昼ご飯を早めに食べた後で、部屋に戻り、身支度をし、階下(した)に再び降り、玄関へと向かおうとしていた。
しかし、大きなリビングを通り過ぎようとしていたところで、
『もう出発しちゃうの、利比古くん?』
という声が、リビングの方から。
川又ほのかさんの声だった。
先ほど一緒に昼ご飯を食べた川又さんがソファの背もたれから身を乗り出してきている。
「言いましたよね、昼食後にすぐ駅に向かうって」
ぼくはそう言うけど、
「利比古くんは利比古くんの母校に何時何分に到着したらいいの?」
と彼女が迫るように訊いてくるから、不穏さを覚える。
ぼくは約束の時刻を伝える。
ところが、
「じゃあ、こんなに早く邸(いえ)を出る必要ないよねぇ」
と、彼女からご指摘が。
彼女はニヤつきながら、
「そんなに急がなくてもいいでしょ。こっちきてよ」
ぼくは、
「OBという立場で訪問するんですから、約束の時刻より少し早く着いた方がベターですので……」
と言うも、
「そんなことないよ」
と彼女は、ニヤつきを持続させながらぼくの意思を否定して、
「今ここを出ちゃうのは明らかに早過ぎるってばぁ。わたしだって、この邸(いえ)から利比古くんの母校までの所要時間ぐらいとっくにインプットしてるんだからぁ」
「そ、そうであっても、ですね」
口から出す声が震えてしまうぼく。
「年上女子のキモチを尊重してくれないの!?」
非難めいたニュアンスを徐々にコトバに染み込ませていく川又さん。
彼女の顔からニヤつきが消えていき、あっという間にムッとした表情に変化する。
川又さんに段々と締め付けられていくぼくは、
「なんかさー。利比古くん、サービス精神が最近薄いよねえ。春になってポカポカ陽気の日が多くなって、桜も満開になりそうだってゆーのに。『お花見デート』の提案すらもしてくれてないんじゃん」
と川又さんからお説教を浴びせられる……。
脚にまで震えを感じながらも、ぼくは、
「お花見デート云々は、母校のOB訪問からぼくが帰ってきてから、話し合いませんか!?」
と言って、持ちこたえようとする。
出す声が裏返り気味になってしまったから、自己嫌悪が兆してきて、床に視線を落としてしまった。
ぼくの不甲斐なさを濃厚に感じ取ったのか、川又さんがバァッ、とソファから離れ、棒立ちのぼくにひたひたひたと接近してきて、ぼくの真っ正面に立ってきた。
背中を一筋(ひとすじ)の汗が伝うぼくに向かい、
「邸(ここ)から出発する前に、わたしに何か『サービス』してよ。『サービス』するのをためらい続けて遅刻しちゃったら、あなたの責任になるんだからね!?」
と、過酷要求。
とりわけ、『あなた』という二人称の響きに、川又さんの今のキモチが籠(こ)められているような感じがした。
焦るし、困る。
眼の前の彼女に対しできるだけ速(すみ)やかに「サービス」をしなければ、彼女の不機嫌を加速させてしまうと共に、OB訪問の予定時刻に間に合う電車に乗れなくなってしまう。
しかしながら、どんな「サービス」をするのかを可能な限り早く決めるのは厳し過ぎる。ぼくは、本番の舞台上でアドリブが自在にできる演者(えんじゃ)ではない。こういう状況に置かれると、三流役者どころか四流役者にまで成り果ててしまう。
仏頂面で彼女が見上げてくる。恐ろしい。
× × ×
彼女の眼の前で何も言えずにただひたすら「サービス」を思いつこうと足掻(あが)き始めてから何分(なんぷん)経過しただろうか。
「選択肢」はなんとか選び取れた。ただ、50%以上の確率で遅刻してしまうだろう。OBの来訪を期待している在校生の2人には申し訳なさ過ぎる。篁(タカムラ)かなえさんと豊崎三太(トヨサキ サンタ)くん。『KHK(桐原放送協会)』を復活させてくれた1人の女子と1人の男子の在校生コンビ。2人に逢うのが約束の時刻より遅れてしまったならば、きちんと謝らなければならない。
でも、謝罪のコトバを考えるのは後回しだ。謝罪のコトバを考えるのは行きの電車内でもできる。
今肝心なのは、眼の前の川又ほのかさんへの対応以外の何物でもない。
だから、大げさなぐらい大きくぼくは息を吸う。吐き出した後で、彼女の眼に目線を寄せてあげる。
眼と眼がほとんど合った。彼女の顔に笑みが広がった。彼女の顔が普段よりも柔らかく見える。なぜだろうか。ただの錯覚なのか?
もし、今の彼女のほっぺたに触れたのなら、ふにふにっ、という感触が手指にダイレクトに伝わってくるような気が……。
……い、いやいや、ダメだっ。そんな妄想良くない、そんな妄想気持ち悪い!!
なにやってんだ。気持ち悪いしどうしようもないぞ、羽田利比古。できる「サービス」もできなくなっちゃうじゃないかっ。
2度目の深呼吸を回避できなかった。情けない。
ココロの準備はこの深呼吸でもう打ち切りたい。これ以上焦(じ)らしたら、彼女に距離をもっともっと詰められるかもしれない。
スキンシップ状態も同然の距離感になる前に、先手を打つ。スキンシップされるよりも、スキンシップがしたい。いや、「したい」というより、「するべき」だ。
黒髪ショートボブの彼女の頭頂部に眼をやる。
『このヘアスタイル、彼女が高校生だった頃から、全くと言っていいほど変わってない……』
余計な思考を挟ませてしまうが、すぐに立て直し、彼女の頭頂部に全意識を集中させる。
そして、ためらうコト無く、ぼくの右手を彼女の頭頂部に持っていき、ぽふ、と軽く乗せる。
そしてそれから、ジンワリと温めるように、彼女の頭頂部を押さえ続けて、「サービス」を完遂(かんすい)する。
満足しているかどうかを表情を見ることで確かめようとしたら、ほっぺたを淡く染めて彼女は幸せそうに笑っていた。
1つ年上の彼女の淡く染まるほっぺたが可愛いと思ってしまった。