
(写真)2013年の百々貯木場。photo:Tomio344456
2024年(令和6年)5月、愛知県豊田市百々町(どうどちょう)にある「百々貯木場」を訪れました。
1年後の2025年(令和7年)5月には国の文化審議会において重要文化財として答申され、文化財指定名称が「旧今井貯木場施設」に変更されています。
1. 旧今井貯木場施設(百々貯木場)
1.1 貯木場を訪れる
百々貯木場は矢作川の中流域左岸に位置する施設であり、完成から100年以上経った現在も貯水池、樋門、堰堤などが現存しています。
河川の(下流ではなく)中流域にある貯木場は希少であり、近年には近代化遺産としても認知されるようになりました。1988年(昭和63年)に往時の姿に復元されると、1997年(平成9年)には豊田市指定文化財に指定されました。2002年(平成14年)に豊田市郷土資料館で開催された特別展「川をめぐるくらし」では百々貯木場も紹介されています。この2025年(令和7年)5月には重要文化財の指定が決定しました。
貯木池を囲む石積擁壁から突堤に下りることもできます。それぞれの突堤は木道で結ばれており、貯木池の中を比較的自由に歩き回ることができます。夏季には貯木池内に草が生い茂るため、秋季から4月までの期間に訪れるのをお勧めします。

(写真)貯水池や突堤。

(写真)貯水池や石積擁壁。
貯木池と矢作川をつないでいるのは1基の樋門のみです。貯木池側から矢作川の川面が見えますが、貯木場が現役だったころと比べるとだいぶ水位が低いように思われます。

(写真)樋門から見える矢作川の川面。
貯木池の南側には製板場基礎の遺構があります。土木技師の服部長七が考案した人造石工法は水域での強度が高いという特徴を有しており、貯木池や製材所の石積擁壁は人造石工法で造成されています。なお、2024年(令和6年)には人造石 - Wikipediaと服部長七 - Wikipediaを加筆しました。

(写真)製板場基礎。

(写真)製板場基礎。


1.2 貯木場の歴史
矢作川は江戸時代から河川舟運に用いられました。河岸には多数の土場(船着き場)が造られ、年貢や木材を川船または筏流しで河口まで運んだあと、川船から廻船に積み替えられて江戸などに運ばれました。逆方向では吉良や蒲郡などで生産される塩が川船で土場まで運ばれ、中馬に積み替えられて飯田街道で長野県に運ばれています。
材木商の今井善六は「百善」(どうぜん)という屋号で百々の土場を取り仕切っており、1918年(大正7年)7月に百々貯木場を完成させました。最盛期は1926年(大正15年)頃とのことです。昭和初期には鉄道や陸上交通が発達し、また上流部に越戸ダムが建設されて貯木場の運用が難しくなったことで、1930年(昭和5年)にはもう役目を終えています。

(写真)往時の貯木場。豊田市郷土資料館『特別展 川をめぐるくらし』豊田市教育委員会、2002年。

(写真)矢作川から見た貯木場。豊田市郷土資料館『特別展 川をめぐるくらし』豊田市教育委員会、2002年。

(写真)貯木場の平面図。豊田市郷土資料館『特別展 川をめぐるくらし』豊田市教育委員会、2002年。
1.3 今井善六家
今井善六家の当主は代々今井善六を名乗りました。百々貯木場を造ったのは安政元年(1854年)生の今井善六です。戦後の同名の当主は豊田市教育長を務めています。なお、明治期に衆議院議員を務めた百々町出身の人物として今井磯一郎もいます。

(写真)貯木場を造った今井善六。『豊田市史 人物編』豊田市、1987年。
百々貯木場のすぐ南側には百々町の集落があり、ひときわ目立つ建物として煉瓦壁のある今善測量(今井善六家)があります。『高橋村誌』によると昭和初期の百々町では2度の大火があったとのことで、今善測量の敷地南西角にある煉瓦壁は大火以降のものでしょうか。

(写真)今善測量。


(写真)今善測量。
集落内にある南無観世音菩薩には、今井善六家の商号「百善」や今井善六家の家紋である矢筈紋が刻まれた軒丸瓦などがありました。

(写真)今善測量。