くたびれは否定できない。幾ら体力に自信があるといっても、全く疲れないワケでは無いのである。『体力が無尽蔵(むじんぞう)だから、疲れなんて感じないんじゃないの?』と言われるコトもありますが、誤解です。
おれにだって仕事の疲れぐらいある。その疲れを癒やすためにソファに身を任せていた。
夜の7時半過ぎ。おれがリビングのソファで休んでいる一方で、愛はダイニングテーブルで本を読んでいた。
読書中に話しかけるのは御法度(ごはっと)だよな……と思って、本に集中させてやっていたのだが、いきなり本を閉じたかと思えば、スウッ、と椅子から立ち上がり、愛は勢いよく冷蔵庫を開くのであった。
そして、おれが居るソファの眼前(がんぜん)の丸テーブルにビール缶とワインボトルが置かれた。
ビール缶が何本かあるが、
「おい、おまえはゼッタイにこの缶ビール飲んじゃダメなんだからな」
なぜおれは愛に釘を刺すのか。
『炭酸、ダメ、ゼッタイ』的な意味合いのコトバをしょっちゅう愛には言っている。信じがたいコトかもしれないが、アルコール飲料に限らず、炭酸入りの飲み物を口に含んだ瞬間に、コイツは酩酊(めいてい)し始め、暴走し始めるのだ。
「分かってるからぁ。わたしが『約束』を破るとでも思ってるの?」
元気良く応えた愛はワインボトルを掴(つか)み、赤ワインをワイングラスにどぼぼぼ、と注(そそ)いでいく。
× × ×
約束は守ってくれた。
しかし。
ボトルの中に赤ワインがまだ残っているにもかかわらず、おれのパートナーは相当な酔いの領域に足を踏み入れてしまっていた……。
あまり酔わない時もあれば、ひどく酔っ払う時もある。いちばん近くで観(み)ているのだから、『どこまで酔うのか』に波があるのは把握している。
ただ、今のパートナーはかなーり危ない状態になっていた。ひどく酔っ払う時の方の愛だ。愛の顔面は全体的に赤みが顕著(けんちょ)で、ふらふら、ゆらゆらとカラダが前後に揺れ動いてしまってもいる。
監督不行き届きか……。
「おい、ドクターストップだ、愛」
危機感でいっぱいのおれは告げて、ワインボトルに手を伸ばして取り上げようとした。
しかししかし。
「ドクターストップだなんてぇ、だーれがきめるのぉ!?」
という愛の声を聞いて、ワインボトルに伸ばしかけた右手が震え始める。
「あなたはぁ、イガクブしゅっしんでもなんでもないんだしぃ、かってにオイシャサンをなのるのは、ちょっとルールいはんだとおもうわよぉ」
まずいまずい。
これ、抑えが効かないやつだ……!!
今のコイツの喋り方はひらがなとカタカナだけで表記するのが妥当なモノになっちまっている。次にコイツが何を言ってくるのか。怖い、怖すぎる。
赤ワインに敗北した結果泥酔モードに突入してしまった愛は、ますます赤くなった顔を傾け、少しコトバを溜める仕草をしたかと思えば、
「『あっくん』」
と今までに無いような名前呼びをして、おれに向かってまっすぐ前のめりになってくる。
『アツマくん』と呼んでくれない。……否、『アツマくん』と呼ぶコトが『できない』。言語感覚が乱れた結果、『あっくん』なる呼称が産まれてくる。
「『あっくん』~~。どーして『あっくん』は、スーパードライをもったまま、のもうとしないのぉ~~??」
気付けば、いつもの綺麗な声が失われていて、美人らしからぬベタベタした声になってしまっていた。
「もーガマンできない。ニンタイのゲンカイ」
両手で丸テーブルを強打して立ち上がる。おれの間近も間近までやって来る。両膝を床に突き、両脚を左右に広げる。そんな女子特有の姿勢になってからすぐに、おれの襟元(えりもと)の辺りに熱い視線を注いでくる。
見上げてきたのは僅かな時間で、一気に目線を床の方に下降させ、軽々しく笑う。
それから、
「『あっくん』、まだキモチよくなってないじゃないの。『あっくん』には、イマのわたしとおーんなじぐらい、キモチよくなってほしいのにぃ。『あっくん』だって、ストレス、あるんでしょおー?? シャカイジンはぁ、ストレスぅ、つきものだしぃ、『あっくん』はぁ、シャカイジンなワケなんだしぃ。――ねぇねぇ、『あっくん』、『あっくん』のオナヤミそーだん、わたしはいくらでもアイテになってあげるわよ~~!?」
ダメだダメだダメだ。ヤバいピンチだ大ピンチだ。『あっくん』呼びを連発して絶賛制御不能中の愛。制御のための『決め手』が少しも頭に浮かばないおれ。どうするんだ。どうすればいいんだ。これからどうする、どーするの、パートナーとして『何とかしなくては』、そう思う度毎(たびごと)に、おれは、おれは……!!
× × ×
冬たけなわの朝。カラスの鳴き声とスズメの鳴き声がミックスされて聞こえてくる。
「わたし昨夜(ゆうべ)の記憶が無いんだけど」
身を包むようにして毛布を羽織(はお)った愛はあっけらかんとしている。素面(シラフ)に戻った笑顔がおれの眼に突き刺さる。
愛はソファの上で眠って起きた。おれもソファに居て一夜を共にしていた。そして互いに起床してからしばらく経ってもどちらもソファに居続けている。
「記憶が無くなるぐらい酔ってたってコトだ」
素面(シラフ)だから減点材料が何にも無い美人顔から少し眼を逸らしつつ、おれは告げる。
「どんな風に?」
無邪気に訊く愛。
「だから、記憶が無くなるぐらいに……」
「そんな答えじゃわたしは満足できない。アツマくん、もっと踏み込んでよ。踏み込んで昨夜(ゆうべ)のコトを回想して?」
愛が距離を詰めてきやがる。
言うべきか、言わざるべきか……それが巨大な問題だ。
『ハムレット』をパクったセリフを用いるほどにおれは追い込まれ、苦悶の度合いがどんどん上昇していく。
迫るパートナーの信じがたいほど整った顔から少しだけ顔を逸らし、3回連続で深呼吸した。
3回では足りなくて、もう2回深呼吸した。
……パートナーの顔を直視しない方が『言いやすい』と思い、わざと背を向けた。
「ソッポを向くのは、わたしがとっても『乱れてた』から??」
「……うるさいな」
そう言いつつも、
「あのな、あまり怒らないでくれよな」
と前置きし、
「おまえに甚(はなは)だしい言語の乱れがあった」
と言い、
「例えば……例えば、おれのコトを、『あっくん』、って呼んでたり、とか」
と精一杯に打ち明ける。
愛の勢いが鈍り、おれの背後から声が聞こえなくなった。
沈黙の理由は『怒り』よりも『恥じらい』だ。
長年寄り添っているんだから、それぐらいはすぐに分かる。
……分かっちまうんだよな。
ゆっくりとした動きで愛の方角にカラダを向ける。
愛を見る。
なんともいえないぐらい、本当になんともいえないぐらい、恥ずかしがっていた。