
(写真)中川梵鐘の中川正知が鋳造した聖洞寺梵鐘。
2025年(令和7年)11月、三重県桑名市を訪れました。桑名市は歴史的に「鋳物の街」として知られ、梵鐘を鋳造する製造者としても鍋吉鋳造所や中川梵鐘(中川鋳造所)などがありました。
1. 鍋吉鋳造所
1.1 伊藤家の歴史
1882年(明治15年)頃、桑名郡野代(現・桑名市多度町)出身の伊藤吉蔵が銑鋳物の鋳物業を始めた。吉蔵の子の伊藤桂次郎、桂次郎の子の伊藤軍市郎が鍋吉鋳造所を継いだ。当初の銑鋳物から銅合金に変わり、軍市郎は中川祐次と共に梵鐘の鋳造者として知られる。1974年(昭和49年)には軍市郎が死去し、甥の伊藤宣司が跡を継いだ。出典:『桑名の鋳物』三重県鋳物工業協同組合、1978年、pp.70-71
多度町野代出身の伊藤家の始祖は伊藤吉蔵である。吉蔵の妻は中川弥助の娘であり、伊藤家と中川家は親戚関係にある。伊藤工場は中川工場の向かいにある。伊藤家の屋号は鍋吉梵鐘鋳造所であり、大正時代に創業した。桑名市における梵鐘の鋳物師は、辻内系統、広瀬系統、中川系統、伊藤系統の4系統である。出典:福本桂太良『寺院と鋳物 第1集 桑名市の鐘』福本桂太良、1978年、p.18。
これまで鍋吉という屋号の読みが分からなかったのですが、西鍋屋町にある明圓寺の方は(ナベヨシではなく)「ナベキチ」と発音されました。上記の出典から判断すると「鍋屋の伊藤吉蔵」という意味で、吉蔵はヨシゾウではなくキチゾウと読む可能性が高いと思われます。
なお、明圓寺の本堂前には袋にくるまれた梵鐘が置かれており、かつては現在の駐車場の場所に鐘楼が建っていたそうです。また、鍋吉鋳造所や中川梵鐘がある東矢田町には教覚寺がありますが、かつて鐘楼が建っていたと思われる石造の台座のみが残っています。


(左)明圓寺の梵鐘。(右)教覚寺の鐘楼台座。
太平洋戦争中には金属類回収令を根拠に梵鐘が供出されたため、現在の寺院で見られる梵鐘の95%は戦後に鋳造されたものです。鍋吉鋳造所による梵鐘には「伊藤軍市郎」と陽鋳されています。上記出典では後継者として伊藤宣司の名が見えますが、この方の名を陽鋳した梵鐘は見たことがありません。



(写真)真教寺梵鐘。
2. 中川梵鐘
2.1 中川家の歴史
安政4年(1857年)、中川弥助が三河国から伊勢国桑名に移り、広瀬与左衛門の番頭を務めた。弥助の子の中川弥十郎も広瀬家に仕えていたが、1871年(明治4年)に独立して鋳物業を創業した。創業時から銅合金の鋳物を扱っている。弥十郎の子の中川富三は梵鐘で知られ、名古屋・覚王山日泰寺の大梵鐘を鋳造したが、この梵鐘は太平洋戦争中に破壊された。1955年(昭和30年)、富三の子の郡之助は鋳物業を再興した。出典:『桑名の鋳物』三重県鋳物工業協同組合、1978年、p.70、p.75
中川弥十郎の子、中川富三の弟として中川利三郎がいる。利三郎は1906年(明治39年)に鋳物業を開始し、本家と同じ製品(梵鐘)を作れないため鍋釜や機械部品などを製造していたが、後に梵鐘の鋳造を手掛けるようになった。覚王山日泰寺の大梵鐘は富三と利三郎の兄弟の共作である。利三郎の子の中川祐次は梵鐘で名を上げた人物である。鋳金の権威である東京藝術大学教授の香取秀真に師事し、梵鐘研究家の坪井良平、考古学者の伊東富太郎などとも親交があった。祐次の代表作としては、名古屋市の覚王山日泰寺、新城市の鳳来寺、横浜市の總持寺、福井県の永平寺の梵鐘などがある。出典:『桑名の鋳物』三重県鋳物工業協同組合、1978年、pp.75-76
中川家の始祖は中川弥助であり、弥助は三河国松ノ木から桑名に入って広瀬家に仕えた。1871年(明治4年)に創業し、3代目の時に中川梵鐘鋳造所と中川鋳造所に分立した。1978年(昭和53年)現在、中川鋳造所のほうは機械鋳物の銅合金鋳物工場となっている。中川家の代表作として、中川富三による覚王山日泰寺の梵鐘(1924年)があるが、この鐘は一度も撞かれることなく戦時中に供出された。曹洞宗大本山である福井県の永平寺梵鐘は中川祐次の作である。出典:福本桂太良『寺院と鋳物 第1集 桑名市の鐘』福本桂太良、1978年、p.18。
中川梵鐘の梵鐘の例:善西寺(桑名市西矢田町)
中川梵鐘による梵鐘には、鋳物師として「中川祐次」と陽鋳されたものと、祐次の子である「中川正知」と陽鋳されたものの2種類があります。



