職員室。皆口(みなぐち)先生の左隣がわたしの席。わたしはわたしのデスクの椅子を横に向け、皆口先生と向き合い、アドバイスに耳を傾けている。
生徒として教わっていた頃と変わりないベリーショートの皆口先生が、
「にしても、私の授業の時よりも、みーんなマジメになってたわねえ」
といきなり言ってきたから、軽くビックリ。
「そんなに普段、態度がフマジメなんですか?」
そういう風には見えなかったんだけど……。
皆口先生は右手をヒラヒラと振りながら、
「違う違う。フマジメじゃないんだけど、授業に向かう真剣さが、今日は約50%増量だったってコトよ」
わたしは思わず、
「それは、いったいどうして……」
と訊くけど、真正面の先生は何故か笑みを浮かべながら、
「私には分かっちゃうんだよねえ。教壇に上がったあなたが、教卓の前で白板(はくばん)に背を向けた途端に、あの子らの眼の色がいっぺんに変わったってのが」
なにそれ!?
皆口先生!?
さっきの『授業』の時、皆口先生の立ち位置からは、生徒たちの顔を見渡すのは不可能だったと思うんですが!?
× × ×
溜め息を時折つきながら、放課後の校内を歩いていた。
「男女共学じゃあるまいし。『眼の色が変わった』だなんて」
地面に向かって嘆くのをガマンできないわたしは、
「しかも、中2じゃなくて、高2の女の子だったのよ。いくら実習生が瑞々しいからって、色めき立つような年代でも無いんだし」
と、さらなるヒトリゴトを零(こぼ)していってしまう。
彼女なりの……皆口先生なりの、プレッシャーだったのかな?
……ううん。そんなワケ、無いよね。
皆口先生を、もっと信頼しなくっちゃ。
「あの『笑み』は、明らかに『何か』を示唆してはいたけど」
信頼しなくっちゃと思う一方でヒトリゴトがまたもや自然と零(こぼ)れ出てしまうわたしは、温水プール棟(とう)の出入り口付近で脚を止めた。
× × ×
贅沢にも室内温水プールを備えている母校。在校生時代はよく泳がせてもらっていたモノだ。
水泳部に在籍したコトは一度も無い。水泳部のみならずどの運動部にも一切在籍していなかったのだがその話はまた今度で、スポーツの中でも競泳は殊(こと)に得意な種目であり、放課後に2000メートルあまり泳いでいると小さなイラつきやヒリつきなど瞬く間に消えていってしまうから、水泳部無所属は大目に見てもらい、水面や水中にしばしば身を委ねていたモノであった。
彼氏に起因するイライラした感情やヒリヒリした感情を泳ぎながら洗い流していたとか、お世話になった1期上の水泳部元部長・千葉南(ちば みなみ)センパイが就職活動に成功したと同時に幼馴染かつ1つ年下の男の子と『ふたりだけで暮らし始めた』とか、プール棟の出入り口を前にして様々なるコトを脳内に駆け巡らせていたわたしだったのだが、ゴチャゴチャと考えてばかりでいると物理的にも物語的にも前に進まないので、フォーマルなスーツを着たまま出入り口扉へと突き進んでいく。
プールの中に絶対に落下しない自信に満ちていたのでスーツのままでも全然平気だ。
『落下しない自信を持つ以前の問題だろ』
『大目玉を食らう未来しか見えないが?』
こんなふうなご意見は、一切受け付けない。なんとかなる。120%の確信がわたしには存在しているんだから。
さて、プールサイドには、高等部の生徒と思(おぼ)しき娘(こ)たちが何人か寄り集まっていた。数えたら合計5名。みんながウインドブレーカーを羽織(はお)り、みんながハーフパンツを穿(は)いている。水着の上にウインドブレーカーとハーフパンツを着用しているのは明らかなのだがそんなのは200%どうでも良いコトであって、
「あなたたち水泳部? 今日は泳がないの?」
とわたしの方から声を掛けていく。
その瞬間であった。
「羽田先生だっ!!!!!」
驚愕のキモチが籠められまくった叫び声を、彼女たちの中の1人が上げたのである……!
ビックリマークが5つ付着するのが妥当な絶叫をいきなり食らい、わずかながら後ずさるわたしではあったが、バランス感覚には自信しか無かったので、直ちに持ち直す。
んーっと……。
まず、実習生の身分であるにもかかわらず、苗字を憶えていてくれたのは純粋に嬉しい。
でも、
「どっどーして、わたしの顔見た瞬間に叫んじゃうのかな。わたしのほっぺたにテントウムシでも密着してるとか……?」
すると今度は、別の娘(こ)が進み出てきて、
「そんなのありえません。このプール、表彰されるほど衛生面に気を配ってるんですから。この室内プールの歴史に名を残してる羽田先生だったら……当然お分かりでしょう?」
進み出てきた娘のウインドブレーカーの左胸に「戸松」という漢字2文字があり、その下に「TOMATSU」というローマ字7文字があった。
某声優の遥(はるか)さんと同じ苗字の彼女が、わたしをじーっと見つめてくる。
……とりあえずは、
「わたしのコト、『室内プールの歴史に名を残してる』ってあなた言ったけど」
と戸松(とまつ)さんに眼を合わせて言い、それから、おそらく水泳部員であろう総勢5名を見渡して、
「あなたたちは、いったい何を発見したのかなぁ??」
と尋ねてみる。
が、
「羽田先生って、やっぱり、間近で見るとスーパー美人だ。テントウムシですら恋に落ちちゃいそうなぐらいに」
と、『何を発見したのか』を答える代わりに、戸松さんがそんなコトバを発しつつ、顎(あご)の下に軽く左手をあてながら、主にわたしの顔面をしげしげとウォッチングしてくる……。
わたしを混乱に陥(おちい)らせかける戸松さんであったが、不意に、我に返ったようになり、
「アッすみません、お答えすべきコトを、お答えしますね」
『不思議な言い回しでわたしの顔面を絶賛したのはなんだったの!?』と思う隙(スキ)も与えさせないかの如(ごと)くに、
「記録が出てきました」
と言ったかと思えば、A4プリント1枚を謎の素早さでわたしに呈示してきて、それからそれから、
「この表に載(の)ってる記録、全部『羽田愛』さんって名前のお方が叩き出した記録なんですけども」
と、わたしの背中を凍りつく寸前の状態にさせ、
「明らかに、どれも、現在の東京都の高校女子の記録よりも――」
とヤバすぎる領域に言及しようとしてきたので、わたくし羽田愛は、ひどい寒気(さむけ)に襲われながらも、戸松さんの両肩を両手で一生懸命に掴んで、
「そ、それいじょーは、いわないでおこーねーっ」
と要求するがしかし、
「なぜ? 都合が悪いというよりも、むしろ――」
とか言い出してきたから、
「あのね?? 『セカイ』とか『シャカイ』ってゆーモノは、『ジュンシン』なあなたたちがおもってるよりも、ずーっと『フクザツ』なものでね……」
と抵抗するんだけど、(非公式ながら)数多(あまた)の『記録』を叩き出して遺(のこ)してしまったわたしは、『戸松さんにしがみついているから、プールに落下するのを免(まぬか)れている状態』に……成り下がってしまっている。