桐原高校には相談室が幾つかある。そのうちの1つに入室している。壁がだいぶ煤(すす)けている。
革張りの椅子に腰を下ろす。椅子の革に綻(ほころ)びを見つける。ずいぶん古い部屋なのだろうと思う。
この部屋の壁と同じくわたしのココロも煤けている。この部屋の椅子の革と同じくわたしのココロにも綻びがある。
だから、向かいの椅子の後輩が、寺井菊乃(てらい きくの)が、上手に見られない。
× × ×
相談室に来るまでの流れ。
放課後になって数分後のコトだった。菊乃がわたしのクラスの教室ドアを開けた。
菊乃がわたしの部活の後輩であるのはクラスのほぼ全員が知っていたから、教室内に緊張が走った。
わたしは窓際のいちばん隅っこの席についていた。本来の席とは違う席。クラスメイトの娘(こ)に譲ってもらっていた。
教室入り口に立つ菊乃の姿を見てすぐに、
『やっぱり逃げられないんだ』
というキモチがわたしの中で芽生えた。
観念して、席から立ち上がり、緊張感が増す中を菊乃目がけて一直線に歩いていった。
菊乃に相談室の鍵を手渡したのは放送部の顧問の先生だった。
影が薄い放送部顧問ではあるけど、わたしの豹変(ひょうへん)ぶりにはちゃんと気付いていたのだ。30代後半に差し掛かっていて勤続年数も長い。わたしより2倍ぐらい長く生きているのだ。過去にも同じような経験があったのかもしれない。彼女の配慮が胸に染み透る。その一方で、情けなさも胸の奥で膨らんでいく。
× × ×
「ちょうど、モネ先輩ときちんと話したかったトコロだったんです。絶妙なタイミングで、先生が声を掛けてきてくれて」
菊乃の説明が耳に響く。
つらいけど、顔を上げようとする。眼はなかなか合わせられないと思うけど、俯き通しは不愉快にさせるだけだと思ったから。
徐々に上昇する目線の先に、菊乃のツインテールがあった。
ツインテールで目線の上昇が止まってしまうわたしに対し、菊乃が口を開く。
「頑張って登校できて、偉いと思います、センパイは。上から目線みたいな言い方で、申し訳ないんですけど」
わたしは細く小さい声で、
「……ううん。上から目線じゃないよ。ありがとう菊乃、登校したこと、ホメてくれて」
「どういたしまして」
菊乃はそう応えてから、
「――紅葉(もみじ)先輩と、連絡、とれていますか?」
と訊いてくる。
斬り込まれる流れになった、と思った。エアコンの暖房はそれなりに効いているけど、背中に冷や汗が流れる。
「……ごめん。とれてない」
首を小さく横に振り、小声で回答する。
「わたしに謝られても」
菊乃の声が聞こえてくる。顔を見ることができていないけど、99%苦笑いしていそうだ。その苦笑いには確実に呆(あき)れも混じっている。
歯がゆい。
「紅葉先輩、心配してました。ずいぶんと、重く」
菊乃の報告。見えないモノに天井からグググッ、と押さえつけられるような感覚がやって来る。
『重い心配』。
重々しい心配であるのならば、紅葉に悪影響が及んでしまう。わたしのコトで思い詰めれば詰めるほど、あの娘は危うくなっていってしまう……。
「紅葉と、会ってるんだね、菊乃」
情けなさの充満したコトバを吐いてしまう。ツインテールから目線が下降し始める。
「会ってます。週が明けてから、月曜も火曜も水曜も木曜も」
ずーっと会ってるんだ……。
毎日、顔を合わせてるんだ……。
「紅葉は……あの娘は……どんな表情だった……?」
自分自身の上履きのつま先に視線を固定させ、菊乃に訊く。
「そうとう『参ってる』感じの表情でした」
間を置くこと無く菊乃は答えた。
胃袋を締め付けられながら、
「それは……ゴメンナサイ、だな」
と言うけど、
「センパイ?」
と、少したしなめるようにして、
