以下の内容はhttps://ayc.hatenablog.com/entry/2025/02/07/014358より取得しました。


戦前の大須の映画館(大須観音周辺2)

(写真)戦前の大須観音

2025年(令和7年)1月、愛知県名古屋市大須を訪れました。

かつて大須は名古屋屈指の興行街として知られ、戦前から戦後にかけて多数の映画館がありました。「戦前の大須の映画館(大須観音周辺1)」の続きです。「戦前の大須の映画館(新天地通周辺)」「戦前の大須の映画館(本町通周辺)」に続きます。

 

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1. 大須観音周辺

(写真)1929年頃の大須観音周辺。

 

 

1.4 世界館(1913年10月30日-1945年)

所在地 : 愛知県名古屋市中区門前町4(1943年)
開館年 : 1913年10月30日
閉館年 : 1945年
跡地は「大須ういろ南北ビル」建物南側。

1910年(明治43年)7月1日、既存の桔梗座が世界館に改称して活動常設館に転向しました。明治末期の名古屋市には活動常設館として大須の電気館、文明館、世界館の3館、さらに広小路の中央電気館を加えた4館がありました。

 

世界館の活動常設

大須門前の桔梗座は今回横田活動写真会の常設館となし名を世界館と改め本日より年中無休に開演する由 今夜よりは義士銘々伝の中神崎堪忍袋を呼物として花々しく開演 フィルムは毎月十日目毎に全部取替を為す筈

(写真)「世界館の活動常設」『名古屋新聞』1910年7月1日。

 

1913年(大正2年)10月30日には仁王門通に世界館が新築落成して開館式を挙行、10月31日に上映を開始しました。名古屋新聞には写真付きで報じられています。まだ珍しかった洋風の近代建築であり、「大須映画界の第一線に立つ高級館」などとも紹介される活動写真館です。

世界館の開館

豫て建築中なりし大須仁王門前の世界館は愈よ工事落成し 丗日開館式を挙行し翌丗一日より開業する由にて 館内には喫茶室化粧室を設け又貴賓席は最も善美を尽し 映写幕も新案の浮出シーツを用いて光線の刺激を少なからしむと 弁士は当地に評判ある水書未狂の外派劇専門の弁士を聘し 休憩時間には和洋楽合奏あり 写真は日活を凌駕せる東京弥満登音影会社と特約を結び封切写真のみを映写し 模範活動写真館の名に背かざらしむと

(写真)「世界館の開館」『名古屋新聞』1913年10月30日。

 

約三ケ月の日子と三万余円の費を投じて漸く落成せる大須仁王門前活動常設世界館は愈よ今丗一日を以て開館す聞く処によれば場内設備の完全と映画の鮮明は東京大阪を通じて遜色なく弁士は水書未狂始め数名交代にて説明すと

(写真)「世界館」『名古屋新聞』1913年10月31日。

 

もともと千歳劇場の弁士だった南映二が世界館の主任弁士であり、愛知一中(現・愛知県立旭丘高校)出身の秀才だった南は脚本家としても活動していたようです。弁士は一種の芸能人であり、大半は芸名を用いていました。

指揮者兼楽長の赤坂幸造は、大日本吹奏楽競演会の審査員なども務めた吹奏楽の重鎮でした。赤坂の下に16人のオーケストラ部員がいたと書かれていますが、当時の名古屋の映画館の楽長は赤坂を含めて大半が海軍軍楽隊出身だったようです。無声映画時代の映画館に欠かせない存在として、弁士と楽士のほかに映写技師がいるはずですが、映写技師に言及している映画館紹介はありません。

若き人々に不思議な魅力を有する松竹蒲田映画…その松竹映画の中京第一封切場、世界館には、雨の日も風の日も、スクリーンの幻影をあこがれてつどい寄る若き人々でいつも満員である。映画は蒲田、そしてその上に、世界館には諸種のみ惑がある。一つは解説部の充実であり、一つは奏楽部の特長である。

