左斜め前の席の、ベリーショートに近い髪型でやや小柄な女の子が、中ジョッキ生ビールをぐびぐびと飲み、ジョッキをテーブルに置くと同時に、
「脇本(わきもと)のヤツ、ほんとーに、どーするんだろーね、これから」
と、彼女にとって独文科(どくぶんか)同期であり彼女とずっと仲の良かった男子の行く末を危惧(きぐ)する。
左斜め前の湯窪(ゆくぼ)ゆずこちゃんが先を危(あや)ぶんでいる脇本浩平(わきもと こうへい)くんは、わたしにとってはサークル『漫研ときどきソフトボールの会』の同期だ。わたしが5年生になる一方で、ゆずこちゃんと脇本くんの「独文科コンビ」は卒業式を間近に控えている。ゆずこちゃんが社会人になる一方で、脇本くんは社会人にならない。だから、彼の将来の危うさをゆずこちゃんは強調するのである。
「彼は就職しない代わりに、図書館司書の資格を取るために通信教育で勉強するのよ。ゆずこちゃんも応援してあげましょうよ」
徳利(とっくり)の中身をお猪口(ちょこ)にとくとく注(そそ)ぎながらわたしは言う。
燗酒(かんざけ)を口に含みながら左斜め前を見やる。ゆずこちゃんは右手で頬杖をついて眼つきを少し険しくしている。
「厳しくない? ぶっちゃけ」
疑問を籠(こ)めた声でゆずこちゃんが言う。
「厳しいっていうのは、司書になるのが狭き門だってコトよね」
わたしは彼女に穏やかにコトバを返す。
「まさに。資格取ったって、現在(いま)の状況だと、正規採用はかなり難しいでしょ。わたしでも把握してるよ、そーゆー現実は」
そう懸念(けねん)するゆずこちゃんは生中(なまちゅう)ジョッキを再び手に取り、ぐぅーっ、と中身の残りを飲み干していく。
彼女がジョッキを強く置くと同時に、
「そうね。厳しい現実があるわよね。無事に資格を取れたとしても」
とわたしは同調し、それから、
「実は、無事に資格を取れるのかも、少し心配なの。『うっかりミス』が多いから、彼」
「『うっかりミス』?」
前のめり気味の姿勢で訊いてくるゆずこちゃんに、
「丸々(まるまる)4年間ドイツ文学を一緒に学んでたんだから、彼の『うっかりミス』を目撃するのも少なくなかったんじゃないの?」
と言ってから、
「わたし、4年間同じサークルで彼を見てきた中で、たくさんの『失敗』を目撃して」
「『失敗』? 具体的には?」
かなり前のめりになりながらゆずこちゃんが訊いてくる。興味を強く示している。
わたしは、
「ソフトボールの練習試合してた時なんだけどね。彼、なんでもない内野ゴロを、ランニングホームランにしちゃったコトがあるのよ」
「え!? ……それって、守備についてた脇本が、致命的なエラーをしちゃったってコトだよね!?」
「ゆずこちゃんの理解力が高くて助かるわ」
「どうなったら平凡な内野ゴロがランニングホームランに発展するの……。大(だい)ボーンヘッドだよね!? 『うっかりミス』どころじゃないじゃん」
あー。
ゆずこちゃんの言う通りかも。稀(まれ)に見る失策(しっさく)なワケだし、確かに、『うっかりしてた』じゃ済まされない失敗よねえ。
脇本くん? 司書資格の勉強を続けられなくなるような失敗だけはしちゃダメよ?
