
(写真)港座跡地の一部にある大須演芸場。
2025年(令和7年)1月、愛知県名古屋市大須を訪れました。
かつて大須は名古屋屈指の興行街として知られ、戦前から戦後にかけて多数の映画館がありました。「戦前の大須の映画館」(※ブログ4記事)からの続きです。「戦後の大須の映画館(新天地通周辺)」「戦後の大須の映画館(本町通周辺)」に続きます。
1. 大須観音周辺
1.1 大須東映(1908年1月25日-1961年12月11日)
所在地 : 愛知県名古屋市中区門前町4-52(1962年)
開館年 : 1908年1月25日、1952年11月(建て替え)
閉館年 : 1961年12月11日
跡地は居酒屋「串カツ田中大須観音店」などが入る商業ビル「大須仁王門フロント」。
1908年(明治41年)1月25日に名古屋初の活動常設館として開館した文明館は、大須の他館同様に1945年(昭和20年)3月19日の名古屋大空襲で焼失しますが、1952年(昭和27年)11月には鉄筋造で再建され、1955年(昭和30年)頃には大須東映に改称しました。

(写真)文明館。『大須開学100年記念誌』名古屋市立大須小学校、1972年。

1961年(昭和36年)12月11日、大須東映は自館から出火した火災で全焼しました。東映作品『権九郎旅日記』、ニュー東映作品『乾杯!ごきげん野郎』の二本立を上映中であり、「観客は約三十人いた」とのことですが、映画人気は1950年代末に峠を越しているとはいえ、驚くほど観客が少なく感じます。出火は人気の多い午後5時58分頃であり、15台もの消防車が出動したこともあって、「約千人のヤジ馬がとりまき一時大混雑した」と報じられています。


(写真)「『大須東映』を全焼 宵の盛り場で大騒ぎ」『中部日本新聞』1961年12月12日。
大須東映が火災後に再建されることはなく、跡地にはスーパー大須が建ちました。2017年(平成29年)には跡地に商業ビルの大須仁王門フロントが建ち、路面店には串カツ田中大須観音店が入っています。

(写真)文明館跡地の大須仁王門フロント。
1.2 港座(1914年-1965年頃)
所在地 : 愛知県名古屋市中区門前町4-8(1965年)
開館年 : 1914年(芝居小屋)、1920年9月20日(映画館化)、1957年(再映画館化)
閉館年 : 1965年頃
跡地は「大須演芸場」と「KOMEHYO名古屋本店きもの館」。
港座は1914年(大正3年)に芝居小屋として開館し、1920年(大正9年)に映画館に転向し、1929年(昭和4年)に建て替えを行った劇場です。
1945年(昭和20年)3月19日の名古屋大空襲では大須の多くの映画館が焼失していますが、港座は大須映画劇場とともに焼失を免れた数少ない映画館です。戦後にはストリップ興行などを行う小屋となり、1957年(昭和32年)に映画館に再転向しますが、二流の映画館だったようです。1960年(昭和35年)の住宅地図を見ると、大須観音通から北側の通りまですべてが港座の敷地だったことが分かります。

(写真)名画座、港座、大須東宝映画館が描かれている1960年の住宅地図。

(写真)1946年頃の港座。『占領期の名古屋』風媒社、2020年。

(写真)尼寺を題材としたストリップ興行で抗議を受けている1954年3月の港座。『キネマと白球』風媒社、2022年。

(写真)1969年の大須演芸場。『戦後名古屋サブカルチャー史』風媒舎、2023年。
1961年(昭和36年)には裏手にストリップ劇場の港ミュージックが建てられ、1965年(昭和40年)10月1日には改装されて寄席の大須演芸場が開場しました。1965年(昭和40年)頃には大須通に面した本体の映画館が閉館し、1966年(昭和41年)11月には本体部分の跡地に愛知県中小企業福祉会館が建ちました。
愛知県中小企業福祉会館の1階にはKOMEHYO名古屋本店きもの館が入っていましたが、2020年(令和2年)以後に建て替えが行われ、2022年(令和4年)4月にはKOMEHYO名古屋本店きもの館単独のビルが開業しています。

