
(写真)ウィキタウン・カード。
2025年(令和7年)10月18日(土)、京都府京丹後市で開催された「ウィキペディアにゃウン vol.8② 文化財×Wikipedia」に参加しました。
1. イベント概要
主催は京丹後市周辺の丹後地方で活動する地域団体の「edit Tango」(エディット丹後)。公共図書館などが所蔵する地域資料の情報をWikipediaに書き込み、価値のある地域情報を地域外の方や後世に伝えていこうという趣旨で活動しています。
こまねこまつり内の人気企画である「てくてく我がまち再発見 こまねこウォーク」に合わせて開催されました。「ウィキペディアにゃウン vol.8②」の参加者と、「こまねこウォーク」の一般参加者が一緒に歩き、「ウィキペディアにゃウン vol.8②」の参加者のみは午後に別会場でWikipedia編集を行いました。9月21日に開催された「ウィキペディアにゃウンvol.8① 丹後の自慢をインターネットで世界に発信!」と対になっています。
2. まちあるき
2.1 仲禅寺集落
「こまねこウォーク」では毎年、福知山公立大学地域経営学部小山ゼミの学生が解説役を務めています。
学生にとっては、ゼミや図書館ではない現地を学びの場とすることで地域に対する理解を深めることになるし、参加者にとっても、学生の柔軟な発想に触れたり、地域に大学があることの意義について考えるきっかけとなります。小山元孝先生は長年にわたって神社や寺院の文化財調査に携わっており、小山先生自身が「edit Tango」のメンバーでもあります。

(写真)仲禅寺集落の仁王尊堂で説明を聞く参加者。
仲禅寺集落の中央部には、道路を半分ふさぐような形で仁王尊堂が建っています。仁王尊堂に安置されている仁王尊像(金剛力士像)は一対の阿形・吽形からなり、左の吽形は室町時代後期の文明13年(1481年)造立、右の阿形は江戸時代中期の宝暦3年(1753年)の再造立とされています。
いずれも京丹後市指定文化財に指定されていますが、説明を受けなければ文化財指定されている彫刻がこのような場所にあるとは思いもよりません。なお、仁王尊堂自体は1978年(昭和53年)に復元されたものであり、現代においてもこの仁王尊像が集落の住民によって丁寧に保護されていることが分かります。


(写真)仁王尊堂の仁王尊像。
仲禅寺集落の入口の道路脇には石碑「嗚呼大震碑」が建っています。1927年(昭和2年)3月7日に発生した北丹後地震において、仲禅寺は隣接する島津などとともに甚大な被害を受けた集落の一つであり、総戸数30戸のうち実に29戸が倒壊しています。
地震からちょうど1年後の1928年(昭和2年)3月7日にこの石碑が建立されていますが、北丹後地震関連の記念碑の中では最も早く建立されたものだそうです。倒壊比率は高かったものの、他の集落と比べて焼失比率が低かったことで、仲禅寺集落の復興は比較的早かったのかもしれません。
2019年(令和元年)、国土地理院は自然災害伝承碑という地図記号を新たに制定しました。現在の地形図にはこの石碑の地点にも自然災害伝承碑の記号が記されています。目に見えにくい過去の自然災害を地図上で可視化することで、災害の記録を社会全体で共有することを目的とする試みです。それでもやはり、「嗚呼大震碑」は日常で見落としてしまいがちな石碑であるため、今回のように能動的に地域の歴史を学ぶ機会ではこのような史跡に注目するようにしています。

(写真)石碑「嗚呼大震碑」。
2.2 縁城寺(橋木集落)
edit Tangoのメンバーがイベントで縁城寺を訪れるのは今回が二度目です。2023年(令和5年)7月、edit Tangoは縁城寺を題材としたマッピングパーティを行い、Wikipediaの地図版とも呼ばれるOpenStreetMapに縁城寺周辺の建物や地物などを描きました。縁城寺には本堂などの建物に加えて、宝篋印塔など様々な石造物もありますが、これらを一つ一つデジタル地図上に描き込むことで、地域資源を可視化してより多くの人々に伝えるという点で大きな意味があります。
縁城寺は平安時代に空海(弘法大師)が開いた真言宗の寺院です。真言宗寺院は近畿地方や四国以外には少なく、愛知県民である私にもなじみがない宗派ですが、縁城寺は丹後地方において有数の歴史や格式を有する寺院です。秘仏の本尊は重要文化財に指定されており、2024年(令和6年)に開創された霊場巡礼「奥京都国宝(重文)十箇寺巡り」にも参加しています。
縁城寺では、今村隆惠住職から本尊の由緒や特徴を聞き、さらに御朱印が持つ宗教的意味についても聞きました。私は御朱印巡りをしたことがありませんが、御朱印が寺院と参拝者を繋ぐ重要な媒介であることを理解するための貴重な機会となりました。