なお、中川梵鐘と鍋吉鋳造所はいずれも旧東海道に面した東矢田町にありました。中川梵鐘の主屋は近年まで現存しており、店先には梵鐘が展示されていましたが、この建物は2022年(令和4年)10月以後2024年(令和6年)12月以前に解体されたようです。

(写真)中川梵鐘。2013年4月のGoogleストリートビュー。

(写真)中川梵鐘店と鍋吉鋳造所が描かれた1990年の住宅地図。

(写真)現在の中川梵鐘跡地。
2.2 中川祐次の経歴
1906年(明治39年)9月9日、桑名市矢田町1073番地に長男として生まれた。幼名は利雄。父は中川利三郎、母はテイ。1922年(大正11年)に高等小学校を卒業すると、16歳の時に父親の下で青銅鋳物の見習いに入った。1924年(大正13年)、利三郎、中川勝次郎、中川富三の三兄弟が覚王山日泰寺の大梵鐘を鋳造し、利雄もこの仕事に参加した。21歳の時には徴兵検査で第二乙種となった。
1932年(昭和7年)、三重県土木部から請け負って伊勢大橋高欄青銅金具及び橋銘板を鋳造した。1939年(昭和14年)8月30日には父の利三郎が死去し、この頃に利雄から中川祐次に改名した。1941年(昭和16年)、胴径2尺8寸、重量80貫の多度大社の大茶釜を鋳造した。1943年(昭和18年)3月には覚王山日泰寺の大梵鐘が供出されることになったため、最後の鐘を撞きに覚王山日泰寺を訪れ、考古学者の伊東富太郎と共に供出先の石原産業を見学した。1944年(昭和19年)9月、名古屋陸軍造兵廠鷹来分工場に徴用された。1950年(昭和25年)8月、NHKの訪問に合わせて、飯南郡飯高町の泰運寺の八角梵鐘の解説を行った。1979年(昭和54年)5月31日に死去した。出典:金森稔子『みちくさの記』金森稔子、出版年不明。
2.3 中川祐次の主要な作品
1947年2月 南楽寺梵鐘(桑名市下深谷部) - 鋳造の際に帝室技芸員の香取秀真が立ち会う。
1947年4月 顕正寺梵鐘(四日市市西日野町) - 香取秀真の設計。東京藝術大学教授の内藤春治が助工を務める。
1950年 養元寺梵鐘(鈴鹿市池田町) - 原画は日本画家の川端龍子。
1950年3月 専明寺梵鐘(岐阜県養老郡養老町) - 梵鐘研究者の坪井良平の設計。
1950年7月 仏教寺梵鐘(鈴鹿市若松西) - 梵鐘研究者の坪井良平の設計。
1950年8月 八王寺大鉦盤(四日市市) - 口径3尺5寸。(※四日市市に八王寺という寺院は存在しない。正確な寺名は不詳。)
1950年 隆国寺梵鐘(兵庫県豊岡市日高町) - 口径3尺3寸。東京藝術大学教授の内藤春治の設計。
出典:金森稔子『みちくさの記』金森稔子、出版年不明。
3. 桑名市の鋳物
桑名市立中央図書館には郷土資料室「歴史の蔵」があります。入室には申請書に記入する必要があり、オートロック方式で閉架書庫に近い性格なのも難点ですが、「桑名の鋳物」など様々な見出しで郷土資料が並べられています。
郷土雑誌『すばらしきみえ』2019年6月号には「鋳物の街・桑名めぐり」という記事が掲載されています。桑名別院本統寺の親鸞聖人銅像、仏眼院の喚鐘や梵鐘、桑名宗社の青銅鳥居、九華公園の本多忠勝像、桑名市民会館の鋳造報国碑 などが紹介されています。

(写真)「鋳物の街・桑名めぐり」『すばらしきみえ』2019年6月号。

(写真)桑名市立中央図書館郷土資料室「歴史の蔵」における「桑名の鋳物」見出し。