桜子さんが、スポーツ新聞部の活動教室で、受験勉強をしなくなった。
どういう心境の変化だろう。
× × ×
東京中日スポーツを机に広げている桜子さんが、
「ねえ、あすかちゃん」
とわたしに話しかけてきた。
「なんですか? 桜子さん」
「あすかちゃんにとって――、
アルファベットのDって、どんなイメージ?」
ええっ。
えええっ。
「どうしてそんなこと訊くんですか……」
「秘密よ」
東京中日スポーツをパタパタさせながら、
「Dっていう文字から、あなたはなにを連想するかしら」
はためくトーチュウの紙面を見ながらわたしは、
「中日……ドラゴンズの、D」
「言うと思った」
吹き出しそうになりながら桜子さんが言う。
いったい、なにがしたいのやら。
桜子さんは自分の席に座っている。
立っているわたしを見上げながら、しゃべっている。
その、見上げる目線が、顔よりも下に行っているような気がしてならない。
「あのー、桜子さん」
「なーに? 物申したいことでもある?」
「あります」
「どうぞご意見を」
「ご意見というより……目線を上げてください」
「あ」
「『あ』ってなんですか『あ』って。顔を見てしゃべってください」
「ちょっとまって」
――しだいに、
彼女の目線の矛先(ほこさき)がどこに向けられているのか、
彼女はわたしの身体(からだ)のどこにこだわっているのか、
そういうことが、わかってくる、わかってきてしまう。
アルファベットのDって、まさか――。
――わたしが勘付き始めると同時に、入口の扉が開いた。
顧問の椛島先生だ。
「よかった、茶番が終わる」
胸をなでおろして、椛島先生のほうに向く。
「先生、よく来てくれました」
「えっ、そんなわたし待ち遠しかった、あすかさん」
「困っていたので――」
「困りごと!? どうしたの」
「――困ってたんですけど、先生の到着と同時に解決しました」
「そ、そう……」
× × ×
先生が、差し入れを持ってきてくれた。
わ~い。
みんなで食べながら、ワイワイガヤガヤ。
Dがどうとか、さっきの問題発言のことなど忘れてしまったような素振りで、
「先生、学芸大って、どんな感じでしたか?」
と、桜子さんが質問した。
「気になるの? 一宮(いちみや)さん、もしかして受けるつもりなの」
「いえ、純粋に、先生の大学時代のことが知りたかっただけです」
「知りたいと言われても、面白い思い出話なんて、あまりないよ」
「そうですか? 先生、大学時代に演劇をやられていたんですよね? 演劇関連のエピソードとか――」
「たしかに、わたしはずっとお芝居してきたけど……」
「先生は宝塚ファンでしたよね」
「よく憶えてたね、岡崎くん。びっくり」
「ウチの祖母と母もそうなんで」
「ホント!?」
「……以前話したような気が」
「宝塚の話に持っていかないでよ。先生の演劇のことのほうが聞きたいんだからね」
ツンツンと、桜子さんが岡崎さんを戒(いまし)める。
「わかってるよ……。おれだって、先生の演劇には関心がある」
「ほんとかしらぁ?」
「嘘じゃないっ!!」
「意外。ひとは見かけによらないのね」
「桜子おまえなあ……!!」
まあまあ。
「こら、ケンカしない」
椛島先生の教育的指導が入る。
シュン、とするふたり。
「あれでいいのか? あすかさん」
難しそうな将棋本を閉じて、加賀くんがボヤいた。
どうしようもない光景を眺めているような眼。
「あれでいいんだよ、にぎやかだし」
「ほったらかし、ってか……」
あれはあれで、いいとして。
わたしは、加賀くんの、とある『過去』を忘れていない。
「加賀くん、なにか思い出したりしないの?」
イジワルだなあんたは……と言いたげな顔になる、後輩男子。
「思い出さないわけないよね」
だって、
「加賀くんは、むかし、大学生だった先生のお芝居、観てるんだもんね」
忘れてないよ、わたしは。
今年の4月以来、『放置』されてた『設定』だけど。
あ、『放置』とか『設定』とかは、ブログの事情的な話です。
――とにもかくにも、
実は、浅からぬ縁(えん)があった、加賀くんと椛島先生。
「思い出話に花を咲かせてくるのも、いいんじゃない?」
「…べつになんにもねーよ。ガキの頃のことだし」
「でも憶えてるんだよね」
「……自分から観た芝居じゃないし。観せられただけだし」
「でも、印象には残ってる」
歯噛(はが)みする加賀くん。
「加賀くん、もっとちゃんと向き合わないと」
この際だから、お説教モードに入っちゃえ。
「椛島先生に向き合うのは、もちろんのこと。だけど、それ以外にも、キミはいろいろ向き合わなきゃ」
加賀くんの眉間にシワが寄る。
わたしは、眼を離さない。
「しっかりしなくっちゃ。もういくつ寝ると、2年生でしょ」
「なに言ってんだ、まだ早(は)えーよ」
「そういう意識がダメなんだよ」
じっとりと、加賀くんに視線を据(す)える。
「…わたしが次期部長。必然的に、加賀くんが次期副部長」
この事実を、理解(わか)らせる。
「責任重大」
後輩だって――きっとできる。
加賀『センパイ』って、呼ばれるようになるかも。
もうすぐ、そんな季節が来る。
「――いろいろ、ちゃんとしないとね」
わたしの話、
抽象的すぎたかな。
説得力、ないか。
肩を落としていると、
椛島先生が、わたしと加賀くんのほうにやってきた。
教壇に、そっと腰を下ろして、
「あすかさんは、偉いね、大人だね。わたしのほうが勉強になる」
「そんなわけ……ないです。たいしたこと言えてないし」
「加賀くんは、あすかさんが話したことを、心に留(と)めないとダメよ?」
加賀くんの横顔に、椛島先生のご忠告がぶつかってくる。
キョロッ、と、先生の顔を、少しだけ見る加賀くん。
もしかして、先生に面と向かうの、恥ずかしかったり?
いや、
これはそうだ、
ぜったいそうだ。
加賀くん、椛島先生に対しては――照れるんだ。
「しっかりしなきゃならないのはもちろんだけれど、」
うれしそうな顔になって、先生は、
「ちゃんとするようにもなってきてるのよ――彼」
「『彼』って、おれは眼の前にいるんですけど」
「ほらね。敬語が使えるようになってるでしょ? すごい進歩だと思わない、あすかさん」
「思います、思います」
「宿題だって、提出できるようになったのよ。期限遅れは別にして」
「それもすごい進歩じゃないですか!」
「……ふたりだけで盛り上がりやがって」
「汚いことばづかいは反則負けだよ、加賀くん」
「そうよ、あすかさんの言う通り」
「……」
「加賀くん、国語教師のわたしから、宿題出します」
「……」
「『蚊帳(かや)の外』ということばの意味を、調べてくること」
「……いつまでに?」
「終業式までに」