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【愛の◯◯】抱き締めている腕の強さを弱めるのを忘れていく

 

メルカド』の横を通り過ぎる。『メルカド』はもちろん開店前だ。開店前の物静かな佇(たたず)まいが眼に映るのも久しぶり。母校に通っていた頃の朝は、こんな『メルカド』を毎日眼にしていたモノだけど。

そうなのだ。約4年2ヶ月ぶりに、この時間帯のこの場所にやって来たのだ。2021年3月に卒業したから、約4年2ヶ月ぶり。わたしは約4年2ヶ月ぶりに母校に『通学』する――教育実習生として。

予定よりも2時間近く早く眼が覚めてしまった。グースカ寝ているアツマくんの横で、遠足や運動会の前日ぐらい実習開始が待ち遠しかったのを自覚した。あまりにも長い髪を実習のためにだいぶ切ったから、ブラシを使うのも短時間で終わってしまった。

アツマくんが起きてきた時には既にスーツに身を包んでしまっていた。寝室から出てきた彼を軽く抱き留め、『あなたの分の朝ご飯も作ってあげてるから、あっためて食べてね』と言うやいなや、オデコを彼の胸の中心部にちょこん、とくっつけた。

実習生の中で誰よりも早く母校の通学路にやって来たのは疑いようも無い。

間近に、想い出の学び舎があって、その学び舎にたどり着くのが一番乗り。

……見えてきた。

何も変わらない校舎が、わたしの眼前(がんぜん)に拡がり始める。

 

× × ×

 

伊吹(いぶき)みずき先生は「寝坊助(ねぼすけ)さん」になる頻度が未だに高いかもしれないから、この時間帯から出逢(あ)える可能性は希薄なのかもしれなかった。

可能性の希薄さを受け入れつつ、校内の入り口の1メートル前に立って、胸のすぐ下に左手を押し当てながら深呼吸を2回する。

校内にはもう入れるようになっていた。実習生のための配慮なのかもしれない。

最大の恩師たる彼女と出逢えるまでかなり時間がありそうなのはもどかしいけど、わたしはまた歩き始め、4年2ヶ月ぶりに学び舎の敷地内の地面を踏んでいく。

職員室などがあって管理棟的な役割の強い校舎はまだ沈黙している。この白壁(しろかべ)の校舎が集合場所になっていたんだけど、沈黙しているということは、『久しぶりの母校に来たんだから、想い出の場所をぶらぶらしたりして待っていなさい』という風なメッセージを示しているんだろう。

そんなメッセージを受け取れないほど賢くないワケじゃない。首都圏の優秀な12歳女子が集まってくる中で、わたしはとりわけ優秀だったんだし。

 

自慢話を地の文で繰り広げるのは止(や)めにして、集合場所の校舎の左サイドにカラダを向けて、ソメイヨシノの樹がある場所に進んでいく。

葉桜だった。当たり前だが葉桜だった。……そうではあるんだけど、葉桜を見上げてみると、桜の花が光り輝くように咲き満ちていた時のコトを、瞬く間に思い出していくコトができる。高浜虚子の俳句ではないが、本当に「こぼるる花もなかりけり」だった時のイメージ。そのイメージが、蘇り、わたしに万感の想いを与える。

「こんな時から泣きそうになってどーするのよっ。ガマンしなさいよ、わたし」

近くに他人が存在するはずも無いと思って、視線を元に戻し、ソメイヨシノの幹と自分自身に対して呟いてみた。

初夏の風を感じた。だいぶ切ったとはいっても背中にかかっている髪を、風が通り過ぎた後で少し直した。

『羽田さん?』

いきなり声が聞こえてきた。

身に覚えがありまくりな、声。

胸を貫かれるような驚きに打たれて、わたしは一気に、呼び掛けの声がした方へと振り向いていく。

「お~~い」

無邪気な声をその女性(ヒト)は出していた。

実習開始日だからフォーマルなスーツに身を包んでいるんだろうけど、「中身」とあまりマッチしていない。髪の手入れも、甘い手入れになっているトコロが目立ってしまっている。

つまり、わたしが教わっていた頃の『彼女』と、全く変わっていなかった。

だから、わたしは嬉しくて、嬉し過ぎて、気付けば『彼女』のもとに駆け寄っていた。

「伊吹先生っ」

勢い余って衝突寸前になった後で、眼を閉じながらそう叫ぶ。

それから眼を再び開くけど、なにを言って良(い)いのか全然分からなくって、だから、

「わたし……わたし……!!」

という声しか出せない。

これ以上無い至近距離で見る伊吹先生は、出産を経た後でもお肌のツヤがほとんど変化していなくて、ついでに言うとお化粧の『乗り』具合もほとんど変化していなくって。

でも、そんなのは本当に本当にどうだっていい。

でも、どうだっていいんだけど……コトバが出て来ない。おぼろげに用意はしておいたはずなのに。いざ面と向かってみると、出逢えた感動が強過ぎて、どうしようも無くなってしまい、『伝え方』も忘れてしまう。

そんな危うい状態を、伊吹先生は、やっぱり引き受けてくれて、

「ひさしぶり」

という5文字を口から発した後で、

「約4年2ヶ月ぶりの『おはよう』だね、羽田さん。楽しみにして待ってたよ、あたし。ここまで来てくれて、今のあたし、ほんとーに幸せ気分」

と、熱いコトバを、わたしに送り届けてくれる。

あったかい。

あったかいけど、もっとあったかくなりたい。

2秒後に伊吹先生の背中を両手で掴んでいた。涙がこみ上げ始めた顔を伊吹先生の胸に直撃させてしまっていた。

いきなり抱き締めてきたわたしに、

「そんなに逢いたかったかー」

と先生は軽く言うけど、

「あたりまえでしょっ」

と、タメ口の常習犯だった頃にわたしは戻って、

「先生、先生……。わたし、いろいろあった。マジでホントにいろいろあって、辛い出来事や苦しい出来事の方が、もしかしたら多かったかもしれないぐらい。だけど、乗り越えられた。乗り越えられて、ここに来れた」

と、極まった感情を一気に零(こぼ)していき、それから、

「せんせえっ、せんせえっ」

と、大好きなオトナにむしゃぶりつく幼いコドモのように、甘えるのを引き延ばしていこうとする。

「わかってるよ」

応える先生。応えてくれる先生。

「わかってるよ」のひらがな6文字が、全部を把握してくれているのを一瞬にしてわたしに理解させてくれる。

わたしの背中を伊吹先生が撫でてくれる感触が芽生えて、嬉しさの温度と喜びの温度が同時に急上昇する。

幼くて、小さな声で、

「せんせいのスーツ、ぬらしちゃった。きがえとか、たぶんないでしょ? わたし、『ショニチ』から、いきなり、やらかしちゃったね……!」

と、反省の意味のこもったコトバを伝えながら、抱き締めている腕の強さを弱めるのを忘れていく。

 

 

 




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