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石碑「都築春吉君頌徳碑」を訪れる

(写真)石碑「都築春吉君頌徳碑」。

愛知県岡崎市能見町の永泉寺(永泉禅寺)の参道入口脇には石碑「都築春吉君頌徳碑」があります。

 

1. 石碑「都築春吉君頌徳碑」

1.1 建立の背景

岡崎城公園から伊賀川を挟んで西側の板屋町には板屋町遊廓がありましたが、1923年(大正12年)には岡崎市街地東側の中町(現・中町7丁目)に移転して東遊廓が誕生しました。この移転によって板屋町は存亡の危機に瀕しますが、都築春吉が奔走して板屋町は救われたようであり、板屋町は龍城連という花柳街として存続しています。1939年(昭和14年)12月、板屋町の芸妓置屋業組合と料理屋業組合によって石碑が建立されました。

なお、板屋町遊廓が東遊廓に移転した背景については、野崎晃佑さんが『東海遊離史研究2』(東海遊離史研究会、2022年)に論考を著しています。都築春吉の名前は登場しませんが、都築が興した訴訟やその顛末について、当時の『名古屋新聞』記事などを用いた丹念な調査がなされています。

 

1.2 裏面の碑文

都築春吉君頌徳碑

愛知県知事 田中広太郎書

君は明治十五年二月九日板屋町に生る資性闊達任侠に富む実践窮行の士なり大正八年四月板屋町に貸座敷業廃止移転の県令下り全町自滅の危機迫る町民等しく呆然自失為す所を知らす君之を黙視するに忍ひす町の救済を念願し蹶然立って遂に行政訴訟を起す時に君三十八歳なり翌九年二月君の勝訴となるも尚主旨貫徹せさるを以て再ひ訴を起すと共に百方陳情歎願死力を尽す上庁亦君の誠意に動かされ翌十年五月板屋町更生の道として芸妓置屋料理屋営業許可の内命来る依って初代手島鍬司氏の助力を仰き資本金五十万円の東遊廓土地株式会社を創立し其の専務取締役となりて壱年間に之か竣工を遂け此□に貸座敷業を移転し大正十二年四月板屋町は芸妓置屋料理屋業営業の正式許可を受けて全町は茲に救済されたり 想ふ可し君か苦艱苦衷は時に重患中を奮起して東西に馳駆し或は難関に逢着して悲壮の覚悟を定めし事ありしを此の間実に五年私財を散する事数万尚且つ万余の借財を生し全く窮乏に陥り二代目近藤重三郎氏の知遇を享けて漸く更生したるか如き全く死闘血涙の悲史なりき 更に君は全町の輿望を擔ひ市会議員に選ばるる事二□在職中岩附定五郎市川金次郎両氏と共に全町に岡崎土地株式会社を創立して水魔を除き又名鉄西岡崎駅の設置□は明神橋の架設等全町の興隆に尽瘁せられたる其の功績実に大なり嗚呼君か累年の積徳の広大なる町民君か成業を忍ひて止ます茲に町議により頌徳碑を建設するものなり

昭和十四年十二月 板屋町 芸妓置屋業組合 料理屋業組合 建立

 

1.2 読解

1882年(明治15年)2月9日、岡崎町板屋町に都築春吉が生まれた。1919年(大正8年)4月、板屋町に対して貸座敷業を廃止して移転を命じる愛知県令が下り、板屋町は存亡の危機に直面したが、都築は愛知県に対して行政訴訟を起こし、1920年大正9年)2月には勝訴した。さらに陳情や請願を繰り返すと、1921年(大正10年)5月には板屋町に対して行政当局から芸妓置屋や料理屋の営業許可が内示された。

都築は初代手島鍬司の協力を受け、資本金50万円で東遊廓土地株式会社を設立すると、わずか1年で貸座敷業の移転を実現した。1923年(大正12年)4月、板屋町は正式に芸妓置屋・料理屋の営業許可を受けた。この間に都築は数万円の私財を投じ、1万円を超える借金を抱えている。

都築は2期に渡って岡崎市会議員を務めると、岩附定五郎や市川金次郎らとともに岡崎土地株式会社を設立して水害対策に尽力した。名鉄西岡崎駅の設置、明神橋の架橋などへの功績も大きい。板屋町の総意によって頌徳碑を建立する。

(写真)石碑「都築春吉君頌徳碑」。

 




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