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「前橋工科大特別講義&まち歩き」に参加する(2)

(写真)愛宕座があった愛宕神社

2025年(令和7年)12月23日(火)、群馬県前橋市で開催された「前橋工科大特別講義&まち歩き」に参加しました。「前橋工科大特別講義&まち歩き」に参加する(1)からの続きです。

 

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2. 個人的な痕跡探索

2.1 愛宕座跡地

近代の前橋市を代表する芝居小屋としては愛宕座がありました。1888年明治21年)8月に小柳町(現・住吉町)の愛宕神社脇に建てられ、1897年(明治30年)に野中倉吉に買収されると、1902年(明治35年)には柳座に改称しています。初代中村鴈治郎、六代目尾上菊五郎松井須磨子などが来演しましたが、1943年(昭和18年)7月14日に火災で焼失しました。

(写真)愛宕座(柳座)について書かれたレジュメ。

(写真)柳座。『前橋繁昌記』前橋繁昌記発行所、1907年。

(地図)柳座が描かれた「前橋市全図」(高橋常蔵、1908年)。『前橋市史 第7巻 資料編 2』収録。

 

愛宕座跡地の北西角にある建物には愛宕座に関する資料が展示されているようです。2009年(平成21年)には住吉町二丁目自治会によって、跡地に「柳座」跡地という説明看板が立てられました。

参考:「あたご歴史資料館」日本すきま漫遊記

(写真)「柳座」跡地の説明看板と愛宕神社

 

2.2 野中家墓所

上記の愛宕座(柳座)を経営した野中興業は群馬県最大の映画館興行主であり、初代の野中倉吉(1852年-1912年)、2代目の野中康弘(野中三代吉、1882年-1938年)、3代目の野中恒雄(1912年-2002年)と続きました。野中倉吉は芝居小屋の柳座を経営する一方で、群馬県初の活動常設館も開館させています。昭和初期には野中康弘が群馬県内に勢力を拡大させ、戦後に野中恒雄が野中興業の経営者となると、1950年代後半から1960年代前半の映画黄金期には群馬県内で約20館の映画館を経営していました。

野中家の菩提寺前橋市紅雲町にある長昌寺です。初代の野中倉吉は「前橋で一番の貧乏寺を菩提寺にする」と宣言して寺を支援しており、長昌寺の公式ウェブサイトには野中家について記したページもあります。

参考:「野中家の人々」長昌寺

(写真)野中家墓所。初代の野中倉吉の墓石。

(写真)野中家墓所。2代目の野中康弘(野中三代吉)と3代目の野中恒雄の墓石。

 

3. 野中恒雄の経歴

3代目である野中恒雄の経歴をWikipedia風に紹介します。主な参考文献は『野中興業三十年の歩み』(山口秀夫 著、野中興業、1973年)です。

 

野中 恒雄(のなか つねお、1912年-2002年9月9日)は、群馬県前橋市出身の実業家。野中興業社長。

 

青年期

祖父は芝居小屋・活動写真館興行主の野中倉吉、父は「関東の興業王」と呼ばれた野中康弘。1912年(明治45年)、群馬県前橋市に生まれた。群馬県立前橋中学校(現・群馬県立前橋高等学校)を中退している。

 

野中興業の設立と戦後

1938年(昭和13年)1月23日には父の野中康弘が死去したため、恒雄が野中興行部の経営者となった。1943年(昭和18年)12月27日には野中興行株式会社を設立し、自身が社長に就任した。設立時には映画館として、前橋市に柳座と帝国館と第一大和と東宝映画劇場、高崎市に第二大和と帝国館、新田郡太田町(現・太田市)に太田映画劇場、北群馬郡渋川町(現・渋川市)に渋川劇場、多野郡藤岡町(現・藤岡市)に藤岡映画劇場を経営していた。

太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)8月5日、前橋空襲によって野中興行本社、前橋映画劇場、帝国館、第一大和が焼失した。戦後には相次いで映画館を建設し、1946年(昭和21年)1月1日には前橋東宝映画劇場、1947年(昭和22年)9月17日には前橋オリオン座、1948年(昭和23年)6月1日には前橋銀星座を開館させ、1951年(昭和26年)6月には桐生市の桐生東宝を買収した。

 

映画黄金期の動向

1955年(昭和30年)時点では群馬県に18館もの映画館を経営していた。同年3月には前橋東宝映画劇場の脇にあった社屋を取り壊して裏手に新築し、8月15日には跡地に前橋中央映画劇場を開館させた。1956年(昭和31年)8月15日には高崎オリオン座ビルを開館させた。ビルの中に2館の映画館を内包する積み重ね式立体劇場であり、秋田県で村山多七郎が同様の映画館ビルを建てていた。1957年(昭和32年)12月30日には高崎と同様の構造で前橋オリオン座ビルも開館させた。

1955年(昭和30年)には群馬交響楽団を題材として今井正が監督した『ここに泉あり』の製作に全面協力した。『ここに泉あり』は同年のキネマ旬報ベスト・テンの第5位となっている。群馬交響楽団室長の丸山勝広は、「『ここに泉あり』の製作に当たって、終始この仕事の大きな支柱となった人に、前橋の野中恒雄氏がいる。(中略)野中興行の協力は決して単なる利害関係からでは生まれてこないものだった。それは野中さんの人間性から生まれてきた、この仕事に対する純粋な共鳴からだったと私は信じている」と語っている。

1957年(昭和32年)4月10日には前橋東映と高崎東映で日本初のシネマスコープ作品である『鳳城の花嫁』を上映したが、シネマスコープ作品の上映を群馬県で初めて行ったのは野中興行である。同年7月10日には前橋東映を開館させた。1957年(昭和32年)末時点の野中興行は、前橋市で6館、高崎市で5館、桐生市で1館、伊勢崎市で4館、渋川市で2館の映画館を経営しており、群馬県の計94館のうち18館が野中興行の経営だった。日本の映画観客数がピークを迎えるのは1958年(昭和33年)、日本の映画館数がピークを迎えるのは1960年(昭和35年)のことである。

1961年(昭和36年)12月には前橋オリオン座に70mmフィルム上映設備を設置したが、北関東の映画館では初めてこの設備を設置したのが野中興行だった。1962年(昭和37年)6月には高崎オリオン座、1967年(昭和42年)3月には桐生オリオン座にも70mmフィルム上映設備を設置した。

 

野中興行から野中興業へ

1962年(昭和37年)3月8日、野中興行株式会社は野中興業株式会社に社名を変更した。映画興行だけではなく多角的な経営に乗り出すという意味を込めている。テレビの普及によって映画が斜陽化すると、野中興業は不動産部門に進出した。1961年(昭和36年)12月1日には前橋松竹跡地を前橋十字屋に貸し、1964年(昭和39年)3月19日には前橋ヒカリ座跡地を前橋長崎屋に貸し、同年5月23日には高崎銀星座跡地を高崎十字屋に貸し、同年11月18日には高崎日活国際跡地をおしゃれチャーミーに貸している。

恒雄の妹である山崎秀冠は調理師養成施設の前橋クッキングスクールを経営していたが、野中興業は前橋銀星座跡地に総合食堂ビルを建て、1962年(昭和37年)5月11日には山崎秀冠が経営するレストラン・ミヤマが開店した。

1973年(昭和48年)4月8日には恒雄の長女登志子と入内島一崇の結婚式がパレスホテルで行われたが、媒酌は内閣総理大臣田中角栄とその妻田中はなだった。

(写真)野中家墓所




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