中から聞こえてきたから超ドッキリ。
恐る恐る振り向くと阿久井(あくい)先生の立ち姿がそこにはあった。
阿久井先生。アラサー男子の荒木先生より一回り年上の女性音楽教師である。荒木先生と共に吹奏楽部の顧問をしていて荒木先生より立場が強いコトで有名だった。
わたしは思わず、
「どっどこからともなく、現れるんですねえ」
と言うけど阿久井先生は厳しくて、
「もっとちゃんとした喋り方をして、尊敬語を使いなさい」
と叱ってくる。
微笑みながらの「お叱り」だったから胃袋がキュッとなってしまった。
「……すみませんでした」
謝るわたしに、
「わかればいいのよ」
と言った彼女は微笑(びしょう)をさらに柔和(にゅうわ)にして、
「ねえ。もしかしたらあなた、グランドピアノが恋しいから音楽室の間近まで来たんじゃないの?」
とご指摘を食らわせてきた。
わたしの内臓が冷え込んでいく。
「図星がズボッと食い込んじゃったみたいねえ」
先回りして阿久井先生が音楽室のドアを開いた。
「入りなさいよ羽田さん」
そう促したかと思うと、
「皆口先生に絞られまくっちゃったんでしょ? 『発散』しなくちゃ、やってられないわよね?」
と予想外の慈愛(じあい)に満ちた表情で……。
× × ×
「んーっと……。阿久井先生と皆口先生って、関係が良好ではないとかでは無かったですよね、たぶん」
「無駄口叩かないの羽田さん。せっかくグランドピアノの前に座らせてあげてるんだから」
また叱られちゃった。
眺めるだけではなくて弾くのも許してくれた。『僥倖(ぎょうこう)と言わずして何と言う』状態だった。それなのにまたもやお叱りを受けてしまったからココロもカラダも萎縮してしまう。
「タイムリミットは5時55分よ。それまでだったらあなたの『自由』。わたしは腕時計を確認しながら羽田さんの『超絶技巧』を味わうだけ」
『超絶技巧』!?
阿久井先生にそんな形容をされたのは初めて……!!
「『超絶技巧』と言われたからって唖然となり続けるのはNGよ」
戒める彼女は、
「あなたが卒業した後で初めて言えるコトだってあるのよ」
と言ってから眼を細くして、
「気付いてた。――中等部に入ってきた当初から、わたしよりあなたの方がピアノ演奏スキルが高かったってコト」
わたしは慌てざるを得ず、
「そんなコトは……無いと思いますけど!?」
「あらあらあ」
三毛猫を撫でるような声で阿久井先生は、
「カウントダウン、もう始まってるのに。グズグズしてると1曲も弾けないままタイムリミットになっちゃうんだから……」
混乱の真っ只中でわたしは鍵盤を凝視する。
繰り返すようだが間違いなく僥倖なのだ。このチャンスを逃したらこのグランドピアノを実習期間中に弾ける機会はもうやって来ないだろう。
しかもわたしの志望は母校ではなく公立校なのだ。このチャンスを逃したらこのグランドピアノと『それっきり』になってしまう可能性はものすごく高いのだ。
息を大きく吸って吐く。覚悟を決める。
頭の中をフル回転させて曲目を選択する。わたしが今いちばん弾きたい曲が何(なん)なのかの答えを出す。
そして両手を静かに鍵盤に伸ばしていく。
× × ×
横の廊下を偶然通りかかった生徒の娘(こ)が1人いた。
その娘が慌てて友達の娘を2人呼んだから阿久井先生以外の聴衆が3人になった。
わたしの演奏が拡散(バズ)ったが故に聴衆たる娘が瞬く間に6人に増えた。
タイムリミット10分前を経過した頃には聴衆たる娘の数が両手の指で数え切れない程になってしまった……。
「ほらね」
拡がっていく喧騒の最中(さなか)で阿久井先生がわたしに、
「だから言ったじゃないの、『超絶技巧』だって。わたしの眼と耳には少しも間違いが無かった」
と勝ち誇るように言ってきた。
わたしは何も言わずに弾き続けるだけ。
弾き続け通し以外の理由で……カラダもココロも火照っちゃってるんだけど。