
(写真)松竹座。
2025年(令和7年)1月、愛知県名古屋市大須を訪れました。
かつて大須は名古屋屈指の興行街として知られ、戦前から戦後にかけて多数の映画館がありました。「戦前の大須の映画館(大須観音周辺1)」「戦前の大須の映画館(大須観音周辺2)」「戦前の大須の映画館(新天地通周辺)」からの続きです。
3. 本町通周辺
名古屋市鶴舞中央図書館が所蔵する住宅地図『名古屋市居住者全図 昭和4年昭和8年調』から、映画館や劇場、寺院や神社などを抜き出して作図したものを掲載します。大須周辺は1929年(昭和4年)の調査に基づいているため、映画館や劇場は大須観音周辺と新天地通周辺の2エリアに集中しており、本町通周辺には存在しなかったことが分かります。
本町通に面した場所には巨大な愛知県商品陳列所 - Wikipedia(旧称は名古屋博物館、愛知県博物館、愛知県商品陳列館など)が確認できますが、1930年(昭和5年)に商品陳列所が廃止されて建物が解体され、跡地に赤門通が開通して本町通周辺にも映画館街が形成されることとなりました。

3.1 末広座/松竹座(1883年-1945年)
所在地 : 愛知県名古屋市中区末広町3(1943年)
開館年 : 1883年1月(芝居小屋)、1927年11月15日(映画館)
閉館年 : 1945年
跡地は「栄タワーヒルズ」建物北端やその北側。
天保年間(1830年~1844年)以前にも若宮八幡社境内には芝居小屋があり、その後境内脇に移って末広座となりました。末広座は1897年(明治30年)3月1日に名古屋で初めて活動写真の上映が行われた場所でもあります。1927年(昭和2年)には松竹によって改築されて松竹座となりました。
1929年(昭和4年)の住宅地図を見ると、本町通は若宮八幡社から大須まで一続きであり、戦後に開通した若宮大通の前身となるような通りはありません。広い若宮八幡社の参道南側にあったのが末広座の後継の松竹座です。参道の2軒北には山田才吉 - Wikipedia邸も見えますが、知多郡上野村(現・東海市)で聚楽園の建設に熱を上げていた時期であり、既に聚楽園北側に移り住んでいた可能性もあります。

(写真)若宮八幡社脇に松竹座が描かれている『名古屋市居住者全図昭和4年調昭和8年調』名古屋市鶴舞中央図書館、1938年。名古屋市鶴舞中央図書館所蔵。
1927年(昭和2年)10月30日の名古屋新聞における映画館特集には、開館直前の松竹座への期待感を示す文章が掲載されています。大阪松竹座(1923年)、京都松竹座(1924年)、神戸松竹座(1927年)に次ぐ4番目の松竹座として開館した劇場であり、8万円を投じて末広座を建て替えたとあります。
大阪松竹座、神戸松竹座、京都松竹座、この三都松竹座は関西における近代的劇場の最高水準を示すものであるが、わが名古屋市においても末広町末広座が大改築を施して「名古屋松竹座」と改称していよいよ十一月上旬、開場の運びとなったのは大きなよろこびである。改築費じつに八万円旧末広座の形容はほとんど外廓に名残りをとどむるのみで、崇麗、華麗、市民の観楽境として善美の限りを尽した立派やかなる殿堂と化した。
その設備の一端を示せば各等とも靴、草履、下駄ばきのままで観覧ができ、前茶屋制度を廃し、暖房装置および通風換気の設備を加え、冬はあたたかく夏は涼しく見心地のよいシアターとして〇意施設している。上演番組は演劇、音楽、日本舞踊、ダンス、ヴァリエテ、映画などおよそ新時代の要求する芸術娯楽は余さず上映上演する方針だという。(中略)
支配人長卓平氏は多年斯界に経験を有し、過日まで千歳劇場において俊敏なる快腕を振るっていた天才的人物、その持論として「絶対的によき内容しかして絶対的によき設備」を年来主張せる人である。(後略)

(写真)「壮麗まばゆき 松竹座、近く開場」『名古屋新聞』1927年10月30日。
当初は11月上旬の開館を予定していましたが、まず11月12日に延期され、さらに11月14日に延期されています。開館間際の名古屋新聞には、毎日のように記事や広告が掲載されて市民の期待を煽っています。