「『ゴメンナサイ』は、直接言わなきゃ」
と、言われてしまう。
わたしからチカラがどんどん抜けていく。カラダもココロも寒くなり、自分自身のつま先を凝視していた眼を思わず閉じてしまう。
『だよね。……そうだよね』
そう呟いた、けれど、呟きの声量(ボリューム)が小さ過ぎて、きっと菊乃には聞こえていない。
「放送部の関係者で、モネ先輩のコトが気がかりじゃない人間は、1人も居ません。……こんな言い方、たぶん、プレッシャーを与えまくっちゃうんだろうけど。それでも、伝えるべきコトを伝えるのが、わたしの責務なので。『伝える』ためにここに来ているので」
菊乃。
良(い)いんだよ、厳しいコト、どんどん言っても。
だって、わたし自身がこういった事態を招いて、みんなに迷惑かけてるんだから。
だから、叱りたいだけ叱ってよ。
「気がかりなのは、放送部の人間だけじゃなくって」
話し続ける菊乃。
『放送部の人間『だけじゃなくって』』……。こんな言い回しが、ダイレクトに心臓に食い込む。
放送部の外部の誰が、わたしを気にしているのか。……もう既に感づいてしまっているような状態に、なっていて。
「タカムラかなえちゃんと、話し合いました。かなえちゃんの方から放送部室に来てくれて、話し合いをしました。その日の夜に、LINEの通話でもう1回、話し合いをしました」
泣きたくなるようなキモチになってきちゃっている。
泣きたくなるまで追い込まれている。でも、追い込まれ過ぎているからだろうか、こみ上げては来ない。中途半端な哀しさが中途半端な場所に留まっていて……。
「かなえちゃんの声、『ホンキで心配してる』ってキモチが、ホントに籠(こ)もっていて」
菊乃はそう言ってから、一拍(いっぱく)置いて、それから、
「かなえちゃんぐらいシッカリした年下の娘(こ)も、なかなか居ないよね……って、あらためてわたしは思いました」
何もコトバを返せない。どんな日本語もわたしの頭の中に浮かばない。
とうとう、やぶれかぶれ、みたいになっちゃって、スカートの裾を右手で鷲掴みにする。
右手の次に左手でも、ぐしゃっ、とスカートを鷲掴みにする。
そして、それから、
「タカムラちゃんのコト、『かなえちゃん』って呼ぶのって、菊乃ぐらいじゃない?? そんだけ、菊乃は、タカムラちゃんが、とくべつ……なんだね」
と、自暴自棄が頂点に達したのを露(あら)わにするようなコトバを吐いてしまう。
最低だった。疑いようもなく最低だった。酷過ぎる言い方。なんで、どうして、わたし、この期(ご)に及んで後輩を挑発するようなコトバを吐いちゃうの。最低最悪だよ。追い込まれた反動で、攻撃的に……。ゼッタイにゼッタイに、菊乃を怒らせちゃってる。
もしかしたら、ビンタが飛んでくるかもしれない。……誇張かもしれない、たぶん誇張表現なんだろう。だけど、菊乃は、こういう時に本気で怒るタイプなんだって、丸2年間の付き合いの中で認識していたから。だから……殴られないにしても、大声で叱られて、手痛いお説教をかまされる可能性は、とても高いと思う。
菊乃の怒りの導火線に火をつけるようなコトを言ってしまったから、怖くなった。怖くなったから、カラダを丸く縮めた。両腕でお腹の辺りを包み込んだ。
でも、
「なーんで、とーとつに、わたしにヤキモチ焼くかなあ」
と、全然怒っていない声、呆れているキモチの充満した声で、菊乃が言ってきたから、ビックリして、一気に顔を上げてしまった。
菊乃は柔らかい表情だった。
わたしの態度にウンザリしているような感じもあったけど、全体的に、優しさに満ちていて……温かさすら感じ取れた。
『しょーがないんだから、モネ先輩ってば』
そんな風なココロの声が、聞こえてきそうだった。