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光劇場を訪れる

(写真)光劇場の館内。映像で北木石の歴史を紹介。

2025年(令和7年)3月、岡山県笠岡市笠岡諸島にある北木島を訪れました。「北木島を訪れる(1)」「北木島を訪れる(2)」からの続きです。

 

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1. 光劇場

1.1 光劇場の歴史

笠岡市は光劇場の開館時期を昭和20年代末であるとし、閉館年を1967年頃としています。『映画便覧』に初めて掲載されるのは1959年版であり、1965年版まで毎年掲載されています。『笠岡シネマ風土記』は光劇場の廃業時期を1960年代前半と推測しています。開館年、閉館年ともに数年の揺れがありますが、1950年代後半に開館して1960年代中頃に閉館したという点では一致しています。

経営者は赤瀬光であり、『映画便覧』によると木造2階建で定員300の映画館でした。光劇場という名称は経営者の名前に由来しています。赤瀬氏は笠岡市本土に転居しているようですが、県道側の敷地入口には赤瀬と刻まれた門柱が残っています。

 

1.2 見学施設「光劇場」

2014年(平成26年)に北木島で行われた「北木ノースデザインプロジェクト」の際、プロジェクト参加者によって光劇場が "発見" されました。2015年(平成27年)には光劇場友の会が結成されて見学施設となり、プロジェクトで製作された北木島の歴史を紹介する映像が上映されています。

2019年(令和元年)には日本遺産「日本の礎を築いた せとうち備讃諸島」の構成文化財となり、2021年(令和3年)には産業遺産学会によって推薦産業遺産に認定されました。なお、建物は笠岡市の所有物ではなく、2025年(令和7年)現在は所有者から売りに出されているといいます。

2024年(令和6年)12月にムサシノ工務店が刊行した『昭和街道 6 まちと映画館』の表紙には光劇場の館内の写真が用いられています。私はAmazonのネット通販で購入しましたが、光劇場友の会も既にこの冊子を入手済みであり、光劇場が掲載されていることを喜んでいました。

(写真)見学施設の入口。(右)光劇場の館内が表紙に用いられた『昭和街道 6 まちと映画館』ムサシノ工務店、2024年。光劇場友の会の所蔵物。

(写真)ホールの入口。

(写真)次週上映案内。

 

1.2 ホール内

光劇場のホール床面はコンクリートであり、座席は1人掛けの木製椅子です。昭和30年代の映画館では一般的なスタイルであり、福島県本宮市の本宮映画劇場(1963年閉館)なども同様の状態ですが、このような映画館に入れる機会は貴重です。

最前部右側には長椅子が置かれており、開館時は全座席が1人掛け椅子ではなく長椅子だったと思われます。

(写真)座席。1人掛け椅子。

(左)開館時のものと思われる長椅子。(右)1人掛け椅子。

 

客席最前部には階段5段分の高さの舞台がありますが、芝居の興行ができる広さではありません。ホール左手(東側)には旧道まで続く通路があります。

(写真)舞台とスクリーン。

(左)ホール側部の通路。(右)舞台右側にある次週上映案内。

(写真)天井部分。

 

1.3 映写室

ホール手前(北側)には映写室があり、2台のカーボン式映写機が設置されています。ロゴマークには「Orion」(オリオン)と書かれていますが、

(写真)映写室。

(写真)2台の映写機と映写窓。

(左・右)2台の映写機。

(左)映写機。(右)展示物。

 

2. 北木島の映画館

2.1 光劇場(金風呂、1950年代前半-1967年頃)

見学施設である光劇場に岡山県道295号沿いに入口がありますが、附属屋の内部を通って光劇場に入る経路で案内されます。この経路では手前側に映写室があり、奥側にスクリーンがあるのですが、いささか奇妙にも感じます。建物は旧道に接していることから、かつては旧道側に入口があったはずです。

(写真)光劇場の建物。旧道側。

 

2.2 OK劇場(金風呂、1950年代末-1963年頃)

『映画便覧』に掲載されている北木島の映画館は光劇場のみですが、『笠岡シネマ風土記』によると、1950年代末から1960年代前半の『山陽年鑑』には港劇場→OK劇場という映画館が掲載されているようです。光劇場とOK劇場はいずれも金風呂集落にありました。

『笠岡シネマ風土記』によると当初の経営者は畦坪かねであり、その後畦坪かねの息子の奥野健一郎が経営者となりました。OK劇場という名称は奥野氏のイニシャルとのことです。

(写真)OK劇場の建物。

 

OK劇場の建物は光劇場の80m東に現存しています。ウィキペディアタウンin日本遺産北木島でコーディネーターを務めた守屋基範さん(現笠岡市議会議員、元笠岡市役所職員)とともに笠岡奥憲荘を訪れ、奥野氏に話を聞くことができました。

光劇場では日活作品を上映していたようですが、OK劇場は「東宝などの儲からない映画をやっていた」とのことです。なお、日活は1956年(昭和31年)の石原裕次郎らの登場とともに爆発的な人気を得た会社です。1955年(昭和30年)に開館したある映画館で話を聞いた際には、「この町で後発の映画館だったから、不人気だった日活の上映権しか取れなかった」と聞いたことがあります。

『笠岡シネマ風土記』には1963年(昭和38年)頃の閉館とあります。経営者の奥野氏に聞いても閉館時期は判然としませんでしたが、1965年(昭和40年)に奥憲商店(※奥健ではない)を開設したそうです。その後、現在は笠岡奥憲荘という豆柴(柴犬)のブリーダーとなっています。

なお、戦争末期の1945年(昭和20年)8月8日に福山空襲が行われた際、米軍の爆撃機B-29が金風呂集落に焼夷弾を落として帰還しており、北木島笠岡市域唯一の犠牲者を出しています。奥野氏からはその後の占領下で「進駐軍のヘリが北木島に落ちた際に助けた」と聞きました。北木島にこれだけ戦争の影響があるというのが驚きでした。

(写真)OK劇場の経営者だった奥野社長。笠岡奥憲荘にて。

 

OK劇場入口が面している旧道にはいくつもの商店跡などがあり、往時の面影が感じられます。

(写真)OK劇場の建物。西側。

(写真)OK劇場の建物。裏側。

(写真)OK劇場や光劇場が面していた通り。

 

2.3 大福座(大浦、1955年頃-1963年頃)

北木島の東岸は北岸と比べて遠浅で海水浴場もあり、かつては倉敷市広島県福山市広島県府中市などから臨海学校などで海水浴客が訪れていたようです。

『笠岡シネマ風土記』によると、『笠岡商工名鑑』には大浦集落の映画館として大福座があったようです。『笠岡シネマ風土記』によると、大浦集落の海岸沿いにある民宿多喜の2階大広間で、1955年(昭和30年)頃から1963年(昭和38年)頃にかけて、河田桃太郎という人物が映画興行を手掛けていたとのことです。なお、大福座もOK劇場と同様に『映画便覧』には掲載されていません。

(写真)2階大広間で映画興行(大福座)が行われていた民宿多喜。




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