夕暮れが迫っている時間帯だが、仕事のためにアツマくんの帰宅がいつもより少し遅くなるので、マンションのお部屋で1人だけの時間がもうしばらく続く。独(ひと)りきりだけど、こんな孤独も悪くない。リビングの奥に行って小(しょう)テーブルの前に腰を下ろしたわたしは、わたしだけしか閲覧(えつらん)してはいけない日記帳をテーブル上に置く。これから日記を書くのだ。自己満足だけど、これも日課なのである。
「さーて、何を書こうかな」
呟く。アツマくんの帰りが少し遅くなるとはいえ、あまりグズグズしてはいられない。頭の中で素材を探し、わたしなりの表現の仕方で文章にする。そんな風にして、わたしのオリジナリティが滲(にじ)み出た日記を目指す。
とりあえず、
【2月3日 月曜日 節分】
と、開いたノートの左ページ上部に書き記す。【節分】と書いた。立春(りっしゅん)の前日が節分である。立春が2月4日だとしたら、本日2月3日が節分ということになる。時候(じこう)には敏感でありたいから、忘れずに【節分】と記しておくのである。
次に、天気。
『晴れ時々曇り。コンビニへ買い物に出たお昼過ぎ、青空に幾つかの雲が漂っているのを見た。』
こういう風に記述した。そっけない描写ではある。でも、『曇り』の『曇』の字をキレイに書けたのはホメてほしいと思う。『自分以外閲覧禁止の日記のはずなのに、なんで誰かにホメてほしいの?』という疑問は甘んじて受け入れる。だけど、『曇』っていう字は画数多いし、なかなか書こうと思っても書けないでしょ? 書道や俳句を嗜(たしな)んでいるのなら、『お安い御用』な漢字なんだろうけどね。ちなみにわたしは嗜んでない。
さて、
『最寄りのセブンでイレブンなお店を出た後で、公園に行き、ベンチに腰掛け、さっき買ったボトルコーヒーを買い物バッグから取り出し、眼の前のブランコを眺めながら飲んだ。ブランコに誰かがやって来る気配無し。小学校も授業中なれば致し方無し。しばしコーヒーを飲み耽(ふけ)るに、犬連(つ)れたる御婦人、ブランコの後ろを過(よぎ)る。御婦人、ベンチに坐(ざ)したる女子大学生の存在に気付き、軽く会釈(えしゃく)す。健全たる女子大学生なれば会釈返すべく思(おも)いて、自(おの)ずから満面の微笑みにて御婦人と犬を見据えけり。……』
……克明(こくめい)な描写を書き連ねたワケだが、お気付きのように、途中から文語体モドキみたいな文体に変貌してしまっている。古語(こご)も文法もある程度インプットしてはいるんだけど、読むのと書くのでは勝手が違う。『更級日記』を読むより自分の日記を文語体で書く方が200倍難しい。ちなみに、言うまでもないかもしれないが、文中の『女子大学生』とはわたし自身のコトである。
× × ×
「犬を連れた奥さんと出会ったのよ」
「ふーん、どこで?」
「あなたには教えない」
「……なんで」
アツマくんを困らせるため、コーンスープの入ったカップを持ち上げ、ゆったりとカップの中身を飲んでいく。
19時近くに夕食は始まった。いつも通りの席についてわたしとわたしの彼氏は向き合う。ゆとりをもって調理できたので、今日の夕ごはんは我ながら会心の出来である。
「相当ヒマそうだな、おまえ」
「うん」
彼に対して即座に肯定。
それから、
「大学の長期休暇だから、ヒマになるのは避けられないのよ。――もっとも、4年目の下半期長期休暇だから、イレギュラーな長期休暇ではあるんだけど」
留年するが故(ゆえ)に4年目の下半期長期休暇が来る。当然アツマくんも把握しているコトだ。
ただ、『デリケートな流れになる発端(ほったん)を作ってしまったかもしれない……』という自責の念が芽生えたのか、眼前(がんぜん)のアツマくんの目線が徐々に下降を始めてしまった。
「なーに。どーしたの」
甘く、優しく、
「どーしてあなたが沈み込んじゃうのよっ。当事者では無いでしょう?」
と彼に声掛けして、
「当事者のわたしにしたって、前向きに行きたいんだから。留年は、むしろチャンスなのよ。自分も見つめ直せるし、周(まわ)りの世界も見つめ直せる。マイナスをプラスに変えるのは、案外容易(たやす)いモノよ」
力強いわたしのコトバを、受け止め、受け容(い)れ、パートナーたる彼の目線が徐々に上昇していく。
そしてそれから、
「ほんとーに、おまえって、すごいよな、強いよな。尊敬するよ」
と彼は言ってくれるのである。
えへへー。
リスペクトされちゃった。嬉しい嬉しい。
一気に嬉しい気分に満ち溢れていくわたし。
そんなわたしを、彼はジーッと眺めている。
彼は、視線を、わたしからなかなか外さない。
眺め続けられているから、わたしの嬉しさが部分的に焦りに変わっていってしまう。
どうしたんだろう……。
リスペクトしてるから、こんなにわたしを眺め続けるの?
……わたし、自分のルックスに自信あるから、『幾ら眺め続けても眺め飽きないんだろう』とは思うけど。
そうであっても、わたしが美人であること云々の他に、眺め続ける理由、眺め飽きない理由が……きっとあるんだと思う。
だとしたら……『理由』は、どんな理由??
「ど、どーしちゃったかなあ。お箸(はし)を動かした方が、良いんじゃないかなあ。わたし愛情を込めて作ったから、冷めない内に味わってほしい……」
焦りながら、慌てながら、わたしはそう声を出したけど、
「悪いと思ってるよ、出来立てを味わってやらなくて」
と、依然視線を外さない彼は言い、それから、
「だけども、作った料理をホメてやるのと同じくらい、ホメてやりたい『モノ』があって」
さらに焦って、さらに慌てて、
「そ、そ、それって、どんな『モノ』、なのかなあ!?」
と、裏返った声を出すのを堪(こら)え切れなくなってしまう。
落ち着きを欠きまくり状態なわたし。
一方、落ち着きに全く欠落の無い彼。
わたしとは対照的な状態の彼が、
「ヘアピン」
と言った。
彼が『ヘアピン』と言った途端、ドクドクドクドクドク……という血流の音がわたしに鳴り響いた。胸の鼓動が単なる加速とは言えないレベルで加速する。
「今のおまえのヘアピン、今年に入ってから1番かわいい。最高にかわいい」
『1番かわいい』。『最高にかわいい』。
こんな風に言われて、体温が1℃以上高くならない理由が無かった。
「ヘアピンが最高にかわいいから、必然的におまえもかわいい」
そう言い足した後で、アツマくんはご飯茶碗(じゃわん)を持ち、食事に復帰した。
× × ×
わたしが食事に復帰したのは、アツマくんが食事に復帰した15分後だった……。