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2018.09.30

9月、色々あったけど、結局プロデューサーと開発でうまくいかない問題は解消していない。開発の中では「あのプロデューサーをリプレイスするのは無理だったから教育するしかない。」と話した。「人を育てる」ということ、非常に傲慢な考え方な気がするし、上下関係を明確にするから、大嫌いなんだけど、少し頭を捻る。

確かにおれも「あの人に育ててもらった」という意識はある。例えば大学院時代の指導教官だし今の上司だけど、彼らは教育者という立場からおれにものを言わなかった。大学院時代の指導教官は「これが足りないから勉強してこい」とは言ったことがなくて、当然研究に至るための前提知識を知っている体で意見を言った。おれは「"本物"の研究者ならアレも知ってるしコレも知っているべきなんだ!」と察して勉強するに至った。今の上司もそうで、一緒に行動したり会話するうちに「"本物"のイケてる社会人はこういうことを考えてこうやって行動するのか」と察することが出来た。おれの教育者になった人は本物だった。

"本物を見た"という点で思考すると、おれが何かを頑張ろうと思ったとき、全てに本物の人が近くにいた。大学のときはそういう人が周りに多かった。そういう人は既に何かにめちゃめちゃ詳しいのに常に何か勉強したり作っていたりしていた。そういう姿勢をおれは見ておれもそうなりたいと思ってそうなった。

逆に教育者としておれにものを言ってきた人とは反りが合わなかった。去年のメンターもそうだし、中高大時代に仲良くなれなかった先輩たちは教育者としてものを言ってきた。「おれに何か言う前に自分自身の行動を見直せよ。」と思っていた。

だから、おれの座右の銘は「御意見無用」なのか。なんとなく掲げていたけどそういうことか。本物の姿勢を見ることさえできれば、勝手に憧れて影響を受けて勉強してきた。そういうわけで、「人を育てよ」と言われても、おれには、手を抜かずに全力でやっているのだという姿勢を見せることしかできない。教育者として物を言うという、そのやり方は拒否してきたのでやり方をしらない。

教育というテーマで何冊か読んだり人と喋ってみるといいのかな。




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