(写真)港座跡地のKOMEHYO名古屋本店きもの館。

(写真)港座楽屋部分跡地の大須演芸場。
1.3 太陽館(1912年7月5日-1985年3月29日)
所在地 : 愛知県名古屋市中区大須2-16-26(1985年)
開館年 : 1912年7月5日、1946年1月
閉館年 : 1985年3月29日
跡地はドラッグストア「V・drug大須店」。
元号が明治から大正に代わる直前の1912年(明治45年)7月5日、大須の浅間通に太陽館が建てられました。文明館、電気館に次いで名古屋市で3番目の活動写真館とされることもあります。
1920年(大正9年)11月には実業家の古川為三郎によって買収され、翌年の1921年(大正10年)1月5日に新装開館しました。古川はそれまで貴金属商や鉱山経営者などとして活動していましたが、1920年(大正9年)の戦後恐慌や体調の悪化が転機となって、現金決済の商売への転向を決意したとされます。古川は新天地通に帝国館と帝国座も建てており、数年のうちに大須で3館を経営する興行主となりました。戦後には末広町に中日シネラマ会館(後のヘラルドシネプラザ)を建て、1993年(平成5年)に103歳で死去するまで映画館経営者であり続けました。
1945年3月の名古屋大空襲で太陽館の建物は焼失しましたが、戦後に再建されて1947年(昭和22年)1月に大須グランド劇場として営業を再開しています。1950年代初頭には古川為三郎の古川商会が経営を外れて中野重郎の単独経営となり、1955年(昭和30年)頃には大須東宝に改称して東宝上映館となりましたが、1962年(昭和37年)頃には太陽館の名称が復活しています。

(写真)1956年3月の大須東宝。『キネマと白球』風媒社、2022年。

(写真)1970年頃の太陽館。『名古屋の昭和』樹林舎、2015年。

(写真)名画座や大須太陽館が描かれている1979年の住宅地図。
1970年代末からは成人映画を上映するようになり、1985年(昭和60年)3月29日をもって閉館しました。跡地にはヘラルドフーズの工場となり、その後喫茶店・洋菓子店のシャポーブラン大須本店となりました。2020年(令和2年)3月10日にはシャポーブラン大須本店も閉店し、跡地には平屋建のV・drug大須店が建っています。
映画館時代から建物前には「清寿院の柳下水」という井戸があり、シャポーブランとなってからも穴が埋められた状態で残っていました。「尾張名古屋の三名水」のひとつと称された井戸であり、『尾張名所図会』などにも描かれています。V・drug大須店が建つ際、柳下水の井戸は那古野山古墳公園内にモニュメントとして移設されました。

(写真)「明治45年にオープン 大須の太陽館 長い歴史ついにEND」『中日新聞』1985年4月3日夕刊。

(写真)太陽館跡地のV・drug大須店。
1.4 大須名画座(1950年6月-1988年12月頃)
所在地 : 愛知県名古屋市中区大須2-20-30(1988年)
開館年 : 1950年6月
閉館年 : 1988年12月頃
跡地は衣料品店「クリーミー 大須観音店」があるマンション「宝マンション大須」。
戦前の浅間通(後の大須通、現在の大須観音通)には大須観音に近い方から東宝大須劇場、港座、太陽館がありました。
港座と太陽館は同一名称で戦後も営業していますが、東宝大須劇場の跡地には1947年(昭和22年)6月に大須松竹が開館し、1949年(昭和24年)2月に大須名画座に改称しています。1951年(昭和26年)12月1日の新装時の広告には「50円開放 活劇専門劇場」とありますが、松竹上映館、洋画上映館、東宝上映館と上映系統はめまぐるしく変化しました。

(写真)「広告」『名古屋タイムズ』1951年12月1日。

(写真)1956年3月の大須名画座。『キネマと白球』風媒社、2022年。

(写真)名画座や大須太陽館が描かれている1979年の住宅地図。
1976年(昭和51年)頃には新天地通から映画館が消え、大須の映画館は大須通の大須名画座と太陽館の2館となりましたが、1985年(昭和60年)には太陽館も閉館して大須名画座のみとなっています。1970年代以降は長らく成人映画の上映館だったことで、住民の間でも大須最後の映画館という意識は薄かったのかもしれません。新聞記事などでは最終上映日もわからず、1988年(昭和63年)12月20日の読売新聞に「すでに解体が始まっている」という記事が掲載されているのみです。
なお、2019年(平成31年)3月30日に大須シネマが開館する際の報道では、「1989年に大須最後の映画館が閉館した」と書いている記事もありますが、正しくは「1988年」です。元号が平成に切り替わる直前に大須から映画館がなくなり、元号が令和に切り替わる直前に大須に映画館が復活したことになります。

(写真)「“シネマの大須”灯消える 『名画座』も閉館」『読売新聞』1988年12月20日。
1991年(平成3年)4月には大須名画座跡地に宝マンション大須が竣工しました。映画館跡地は敷地の規模が大きいことが多いため、都市部では跡地にマンションが建つことが多いです。


大須の映画館について調べたことは「大須の映画館 - 消えた映画館の記憶」に掲載しており、その所在地については「消えた映画館の記憶地図(愛知県版)」にマッピングしています。