青島さやかちゃんが何だかわたしに遠慮気味だ。
「このコーヒー美味しいです、一ノ瀬先生……じゃなかった、杉内先生」
ダイニングテーブルで向かい合っている彼女の声が遠慮に満ちている。
だから、
「どーしてそんなにカタいのかな、さやかちゃん。敬語なんか使わなくて良いのよ。ここは学校じゃないし、誰も見てないんだし」
でも、さやかちゃんは一層縮こまっちゃって、
「……でもっ」
しょうがないなぁ。
「それから。わざわざ現在(いま)の姓で呼び直さなくたって良いから。むしろ、旧姓の一ノ瀬で呼んでほしい」
彼女の顔の角度は少しずつ上昇していくけど、まだ遠慮があって、
「旧姓で呼んでほしいのは、なんで?」
ようやくタメ口になってくれたものの、尋ねる声がフニャけちゃっている。
わたしは左腕で頬杖。30歳を幾つか越したオトナの余裕でもって、
「わたしの名前が『琴乃(ことの)』だから、じゃあ、答えになってない?」
「――あっ」
さやかちゃん、何事か感づいたみたい。
× × ×
わたしは有給、さやかちゃんは授業無し。都合がちょうど良かった。
夫は出勤しているから、マンションでふたりきり。
「保健室の先生と生徒」という関係では無くなっている。だから、窮屈さみたいなモノとは無縁だ。さやかちゃんが教え子だった時からある程度はそうだったけど、現在(いま)ならばより一層ざっくばらんにコミュニケーションができる。
さやかちゃんの喋り方もようやく砕けてきた。そう来なくては、この場でふたりで過ごす意味があまり無い。
「ねえ、『せんせい』」
『先生』ではなく『せんせい』が、彼女がわたしを呼ぶ表記としては相応しい。
「夫婦の生活、どーなの?」
踏み込んできた。話し相手よりもひと回り上だから、動じない。さっさと踏み込んできてくれる方が嬉しいと思ってたし。
「幸せよ」
「どんなふーに?」
「ダンナがね、夕食の時とかに、わたしをよく笑わせてくれるのよ。あのヒト、冗談(ジョーダン)が上手(ジョーズ)なの」
「へえぇ〜〜。杉内先生、学校でも面白かったもんねぇ」
「時には、ケンカもしちゃうけど」
「え!? 夫婦ゲンカ!?」
眼を輝かせる元・教え子。
くすぐったい可愛さ。
「わたしも彼に追いつきたくて、ずいぶんドイツ語を学んだから、ケンカの時、ドイツ語で罵り合ったりするの」
「え〜。おもしろい〜」
巷(ちまた)の女子高生に近いようなテンション。わたしの前だとこうなるんだけど、わたしの前以外だとこうはならないらしい。
「わたしもドイツ語スキルかなりアップしたんだよ、せんせい。高等部の時から習ってたけど、大学に入ってからもみっちり勉強してたから。……そういや、ドイツ語は最初、せんせいのダンナさんに習ってたんだった」
「あなたがあのヒトにドイツ語を習い初めた時は、わたしはあのヒトと手を繋いだコトも無かったんだけどね」
「うん」
「通ってる大学が大学なんだし、わたしなんかよりも数段ドイツ語お上手なんでしょ?」
「自信あるよ。ぶっちゃけ」
「頼もしいわ。あのヒトにも伝えてあげる」
「よろしくね」
× × ×
午後3時を過ぎたところ。ダイニングテーブルでのお喋りは続く。おやつに和菓子しか用意できなかったのは少し申し訳無かったけど、まあいいや。
前のめりになったさやかちゃんが、
「それでそれで、ズバリ、夫婦の生活の中で、新しい家族だとか――」
やっぱり「新しい家族」というワードを出してきたから、ついつい笑い出しそうになってしまう。
笑い出すのを堪(こら)え、左手の人差し指と中指をアゴの下に当ててネットリとさやかちゃんの顔を見る。それから意図的に顔を逸らし、わたしの左サイドの窓辺の風景を見やりながら、
「そんなコトより、『音楽の時間』なのよ、さやかちゃん」
「おんがくの……じかん?」
「今頃、高等部1年は選択芸術のお時間。音楽を受け持ってるのは、阿久井先生と、それから……言うまでもなく」
