黄金週間明けゆえか? 前後左右の席に誰も居ない。たしかに、授業開始前の時間帯はいつも閑散としているラウンジではあるんだけど。
城(じょう)ミアちゃんと向かい合っているわたしは、ホットかつブラックな紙コップコーヒーを両手で持って静かに啜(すす)る。
『5月の病(やまい)にかかっちゃった子がいたなら、お大事に……ね』
ココロの中でそう呟いた後で、ミアちゃんに、
「昨夜(ゆうべ)、氷室冴子(ひむろ さえこ)の『海がきこえる』って小説を読んだの」
ミアちゃんは、
「あ、知ってる。高知が舞台の青春小説だよね。スタジオジブリ制作でアニメにもなってるっていう」
「正確には、高知だけが舞台ってワケじゃないんだけどね」
柔らかく訂正しつつ、わたしは、
「正直に言って、文体は物足りないのよ。『研ぎ澄まされていない』って表現したらいいのかな。現在でいう『ライトノベル』の範疇(はんちゅう)だっていうのは、それほど関係してないような気がするけど――わたしからすると、ライト『過ぎる』のよね」
「辛口だなあー。それも、愛ちゃんらしさか」
「辛口なだけじゃないわよ」
柔らかく否定しつつ、わたしは、
「『どう書かれているのか』よりも『なにが書かれているのか』に関心がある人なら、強い印象を残す小説なんじゃないのかな」
と評価してあげる。
評価できる根拠を3つ示した後で、
「マンションに来てくれた時にあすかちゃんが置いていった文庫本を、昨日たまたま本棚に見つけたの。あすかちゃんは既読だったから、作品の存在自体はわたしも前から知っていたのよね」
と説明してから、紙コップを空(から)にする。
その紙コップを静かに置き、
「既に読んでたのはあすかちゃんだけじゃない。あすかちゃんの友達の女の子も既に読んでた」
ミアちゃんがやや前傾姿勢になり、
「あすかちゃんのお友達? どんな名前の女の子なのかな?」
わたしは苦笑いで、
「個人情報は、また後で。あすかちゃんの友達の娘(こ)があすかちゃんに話した『海がきこえる』の感想が重要なのよ」
ミアちゃんは姿勢を戻し、
「くわしく」
わたしは、
「その娘は、こういう風に言ったんだって。『この小説を何度も読み返してると、高知の海が本当に『きこえてくる』気がする』って」
「高知の海……」
「そう。高知の海」
わたしはやや上向き目線になり、
「寄せては返す波音が『きこえてくる』ってコトなんだと思う。小説を読んでいる時に……ね。高知県なんてわたし1度も行ったコト無いから、上手くイメージできないけど。ともかく、あすかちゃんの友達がそういう『読書体験』をしたってコトをあすかちゃんから聞かされて興味深く思ったのを、昨夜(ゆうべ)に『海がきこえる』を読みながら想い起こして」
と言い、
「――卒業旅行の候補地として、高知県高知市が最有力になったわ」
と、目線を元に戻しつつ告げる。
「愛ちゃん、影響されてるんじゃん、氷室冴子と『海がきこえる』に。どちらかというと辛口評価なのに」
そう言って楽しそうに苦笑するミアちゃん。
「どちらかというと辛口評価、『だからこそ』、なのよ」
そう言ってわたしは、文学にこだわりのある人間がしばしば見せるような笑顔を作っていく。
× × ×
約10時間後。マンションでの、わたしとアツマくんの夕食。
海老マヨサラダのお皿付近の箸置きに箸をいったん置いたわたしは、
「初鰹(はつがつお)の季節がもうじき来るけど、カツオのタタキは10月まで温存よ。わたしが高知から帰ってきてから」
「もう高知に決めたんかいな?」
アツマくんの問いに対し、麦茶の入ったグラスを口に持っていきつつ、
「だって、もう教育実習寸前なんだし」
と答える。
朝のラウンジでのミアちゃんとのやり取りから約9時間経過した夕食作りのキッチンで、高知県高知市への卒業旅行プランを、わたしは確固たるものとしていたのだった。
食器片付けをアツマくんに丸投げ……ではなく任せた後で、リビングのソファに着座し、本日何杯目かもう忘れた熱くて黒いコーヒーを眼前(がんぜん)のテーブルに置き、日本の交通の公社さんが出しているムック本(ぼん)的なモノのページをぺらぺらと繰(く)り、高知市内を走る路面電車の写真などを眼に焼き付ける。
『お城の隣に文学館まであるのね……。行ってみたいスポットが予想以上に多くてワクワクしてきたわ』
純粋にそう思う。カフェインが入りまくりだからワクワクが増しているのではなく、高知市内の情報を多数インプットするコトでワクワクが増しているのである。
水流(みずなが)しの音が止(や)んだ。
アツマくんの食器洗いが終わったのを察知した3秒後にわたしはソファから腰を上げ、本棚に向かってまっすぐ歩み寄っていった。
水色背表紙の徳間文庫の表紙絵をしげしげと眺める……昨夜(ゆうべ)に読んだ、高知県高知市が『聖なる地』となっている、『高校生の男女が出会った後で別れ、大学生になってからまた出会う』という筋書きの、紛(まご)うことなき青春小説。
× × ×
『海がきこえる』の文庫本を見せびらかしながら、
「この小説知ってる? アツマくん」
と右隣の彼氏に訊くけど、
「知らん」
と即答されたから、『イジワルな問い掛けをしてみたくなっちゃうレベル』がウナギ登りになる。
右隣の彼氏にグイグイ肩を寄せ、左手に持った『海がきこえる』を彼氏の目線に近づけていき、
「表紙に描(えが)かれてるこの女の子を、よーく見て」
と要求し、
「ヒロインの、武藤里伽子(むとう りかこ)っていう娘(こ)なんだけど……」
と言って、それから、
「この娘とわたしと、どっちの方が可愛いって思う??」
と問い掛けて、それからそれから……アツマくんが困惑混じりの迷い顔になっていくのを、まじまじと味わい始める。