(写真)「愈よ近くふたあけの松竹座」『名古屋新聞』1927年11月11日。

(写真)「名古屋 松竹座 十二日開場式」『名古屋新聞』1927年11月11日夕刊。

(写真)「松竹座 開場遅るる」『名古屋新聞』1927年11月12日夕刊。

(写真)「松竹座 十四日開場式挙行」『名古屋新聞』1927年11月14日。
11月14日の開場式後、11月15日の一般公開の際の演目は、松竹楽劇部の「八景おどり」、後に『キング・コング』を撮るメリアン・C・クーパー監督の『チャング』(Chang)、『弥次喜多消防の巻』(Fireman, Save My Child、※邦画ではなくアメリカ映画)です。

(写真)「広告」『名古屋新聞』1927年11月15日夕刊。
1929年(昭和4年)6月27日には、松竹座で名古屋初のトーキー映画の上映が行われました。上映されたのはパラマウント社によるゲイリー・クーパー主演作『狼の唄』(Wolf Song)であり、「発声映画」に「トーキー」とルビが振られています。
耳と目の娯楽!発声映画(トーキー)時代来る! 名機「シネフォン機」による愈々発声映画(トーキー)上映!
皆様!お待兼ねの発声映画がまいりました!憧れのスターの肉声が松竹座にて聴けます! 時流を糊塗するイカサマ物ではありません!何とぞ誤解なされず逸早く御覧くださいまし!

(写真)「広告」『名古屋新聞』1929年6月27日夕刊。
トーキー「狼の唄」 盛況の松竹座初日
期待された中京最初のトーキーは昨日より松竹座に公開パ社特作ゲヤリー・クパーとループヴェレスの悲歌物語「狼の唄」コロンビア社ヂャック・ローガン嬢「我儘女房」ルース・エデイング「ジャズソング」などスサマジイ人気を見せている。

(写真)「広告」『名古屋新聞』1929年6月28日。
なお、世界初の本格的トーキー映画は1927年(昭和2年)10月6日にアメリカで公開された『ジャズ・シンガー』(The Jazz Singer)です。伊藤紫英は「名古屋で堂々と公開された『発声映画』は昭和2年11月12日からの新歌舞伎十八番『素襖落』が最初であろう。御園座であった」とし、トーキー映画以前に歌舞伎が音声付きで映像化されていたとしています。
末広座時代の1897年(明治30年)には名古屋初の活動写真の上映が行われ、1929年(昭和4年)には名古屋初のトーキー映画の上映が行われた名門の松竹座も、日中戦争開戦後の1937年(昭和12年)12月31日にはニュース映画の専門館に転向しています。

(写真)「広告」『名古屋新聞』1937年12月30日夕刊。

(写真)松竹座。『明治大正昭和 ふるさとの想い出写真集 名古屋』国書刊行会、1979年。
松竹座は1945年(昭和20年)3月19日の名古屋大空襲で焼失し、戦後に再建されることはありませんでした。跡地は古川為三郎率いるヘラルドグループが取得し、1964年(昭和39年)12月25日に中日シネラマ会館(後のヘラルドシネプラザ)が開館しました。ヘラルドグループの旗艦館であるヘラルドシネプラザは2004年(平成16年)まで営業し、末広座の時代から続く興行の中心地としての歴史を維持しました。2019年(令和元年)にはヘラルドシネプラザの跡地に高級賃貸マンションの栄タワーヒルズが完成しています。
なお、1971年(昭和46年)に大映が経営難で倒産すると、名古屋駅前の名古屋大映を松竹座が買収して名古屋松竹座に改称し、26年ぶりに松竹直営の松竹座が名古屋に復活しています。

(写真)末広座跡地の栄タワーヒルズ。
3.2 大須映画劇場(1937年12月30日-戦後はOS劇場)
所在地 : 愛知県名古屋市中区門前町3(1943年)
開館年 : 1937年12月30日
閉館年 : 1969年11月
跡地は「大須ういろビル」。
大須観音周辺や新天地通周辺が映画館街として発展する一方で、昭和初期には本町通と赤門通の交差点付近に複数の映画館が開館しています。1933年(昭和8年)から1938年(昭和13年)までに三輪町線区画整理組合によって赤門通の建設が進められ、赤門通の発展策としてまず大須映画劇場が開館したようです。

なお、記事中に見えるSYは「松竹洋画」を意味し、松竹直営館などで松竹が製作する邦画ではなく松竹が配給する洋画を上映する館に付けられることがあります。オープニング作品はジョン・フォード監督作『軍使』(『テンプルの軍使』、Wee Willie Winkie)とローレル&ハーディ主演の喜劇『宝の山』(Way Out West)。
小林千代子迎え 大須映画劇場 開館披露興行
SY大須劇場の開館披露興行は明日から小林千代子の独唱陣をアトラクションとして開かれる。映画はテンプルとマクラグレンの主演、ジョン・フォードの「軍使」とローレル=ハーデイの長編喜劇「宝の山」封切。