(写真)縁城寺の住職から秘仏の説明を聞く参加者。

(写真)縁城寺。
本堂の壁面には漆喰壁と板壁が同居していますが、板壁部分には墨で書かれた落書きが多数見られ、どうやら明治時代から昭和初期の落書きのようです。丹後地方の各地の地名が確認できるほか、「丹波国多紀郡篠山」(現・兵庫県丹波篠山市)などという地名も確認でき、縁城寺が丹後地方以外からも参拝者を集めていたことがうかがえます。
神社や寺院の建造物には、参拝者が訪れた証として「千社札」が貼られている場合があります。縁城寺の本堂に千社札は見られず、墨で書かれた住所、氏名、参拝年月日などのみが残されています。現代の価値観において、寺社に文字を記す行為は落書きとみなされるものですが、これら近代以前の歴史ある落書きは、縁城寺の信仰圏の広がり(崇敬者の分布)を明らかにするための貴重な史料になりそうです。


(写真)縁城寺本堂に書かれた明治時代頃の落書き。(左)「丹波国多紀郡篠山南新町」(現・兵庫県丹波篠山市)という地名、「(明治)丗八年三月廿日」という参拝日がみられる。(右)「与謝郡石川村」や「丹後岩滝」(いずれも現・与謝郡与謝野町)という地名がみられる。
本堂正面の香炉や、本堂に続く参道の玉垣には「吉村伊助」という名前が刻まれていました。吉村伊助は峰山市街地にある吉村商店の当主の名跡であり、なかでも4代目吉村伊助(1873年~1928年)は商人としての活動にとどまらず、峰山町長や衆議院議員を務めた人物としても知られています。
伊助の名前が寄進者の筆頭に刻まれていることは、吉村家が当時のこの地域の経済・社会の中心にいたことを物語っています。また、吉村家の菩提寺が縁城寺であることも強く推測できます。一般的に、菩提寺を明確に示す文献資料は乏しく、このような石造物の銘文は貴重な手がかりといえます。
2024年(令和6年)10月の同一イベント(ウィキペディアにゃウン vol.7 ものづくりの丹後)では吉村伊助 - Wikipediaも編集題材となりました。edit Tangoは丹後地方という特定地域を対象としていることで、各回のイベントが独立したものとして終わるのではなく、相互に関連しながら地域の知を積み重ねていっていると感じます。


(左)吉村伊助の名前がみられる香炉。(右)吉村伊助の名前がみられる玉垣。

(写真)きくのやの天丼。
3. Wikipedia編集
峰山駅前のきくのやで天丼を食べた後、金刀比羅神社の金刀比羅会館に移動し、Wikipediaの編集活動に取り組みました。今回の編集題材としては、集落としての「仲禅寺」、寺院としての「縁城寺」などが選ばれており、参加者は事前に収集された文献を活用して編集を行っています。
また、今回の参加者の中には、自身が居住する地域の記事を編集したいという方がいたため、この方には自身の記事に取り組んでもらいました。edit Tangoのイベントでは丹後地方の題材を扱いますが、イベントを通じて編集活動が他地域に広がっていくことも歓迎されており、このような展開自体が今回のイベントが開催された価値を物語るものです。

(写真)準備された文献。『京丹後市史』などの書籍、新聞スクラップブック。


(写真)準備された文献。地元情報誌『もりもり』。角川日本地名大辞典。
編集記事
今回のイベントでは仲禅寺 - Wikipediaという大字の記事が新規作成されました。この記事はWikipedia日本語版内の推薦と選考を経て、10月21日にWikipedia日本語版のメインページに掲載されました。
Wikipedia日本語版には一日あたり約100記事が新規作成されますが、この中から特に内容が充実していたり、出典が丁寧に付けられているなどする記事が選考され、一日あたり3~5記事がメインページに掲載されます。
一日あたり50万ビューのアクセス数があるメインページに掲載されることで、新規作成した題材を多くの方に知ってもらえるきっかけとなる上に、誤字脱字や表現の修正などを行ってもらえる可能性も高まります。自身の書いた記事が不特定多数の第三者に読まれるという経験をすることで、より質の高い記事を作成しようという動機にもなります。

(写真)ウィキタウン・カード。