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【愛の◯◯】この商店街で残された『わたしの時間』

 

カントの『判断力批判』を発見した。確か愛ちゃんが好きだと言っていた本だ。『純粋理性批判』と『実践理性批判』は読んでいたけれど、『判断力批判』は読んでいなかった。読んでみたかったので、値札も確認せずに本を抜き取り、レジカウンターに持っていく。

お代を払った後で、店主の天堂(てんどう)さんに、

「今日の買い物は、『判断力批判』だけで終わりではないので」

と告げる。

「もっと買ってくれるの?」と天堂さん。

「ハイ。貢献します、売上に」とわたし。

「貪欲(どんよく)だなあ。アカ子ちゃん、俺は、貪欲なのはとっても良(い)いコトだと思うよ。特に若い時は、知的好奇心を絶えず枯渇(こかつ)させないでおかないとね……」

天堂さんが『枯渇』というコトバを使ったのが天堂さんらしくなかったから可笑(おか)しくて、思わず笑い出しそうになってしまったけれど、堪(こら)えて、

「そう仰(おっしゃ)るのなら、レジカウンターにどんどん古書(こしょ)を積み上げてみようと思います」

「助かる、助かる。今日の売上だけで、孫にプレゼントを買ってあげられるかもしれないな」

「何かお孫さんに買ってあげたい商品でもあるんですか?」

そう訊いたら、天堂さんは玩具(おもちゃ)の名前を伝えてきた。

わたしが就職する玩具メーカーの商品だった。

 

× × ×

 

隣の椅子に古書がたくさん入った紙バッグを置き、針生(はりゅう)さんが淹(い)れて下さったホットコーヒーにミルクと角砂糖を投入する。

コーヒーカップの中をスプーンでかき混ぜる。カップは日本土着(どちゃく)の工芸技術で造られている。やっぱり針生さんは趣味がとても良い。本来の専門分野である音楽の趣味も当然非常に良い。ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルの『水上の音楽』が店内に流れているんだけれど、わたしが一番良いと思う演奏の『水上の音楽』と全く同じ音源が響き渡っていた。

「流石ですね」

コーヒーを少し飲んだ後で呟いた。呟かずにはいられなかったのだ。

「もしかして、私のヘンデルの音源の選び方が『流石』だと言ってくれてるのかな?」

わたしは針生さんに頷(うなず)きながら、

「ハイ、そうです。やっぱり、プロフェッショナルは一味(ひとあじ)も二味(ふたあじ)も違いますよね。『水上の音楽』の演奏はこれしか無い、ってわたしも思っていたし」

「ははは。私とアカ子さんで好みが合致(がっち)したというワケだな」

嬉しかったから、微笑まずにはいられなかった。

 

『水上の音楽』が終わったので、針生さんがレコードプレーヤーからLP盤を外した。

それから針生さんはカウンターに歩み寄り、右腕で軽く頬杖を突き、向かいのわたしに対して少し前のめり姿勢になる。

「どうされたんですか?」

滅多に見ないような仕草や姿勢なので気になって、尋ねてみる。

すると、

「いや、アカ子さん、きみも大学卒業間際なんだし……就職した後は、私たちの商店街に来てくれる頻度も落ちるのかな、と思ってしまって」

 

× × ×

 

確かにそうだった。4月からわたしは社会人だ。模型店でのアルバイトも当然あと少しで終わりなワケで、この商店街との接点が無くなってしまう。天堂さんの古書店や針生さんのレコード店に行く機会も激減するだろう。本当にいろんな思い出が詰まった商店街から足が遠のいていくのは避けられない。

レコード店を出た後も、針生さんのコトバが頭の中に反響する。針生さんも淋しいと思うし、天堂さんだって淋しいだろう。祖父と孫という程には年齢は離れていないけれど、趣味を共有してくれる若い女の子はとっても貴重だし、たぶん、わたしのコトをもっと見ていたいキモチが強いんだと思う。

 

針生さんや天堂さんのコトが気がかりなままに、バイト先の模型店に入った。

自分で制作したエプロンを装着していると、

「アカ子さん。きみの就職まで、2ヶ月を切ってしまったね」

という模型店店主・イバセさんの声が飛んできた。

わたしはエプロンを装着する手をいったん止めてしまう。

「きみのようにミニ四駆やプラモデルをその場で修理できるようなスキルを持っている若い女の子と知り合うコトは、この先(さき)無いんだろうな」

イバセさんの声は湿っぽくなかったけれど、言ってきたコトバはわたしの中で重苦しさに変わっていってしまう。

針生さんや天堂さんだけではなかった。イバセさんだって、わたしが商店街からいなくなるのが淋しいのだ。わたしみたいなスキルのある娘(こ)が自分のお店から去ってしまうのがとっても残念なんだし、ひょっとしたら『痛み』のようなモノさえも感じる時があるのかもしれない……。

 

祝日で、午後からミニ四駆大会が催される。子どもたちが続々と模型店に駆けつけている。

お店の奥の方に居るイバセさんを慮(おもんぱか)りながらも、エプロン姿でレジカウンターの前に立つ。

自分の仕事を全(まっと)うしなきゃいけないのは分かっているんだけれど、イバセさんの淋しいキモチがわたしにこびり付いているような感じがして、うまく集中できていなかった。

だから、

『アカ子ねーちゃん、このモーター買いたいんだけど』

という男子小学生の声で、我(われ)に返り過ぎて、ハッとした直後に眼の前の子を凝視してしまった。

「……どした? おれのほっぺたに虫でもひっついてたか?」

慌てに慌てて、

「い、今は冬場だから、虫はあまり飛んでいないわよね……」

『マサくん』というニックネームの男の子は、怪訝(けげん)そうに、

「何円なの、このモーター」

情けなくも反応が遅れ、マサくんが手に持っているミニ四駆用モーターのお値段を確認するのに手間取ってしまった。

お釣りを手渡す時に、

「マサくん、ごめんなさい。自分の仕事に集中できていなくて。アルバイト失格ね、わたし」

と詫びたけれど、

「えー」

と、彼は『このねーちゃんは、なんでこんなに謝ってるんだろう?』と言いたげな表情で、

「アカ子ねーちゃんが『失格』なワケ無いじゃんか。ねーちゃんは『ミニ四駆直(なお)しの天才』なんだし」

「……そう言ってくれてありがとう」

と、わたしは感謝はするんだけれど、

「でもね、わたし、もうすぐ社会人だから、もうすぐこのお店にも来なくなっちゃうのよ? 仕方が無いコトではあるけれど、わたしの手でミニ四駆を修理してあげたりも、あと少しで……」

「ねーちゃん、ストップ」

「す、すとっぷ……??」

不意を突かれたようになってしまったわたしは、カウンターから身を乗り出し気味になってしまう。

マサくんが、続けざまに、

「そんなコトぐらい、分かってるからさぁ」

と言って、それから、

「学校(ガッコ)が春休みになった時に、アカ子ねーちゃんの『そーべつかい』がやりたくって。ミニ四駆仲間と『けーかく』してるんだよ」

ええっ……!!

わたしの、ために、送別会……!?

あんなに生意気にわたしに接していた、男の子たちが、わたしのコトを想って……。

「ど、どーしたん、ねーちゃんっ!? 急に泣きそうな顔になっちまって……」

だって……だって、だって。

驚き過ぎて……『生意気の反対』みたいに、あなたたちのコトが見えてしまうんだもの……!!

 

 

 

 




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