解説部には哀傷多感の近代的説明者南映二君の君臨するあり、以下新進気鋭の間隆字、白藤凄光、早川喬児、久米華外、津山樵葉の諸君によって堅墨がかためられ、一種の世界館情調ともいうべき誌的情緒をかもしている。

奏楽部は民衆楽人として中京ファンから愛慕されている赤坂幸造君のタクトによって十六名のオーケストラ部員が演奏しているが、その大半は陸海軍軍楽隊出身者である。選曲の妙、演奏の絶佳は、常に映画伴奏の標準として斯界に鳴っている。(後略)

(写真)「松竹映画封切場 憧れの世界館」『名古屋新聞』1927年10月30日。

(写真)1921年頃の仁王門通の世界館前。大野一英『大須物語』中日新聞本社、1979年。

 

1925年(大正14年)10月に世界館が松竹キネマ直営館となった後の騒動については、岡鹿郎さんのブログ記事「戦前名古屋におけるジャズの普及展開(2)映画館の奏楽について〜大須世界館と赤坂幸造①」が詳しい。

電気館などと同様に、戦後に世界館が再建されることはありませんでした。跡地には1947年(昭和22年)創業の大須ういろが入り、現在は大須ういろ本店や100円ショップのセリアが入る大須ういろ南北ビルが建っています。

(写真)世界館跡地の大須ういろ本店。

 

1.5 港座(1920年9月20日-戦後も港座)

所在地 : 愛知県名古屋市中区門前町4(1943年)
開館年 : 1914年(芝居小屋)、1920年9月20日(映画館化)、1929年6月16日(建て替え)、1957年(再映画館化)
閉館年 : 1965年頃
跡地は「大須演芸場」と「KOMEHYO名古屋本店きもの館」。

港座は大須で最も複雑な変遷をたどっている劇場です。1914年(大正3年)に芝居小屋として新築開館した後、1920年大正9年)9月20日に活動常設館に転向しています。この際にはこれといった記事や広告が見当たりませんが、前日には紙面のそこかしこに「ウーマン 日活直営 港座」という小広告を挟む宣伝が行われています。モーリス・ターナー監督作『ウーマン』は、映画評論家の淀川長治が映画に生涯を捧げる契機となった作品です。

(写真)港座の映画館化前日の紙面。『名古屋新聞』1920年9月19日。

(写真)港座の映画館化当日の広告。『名古屋新聞』1920年9月20日

 

時代劇といえばマキノ、牧野といえば時代劇と今では本邦時代劇の右翼となっているが、ことに名古屋を中心とした中部日本におけるマキノ時代劇の人気といったらすばらしいものである。その中部日本の第一封切場たる港座の興行ぶりは、マキノ時代劇が花やかなごとくに実に花やかである。

港座ほどよく客が入るところはないとの一般の定評であるが、ことに「涙」「四谷怪談」「影法師」「盛綱」「雲母坂」「正剣邪剣」「鬼鹿毛」等における破れるばかりの大入満員は名古屋のマキノ熱を表明するものとして斯界を恐怖せしめたものである。

(写真)「人気第一マキノ映画 封切場大須みなと座」『名古屋新聞』1927年10月30日。

 

1929年(昭和4年)6月16日には建て替えを行っており、開館前後の数日間には毎日のように写真を含む記事や広告が掲載されています。建て替え後は高級映画館だったとされますが、その後はレビューやストリップなどを行う小屋となって戦争に至りました。

(写真)「広告」『名古屋新聞』1929年6月13日夕刊。

 

工事費十余万円と百余日の日数を費やした大須の港座の改築は、いよいよ内外の装いをこらして完成をつげたので、十四日午後二時より上棟式を挙行したが、開館式は十六日の日曜正午より催し一千人の客を招待する。館内にしつらえた模擬店が、ずらりと軒をならべてお手のものの映画やら舞踊やらレヴュウやらを余興に半日を歓楽場とする仕組であるが、午後五時よりは一般客の観覧に供する由。

(写真)「新装美々しく港座の開館」『名古屋新聞』1929年6月15日夕刊。

 