あなたがこの場に居ないのが残念で仕方無いわ。この場に居たなら、直接注意するコトもできたし、約束を結ぶコトだってできたのに。
――ところで、この場は、ゆずこちゃんと2人だけの女子飲みなのではない。もう1人居る。女子が、もう1人居る。
わたしは右斜め前を向き、もう1人の女子の表情を窺(うかが)う。
笑(え)みがほんのりと浮かんでいた。
ベリーショートに近いゆずこちゃんとは違い、背中に少しかかるぐらいまで伸びたストレートヘア。なかなかに滑らかでなかなかに透き通ったお肌。寡黙(かもく)さとピッタリ適合するような、椅子への腰掛け方や、上半身の装(よそお)い。
彼女の名前は市井光夢(いちい みゆ)さん。わたしやゆずこちゃんや脇本くんとは別の大学だが、ゆずこちゃん&脇本くん同様に卒業式を間近に控えている。脇本くんとは、古書店のアルバイト仲間だったという繋(つな)がりがあった。
とても寡黙なキャラクターの彼女は、わたしとゆずこちゃんの会話にしっとりと耳を傾けていて、全く口を挟んでこなかった。
『市井さんの知らない脇本くんの面白エピソードを披露してあげたんだけど、どういう反応してるのか気になるわね……』と思ったが故(ゆえ)に、右斜め前の市井さんの表情を窺ったわたしは、市井さんの笑みから『面白かった』というキモチを読み取るコトができたから、ホッとして笑み返してあげる。
× × ×
話していたのはほとんどわたし&ゆずこちゃんの2人だけだったのだが、想定以上に盛り上がったので、わたしの全額負担で1時間延長し、入店から3時間後に居酒屋を出た。
駅までの夜道。
わたしは、さり気なく市井さんの真横に接近し、
『現在(イマ)のあなたにとって、脇本くんはどんな存在?』
と耳打ちした。
期待感に満ちて彼女の返答を待った、のであったが、
「おっちょこちょいな面もある、昔のバイト仲間」
という、あっさりとした答えが返ってきただけだった。
淡白(たんぱく)で、ちょっぴり残酷。
でも、こういう答え方しちゃうのも、市井さんの魅力よね。
市井さんの前方を歩くゆずこちゃんに悠々と近付く。
わたしの隣にゆずこちゃん。わたしは真っ先に、
「脇本くんが泣いてる場面を想像(イメージ)するのって、悪趣味だと思う?」
と訊いてみる。
「卒業式で泣くとか? 脇本、そこまで涙もろくなかった気がする」
「卒業とは無関係に泣くのよ」
「いったい何が原因で?」
「それを考えるのが、ゆずこちゃんの『宿題』。言い換えるなら、抜き打ちの『卒業課題』」
「えぇっ……」
引いちゃってるかー。
悪いとは、思うけども、
「わたしは卒業式に出る資格が無いから、ゆずこちゃん、あなたがしっかり彼に寄り添ってあげるのよ」
と、3割冗談・7割本音で言う。
からかい混じりに言ったのを敏感に察知したからだろうか、ゆずこちゃんはまっすぐ歩くだけで、わたしにコトバを返してくれない。
こういう時、わたしはわたしの性格の悪さを反省する。
しばし反省。
煌々(こうこう)と光る駅の建物が近くなってくる。
横断歩道で足止めを食らう。グッドタイミングだと思って、
『ゴメンね、バカなコト言って。あまりにも無責任だったわよね』
という謝罪のコトバを準備する。
しかし、わたしの口から謝罪が出る前に、わたしの右手首にゆずこちゃんの手の感触が伝わってきた。
彼女は彼女の左手でわたしの右手首に触れている。
その左手が右手首から右手の甲(こう)に移る。わたしの右手指の関節に彼女の左手指の先端が来る。
青信号になったから歩き出すしかない。長めの横断歩道を渡る。スキンシップされた驚きを抱えながら渡る。
渡り切ってからすぐに、ピタッと湯窪ゆずこちゃんが立ち止まる。
もちろん、彼女の左手は、わたしの右手に付着したまま。
予想外の小声で、
「ひとつだけ、約束する」
と短く言ってきたかと思えば、やや間(ま)を置いてから、
「愛さん」
とわたしの名前を呼んできて、それからそれから、
「来年、愛さんが卒業する日。わたし、会社を休んででも、キャンパスにゼッタイに行くから」
と、誓(ちか)ってくる。
わたしの中で戸惑いがグルグルと回り始める。すごく嬉しいコトを言ってくれたんだけど、ゆずこちゃんの誓う声に、なんだか「気迫」のようなモノが、強く、感じられたから。
決して大きな声で誓いを立てたワケじゃない。
だけど、大きな決意のキモチが彼女を突き動かして、そのキモチが声の気迫になって、わたしのココロに強く鳴り響いた……。
戸惑うあまりに、立ちすくんでしまった。
立ちすくんでしまったけど、左手を右手で握り返した。
彼女の友情に戸惑いながらも、『離したらいけない』と思って、わたしの右手の温かさで彼女の友情に応える決心をしたのだ。