さやかちゃんのお顔にチラリと眼を向けてみる。
どきり!! という大きな「感情の音」が聞こえてきそうな状況になっていた。つまり、見るからに動揺。
窓辺から眼を離し、再びさやかちゃんに向き合う。
どきどきどきどきどき……。
そんな風な、ココロに刻まれる音が、今にも聞こえてきそうだ。
流石の最高学府の学生であっても、わたしの「ほのめかし」の破壊力には勝てないみたいね。
「気を悪くしたらゴメン、だけど」
わたしは微笑みながら、
「さやかちゃん、荒木先生と、『セカンドステージ突入』なんだってねえ」
即座に、
「ななななななんでソレを!?」
と驚愕のさやかちゃん。
「どこからともなく♫」
そう言って、右手で指を弾くような仕草をするわたし。ここだけ切り取れば、教師としての資質に大いに疑問アリなオンナに見えちゃうだろう。
しかししかし、誰も見ていないのである。見ていないから、見えちゃう余地も無いんですよねー。
× × ×
さやかちゃんが非常に火照ったので、場所移動をさせて落ち着かせる。
広々としたカーペットに寝転ばせる。もちろんわたしも、彼女から見て右横にごろ〜ん。
「さやかちゃん」
「……なぁに」
「そんなショボくれた声にならなくたって」
「だ、だからなぁに!? せんせい……」
「おめでと〜〜〜!!!」
「!? な、な、なんで大げさ過ぎな祝福を……」
「荒木先生とのセカンドステージが始まったのよ!? 全力でお祝いしてあげなきゃ、恩師失格よ」
「恩師、失格……」
「やっぱし、ケーキ買ってきてお祝いしたげるんだった。ほら、バースデーケーキに使うような大きさのやつ」
「なっなーんか、今のせんせい、わたしの母さんみたいな感じ」
「そう思うの? どーしてなのかなぁ♫」
となりのさやかちゃんは、ひと呼吸もふた呼吸も置いてから、
「んーっと、それよりも、それよりもね……。まだ、羽田愛についての近況報告をちゃんとしてなかった気が……」
「話を逸らすのがドヘタね。流石はさやかちゃん」
「だ、だって!!」
「あなたの大親友で彼氏クンと新婚同然の生活をしてる羽田愛さんのコトは後回し。さやかちゃんの『未来』を話し合うコトに集中したい」
「……」
高等部どころか中等部の生徒のように幼く押し黙るさやかちゃん。
わたしも中学生の時、どうしようも無い状況に置かれて、こういう風になっちゃったコトもあった。
共感できる。だから、優しくしたい。目一杯に。
「……初恋よね?」
とわたし。
「……わたしの、恋が?」
とさやかちゃん。
「荒木先生が初恋のヒトだって事実は揺るぎ無いでしょ」
指摘するわたし。
黙(もだ)すさやかちゃん。
「あなたが中等部時代に自分自身のキモチに気付いた時、保健室のわたしに真っ先に伝えてくれたのに」
「ほじくらないでよ……大昔のコト過ぎるし」
「ごめんね」
素直に謝り、かつ、寝返りを打つように、さやかちゃん向きになり、顔に顔を寄せていく。
「わたしの初恋も、わたしがJCだった時」
そう告げた数秒後には、さやかちゃんの顔に熱が帯び始めたのを感じ取れた。
「もちろん、無残に散った恋だった」
「そんなコト、わざわざ言う、必要性って」
「わたしが必要性を感じてる理由は、ただひとつ」
オトナっぽい息継ぎをして、それから、
「さやかちゃん。あなたには、無残に散ってほしくない」
さやかちゃんのココロの発熱は止まっていないコトだろう。
わたしが『助長』しちゃったから、彼女はさらに戸惑っていく。
だけども。
「どうせわたしのダンナの帰宅、19時を過ぎるし」
と告げ、再びオトナっぽい息継ぎをして、それから。
「応援してあげるから。大変な道のりなんだから、なおさら。明日以降のコトを、しっかりと一緒に考えていこうよ」
想い、伝わってるわよね。
誇らしい教え子のあなたに、この初恋を絶対に失敗させたくなんかないんだから……。