
(写真)あさけプラザ。
2025年11月29日(土)、三重県四日市市で開催された「みんなで『あさけ』界隈を歩いてウィキペディアと世界地図に足跡を残そう!」に参加しました。
1. イベント概要
全国でウィキペディアタウンと呼ばれるイベントが開催されています。ウィキペディアタウンとは、参加者が現地調査を行って地域の歴史などについて学んだうえで、さらに文献調査を加えてWikipedia記事を執筆し、市民が主体となって情報発信を行うイベントです。参加者にとっては身近な地域を再発見する機会となり、図書館にとっては郷土資料を活用する機会となります。今回はOpenStreetMapを用いるマッピングパーティを同時に開催していますが、私はウィキペディア班に参加しました。
主催者はあさけプラザ運営協議会であり、全体のコーディネーターは福井県立大学地域経済研究所教授の青木和人さん、ウィキペディア班の講師はMiya.mさん、地図班の講師は坂ノ下勝幸さんでした。

(写真)まちあるきコース。

(写真)法従寺で住職の説明を聞く参加者。

(写真)長明寺を見学する参加者。
2. まちあるき
2.1 法従寺
法従寺は真宗本願寺派の寺院。本堂は明治中期に竣工した建物だそうで、耐震補強のための鉄骨をうまく隠した柱や梁となっています。ウェブ検索しても有意な言及を得るのが難しい寺院ですが、本堂の裏手には桑名宿旧大塚本陣を移築した書院があります。

(写真)法従寺本堂。
江戸時代に東海道桑名宿にあった大塚本陣は、1875年(明治8年)頃に岩間久八に売却されて料理旅館 船津屋となりましたが、明治時代にはさらに売却されて法従寺に移築されました。8畳の上段の間を中心にして多くの部屋があり、上段の間には蓮如上人の六字名号の掛軸が掛かっています。

(写真)法従寺書院。

(写真)法従寺書院の障子。
2.2 長明寺
この日のWikipedia編集の主な題材になったのは長明寺です。境内の三方を堀に囲まれている点が独特であり、いかにも城跡を思わせます。山門前には実際に「蒔田館(城)」という説明看板が立っており、ウェブ検索でもかつて長明寺の場所に蒔田城があったとするサイトが多数見つかりますが、実際には蒔田城が長明寺の地点にあったことを裏付ける資料はないようです。

(写真)長明寺。
長明寺の境内で最も古い建物は鐘楼であり、延宝年間(1673年-1680年)に建立されたとのことです。梵鐘は戦後の1948年(昭和23年)に鈴鹿市の平和之鐘(※会社名)によって再鋳されたもの。三重県の梵鐘鋳造地と言えば桑名市であり、大矢知地区は四日市市の中で最も桑名市に近い地区ですが、平和之鐘の梵鐘が複数見られるのが気になりました。

(写真)長明寺梵鐘。

(写真)長明寺梵鐘。
2.3 宝性寺
長明寺の隣接地には宝性寺があります。本堂の裳階屋根(重層の屋根)が珍しいと感じましたが、1977年(昭和52年)に四日市市指定文化財に指定された建物であり、文献で確認すると、寺院本堂としては四日市市で最も早く指定された建物のようです。
文献によると、かつては天台宗の寺院だったものの、現在は自治会が所有者である単立の寺院だという点も個性的です。さらに、円形の基盤を持つ石灯籠にも興味を持ちました。


(写真)宝性寺の石灯籠。
2.4 田村寺
東海道沿いにある真言宗の田村寺でも住職の話を聞きました。三重四国八十八箇所の第5番札所となっている寺です。愛知県も大師信仰が盛んであり、知多四国、四国直伝弘法、三河新四国という八十八箇所霊場がありますが、札所の大半は真言宗以外の寺院です。三重四国は札所全てが真言宗寺院とのことであり、高野山に近い三重県には真言宗の寺院が多いようです。
3. Wikipedia編集
3.1 文献
私も全国で開催されるウィキペディアタウンにおいてWikipediaの解説や編集時の参加者サポートなどを行うことがありますが、Wikipedia側の講師として最も重要なのは事前の題材選定だと考えています。その題材について言及している文献の量や、参加者が興味を惹かれる題材かどうかなどを踏まえて題材選定を行います。
今回はMiya.mさんや主催者らが題材選定を行い、主となる編集題材として「長明寺」を選定していたため、多くの参加者は役割分担して長明寺を新規作成する作業を行っていますが、私はまちあるき時に興味を惹かれた「宝性寺」の編集に取り組みました。長明寺を中心として文献が収集されていましたが、隣接地にある宝性寺にも言及している文献が多かったことで宝性寺の新規作成が可能となりました。
なお、「蒔田」という地名の読みも話題となりました。行政による正式な読みは「まきた」ですが、地元の方は「まいた」と呼びます。大矢知村が四日市市に編入される際に正式な読みが変わってしまったようです。Wikipediaに「蒔田 (四日市市)」という記事があり、「まきた」という読みが振られていますが、「この読みを『まいた』に変更できないだろうか」という要望がありました。講師のMiya.mさんが出典を元に「江戸時代の蒔田地区の呼び方は『まいたむら』であった」という一文を加える妥協案が採られています。

(写真)準備された文献。大矢知地区の郷土資料。


(写真)準備された文献。『四日市市史』や寺院名鑑など。
3.2 編集記事
長明寺 (四日市市) - Wikipedia(新規作成)
宝性寺 (四日市市) - Wikipedia(新規作成)
蒔田 (四日市市)(加筆)
運営側や参加者の中には大矢知歴史研究会の方が多数おり、文献の解釈などで多大なサポートを得られました。しかし、長明寺の歴史については前述したように文献内での言及とウェブ言及などにずれがあり、長明寺の新規作成に取り組んだ方はこの点でてこずったようです。

(写真)編集中の参加者。
3.3 Wikipedia「宝性寺」
私はひとりで「宝性寺」の作成に取り組みました。まずは四日市市公式サイトの「龍王山宝性寺」を閲覧して宝性寺の概要を把握しました。その後、『歴史のまち ふるさとおおやち』(大矢知歴史研究会、2008年)と『歴史のまち ふるさとおおやち昔ばなし』(大矢知歴史研究会、2011年)を閲覧して文章の核としています。この2冊の郷土資料はわかりやすい表現ながらも、宝性寺の沿革や建築面の特色が丁寧に書かれています。
その後、主に建築面を『三重の近世社寺建築』(三重県教育委員会、1985年)と『四日市市史 第4巻 史料編 文化財』(四日市市、1989年)で補強しました。三重県や四日市市の文化財担当者によって書かれた文献だけあって、宝性寺の建築上の特色が詳細に書かれています。
地域との関わりや他の寺院との関わりが気になっていたため、国立国会図書館デジタルコレクションで関連する文献がないか探した結果、『四日市のあゆみ 目でみる郷土史』からは信長の兵火によって焼失した四日市市域の寺院を、また四日市市域において文化財指定が早かった建築物を確認することができたため、それぞれ記事に反映させています。

(写真)編集中の参加者。