幸せな報(しら)せを聞いた後で、ダイニング・キッチンに入り、フライパンをコンロに置き、まな板を調理台に置いた。自炊スキルに自信は無かったけど、頑張って昼食を作り、1人で食べた。
食器を片付けた後で、階上(うえ)の自分の部屋に戻り、姿見(すがたみ)を部屋の中央まで運び、ヘアブラシを手に持った。長い髪の手入れが雑だったから、頑張って髪を梳(と)かし、弟にちゃんと向き合える状態にした。
ヘアブラシを置いた後で、姿見からほんの少し後(あと)ずさり、映っている上下の衣服に眼を凝(こ)らし、上着の裾(すそ)に右手で触れた。弟の卒業式に出席するワケでも無いのに、皺(シワ)になっている所が無いかどうか気になり、時間をかけて衣服を整えた。
姿見の正面に立ち続けのわたしは、
「身だしなみをここまで気にする必要、ホントは無いんだけど」
と呟き、苦笑いしてしまう。
× × ×
ダイニング・キッチンに再び入り、ダイニングテーブルの椅子に座り、母と弟の帰宅を待つ。
スマートフォンを見て過ごす。複数のアプリケーションを行ったり来たりする。画面左上の小さな時刻表示がどうしても気になってしまう。『結果』は既に知っているし、その結果が『喜ばしい』結果なのも分かっている。だけど、母と弟の帰宅予定時刻にスマホの時刻表示が近付くにつれ、高まらなくてもいいはずの緊張感が高まっていく。
出迎えた時に眼を逸らしたりしたくはなかったけど、高まる緊張感のせいで、眼を直(ジカ)に合わせられるかどうかが危うくなってきた。
肩の力を抜きたくて、深呼吸をする。
深呼吸の効果が出て、ひっそりとしたダイニング・キッチンの中で、わたしの緊張が徐々に和(やわ)らぐ。
スマホを見るのをやめ、テーブル上で指を組み、眼を閉じ、弟の受験勉強の手助けをしていた日々を回想する。
わたしが怒ってしまって悲しくなってしまったけど、弟が素直になってくれて謝ってくれたから、涙が出るくらい嬉しかった。そんなコトもあった。
謝ってくれた弟の顔を思い浮かべたら、今年に入ってからいちばん優しいキモチになり、余計なチカラがカラダから全部抜けていった。
身も心もほぐれて眼を開けた直後に、玄関ドアが開(ひら)く音がダイニング・キッチンまで届いてきた。
× × ×
「ヒバリ」
弟の名前を呼ぶ。ダイニング・キッチンの入り口付近。お互い立って向かい合い。わたしの身長をとっくに越したヒバリをわたしは少し見上げている。
「おめでとう」
ほぐれた身と心で祝福する。ヒバリの方が断然照れている。照れまくりだから、姉を直視できなくなっていく。
恥ずかしさがダイレクトに伝わってくる嬉しさを味わいながら、
「どうなってしまうのか不安な時もあったけど。よく頑張ったわね。ほんとうによく頑張ったわね」
と言ってあげて、距離を詰める。
「ゆっくり休むのよ。高校生活のためのエネルギーを蓄(たくわ)えなくちゃ」
照れや恥ずかしさを包み込んであげたいキモチを籠(こ)めて言う。
もう一歩前に進んだら、ヒバリの背中に腕を回せそうなぐらい近くなった。
「なんで姉ちゃん、そんな優しいんだ。いつもと違い過ぎる……」
笑い声が出そうなぐらい愉(たの)しくなったわたしは、
「あなたが第一志望に合格したからに決まってるでしょ」
と答えてから、
『おバカね』
と、胸の内で呟く。
笑い出しそうになってしまったから一旦(いったん)目線を下げたけど、再び、間近のヒバリの顔を見上げて、
「わたしホントに嬉しいし幸せなのよ。ハッピーなキモチ、少しは分かってくれないと困るわ?」
と言いながら、両腕を前方に伸ばし始めていく。
わたしの腕の動きにヒバリは狼狽(うろた)える。息を呑(の)むのも忘れるぐらい狼狽える。
一気に抱き締めた。
『抱き締めよう』と思う前に抱き締めていた。準備も決意も必要が無かった。気が付いたらヒバリに顔を埋(うず)めていた。
重ね着しているけれど、胸板(むないた)が厚くなっているのを濃厚に感じ取れる。こんなスキンシップをするのは生まれて初めてだから、カラダの逞(たくま)しい成長ぶりを肌で感じるのも当然生まれて初めてだ。想像を超えてヒバリはガッシリとしていた。カラダを通してオトコらしさも生まれて初めて伝わってきた。
これだけ大きく強くなったのをもっと早く知るべきだった、だなんて、全然思わない。
涙が出るぐらい嬉しくて幸せ。ただそれだけ。前のめりで胸板にオデコを密着させ続け、絶対に離したくないぐらい祝福しているのを伝えようとし続ける。
ヒバリが言語を失うのも至極当然の流れだった。
「しばらく離さないで」
カラダで包み込みつつ、コトバでも包み込む。
「オネガイ」
ワガママな優しさが甘い声になって迸(ほとばし)る。
「離さないで。わたしを離さないで。ヒバリ。今日限定の、一生のお願い。あなたがここまで大きく強くなったのを、もっとカラダじゅうに染み込ませたいの……」
表現が過剰になっているのを自覚するけど、『過剰だからなんなの?』と思い、気にしない。
わたしの方が苦しくなるぐらいヒバリを抱き締め続けたい。
幾ら消耗したとしても、どこまでも、ヒバリを抱き締め続けたい。