新生の港座 けふ開館 昼の部は招待 夜の部は一般公開

既報の如く新装なった港座は愈よ本日正午より名士千余名を招待して華々しく開館式を挙行する

午後五時より一般公開第一回上映映画は日活現代劇特作、菊池寛原作、溝口健二監督「東京行進曲」及びマキノ特作時代映画、菊池幽芳原作「乳姉妹」、他に三日間は特別出演として、マキノ女優の舞踊「神田祭」マキノ青年派の剣戟レヴュー「裾野の一夜」

公演入場料は一等八十銭、二等六十銭、普通席四十銭

(写真)「新生の港座 けふ開館」『名古屋新聞』1929年6月16日。

(写真)「広告」『名古屋新聞』1929年6月16日。

 

愈いよ開館した港座

大須名物の港座が四ケ月の沈黙の間にガラリと装いを更新して威風堂々と映画界に名乗り出た。十六日はその開館式、コンクリートのペイント新しい新館の表は文字通り花輪の山に飾られ、招待された公職者、同業者、近県及び東西の関係者など無慮一千名、玄関に控えたマキノ女優軍の迎えをうけて続々と入込む。(中略)

この日は物見高い大須とて港座の表道路はこの景気を見物する群衆でワイワイとごった返し巡査が整理に出張する騒ぎ、夜の部の一般公開の時はどッと見物がなだれこんでたちまち鮓づめの満員となりこけら落しらしい景気のいい辻占であった。

(写真)「愈いよ開館した港座」『名古屋新聞』1929年6月18日夕刊。


本記事前半で示した1929年(昭和4年)頃の地図において、港座は極めて大きく描かれています。誇張されている可能性もありますが、建物の楽屋部分を改修するだけでひとつの小屋(現在の大須演芸場)が造れるほどの大きさだったことは確かなようです。

(写真)港座。『大須開学100年記念誌』名古屋市大須小学校、1972年。

 

1.6 東宝大須劇場(1937年12月27日-戦後は名画座

所在地 : 愛知県名古屋市中区門前町4(1943年)
開館年 : 1937年12月27日
閉館年 : 1945年
跡地は衣料品店クリーミー 大須観音店」があるマンション「宝マンション大須」。

大須観音周辺の映画館としては最も遅く、1937年(昭和12年)には小林祐蔵が経営する小林キネマ商会の直営館として東宝大須劇場が開館しました。オープニングは海江田譲二主演作『雲切仁左衛門』、入江たか子主演作『禍福』、メリー・ブライアン主演作『非常警戒』(Killer at Large)の3作品。小林祐蔵は配給会社である小林商会 - Wikipediaを設立した小林喜三郎 - Wikipediaの弟です。

1932年(昭和7年)には小林一三によって株式会社東京宝塚劇場が設立され、1937年(昭和12年)9月には東宝映画となりました。東宝は映画会社としては新興企業であり、1935年(昭和10年)には映画以外に実演も行う名古屋宝塚劇場を開館させていましたが、東宝映画となった年に大須に進出しました。開館式では名古屋西川流の舞踊が行われていますが、基本的には映画上映専門だったようです。

東宝大須劇場は半円形の吹き抜け(?)から何本もの突起が出ているファサードが特徴的です。なお、松竹は大須の北の末広町に松竹座を、日活は伏見に千歳劇場を有していましたが、戦前の大手映画会社3社の中で初めて大須に進出したのが東宝です。

東宝大須進出 高級椅子近代施設暖房完備 愈よ廿七日開場

東宝京都作品独占 優秀洋画厳選封切 料金20セン

新築 大須観音前 東宝大須劇場

大須(宝生院東)に新築竣工なった東宝大須劇場の落成式は二十七日午前十一時から開かれ、式典あってのち、西川茂三、西川小光の『蓬莱』ほか数番の舞踊の余興あり、式後ただちに開館、大須新名物として歓楽街に晴れのデビューをなした。

(写真)「広告」『名古屋新聞』1937年12月27日。

(写真)「東宝大須劇場ひらく」『名古屋新聞』1937年12月28日。

 




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