(写真)「小林千代子迎え 大須映画劇場 開館披露興行」『名古屋新聞』1937年12月29日。

(写真)「広告」『名古屋新聞』1937年12月30日。
3.3 赤門花月劇場(1938年4月15日-1945年)
所在地 : 愛知県名古屋市中区裏門前町1(1943年)
開館年 : 1938年4月15日
閉館年 : 1945年
跡地は「第2アメ横ビル」(ネオハイツ大須)建物東側付近。
1938年(昭和13年)4月13日には大須映画劇場から赤門通を挟んで北側に赤門娯楽デパートが完成し、同時に娯楽デパートの東隣に赤門東宝映画劇場が開館しています。赤門娯楽デパートは新天地通で名古屋劇場を経営する高瀬兼次郎と吉本興業の共同経営でした。
1937年(昭和12年)12月27日には大須観音近くに東宝大須劇場が開館していましたが、赤門東宝映画劇場とどのような関係だったかはよくわかりません。赤門東宝映画劇場は開館から半年後にはもう赤門花月劇場に改称しています。吉本興業の実演劇場には花月という名称の劇場が多数ありますが、映画館にも花月という名称を用いていました。
赤門娯楽デパートの落成式
大須赤門通り赤門東宝映画劇場ならびに赤門娯楽デパート落成式は十三日午後三時から同劇場へ関係方面の名士五百余名を招待して挙行、同建築〇任高瀬兼次郎氏の挨拶、続いて大岩市長代理田中産業部長ならびに高松商工会議所副会頭の祝辞があり、さらに井上義卓氏から建築〇任方面への感謝状授与があり閉会、一同打揃って別館娯楽場および食堂など盛況裏に参観した。

(写真)「赤門娯楽デパートの落成式」『名古屋新聞』1938年4月14日。
なお、赤門娯楽デパートや赤門東宝劇場の開館と同時に、大津通から赤門通に入る場所にはネオン塔が建立されています。タワー型のネオン塔であり、『日本の大須』は「外国の繁華街にはよく見ますが日本では余り類を見ないデザイン」としています。
仁王門通には現在のものと同じ形状の提灯型ネオンアーチが設置されていたほか、万松寺通りや金沢町(現・大須表参道)にもネオンアーチが、浅間通(現・大須観音通)や七寺周辺にもネオンの街路灯が設置されるなど、各通りが競うようにネオンを設置していた時代です。

(写真)「赤門通りネオン塔 ミス大須の口紅」『名古屋新聞』1938年4月15日。
戦後、赤門娯楽デパートや赤門花月劇場の跡地は赤門ビンゴゲームや高瀬興業の事務所となりました。1977年(昭和52年)に高瀬興業が名古屋劇場跡地に第1アメ横ビルを開業させると、1984年(昭和59年)11月3日には事務所などを建て替えて高層マンションのネオハイツ大須とし、その下層階を第2アメ横ビルとしています。

(写真)「大須に話題…第二アメ横 28店舗オープン」『中日新聞』1984年11月11日。

3.4 大勝館(1938年11月6日-1945年)
所在地 : 愛知県名古屋市中区裏門前町1(1943年)
開館年 : 1938年11月6日
閉館年 : 1945年
跡地は「第二アメ横ビル」(ネオハイツ大須)東南東30mの数軒の建物付近。
1938年(昭和13年)4月に赤門娯楽デパートや赤門東宝映画劇場が開館した後、同年11月6日にはこれらの東隣に大勝館が開館しました。1936年(昭和11年)以降には様々な点で建築統制が行われており、記事中の「聖戦下最後の映画劇場として国策資材のみを使用」という文言からも戦時体制下であることを意識させられます。
聖戦下最後の映画劇場として国策資材のみを使用して鋭意工事中であった赤門通り大勝館は新築竣成本日朝十時から開館式を挙行、午後より一般開場、映画は日活作品と解禁洋画で、定期的にアトラクションを公演するとのことで、開館第一週の番組は阪東妻三郎主演、稲垣浩の野心作「地獄の虫」、村田知栄子の軽喜劇「奥様御出勤」と各社ニュースで料金二十銭。

(写真)「映画街 赤門大勝館新築本日開館」『名古屋新聞』1938年11月6日。

(写真)「広告」『名古屋新聞』1938年11月6日夕刊。
大須の映画館について調べたことは「大須の映画館 - 消えた映画館の記憶」に掲載しており、その所在地については「消えた映画館の記憶地図(愛知県版)」にマッピングしています。