以下の内容はhttps://ayc.hatenablog.com/entry/2025/02/06/013234より取得しました。


戦前の大須の映画館(大須観音周辺1)

(写真)戦前の大須観音

2025年(令和7年)1月、愛知県名古屋市大須を訪れました。

かつて大須は名古屋屈指の興行街として知られ、戦前から戦後にかけて多数の映画館がありました。「戦前の大須の映画館(大須観音周辺2)」「戦前の大須の映画館(新天地通周辺)」「戦前の大須の映画館(本町通周辺)」に続きます。「戦後の大須の映画館」(※ブログ3記事)もあります。

 

ayc.hatenablog.com

ayc.hatenablog.com

ayc.hatenablog.com

ayc.hatenablog.com

1. 大須観音周辺

藩政期から大須観音周辺は名古屋城下における盛り場でした。1874年(明治7年)に境内北側の北野新地が公許の遊女地となると、1877年(明治10年)に発展して旭廓となりました。

芝居小屋としては、1880年明治13年)には七寺の西側に真本座が、1883年(明治16年)には大須観音の西側に宝生座が、1903年明治36年)には真本座跡地に歌舞伎座が建てられており、芝居小屋より小規模な寄席なども含めるとさらに多くの小屋があったとされます。

1929年(昭和4年)頃の大須観音周辺の住宅地図を見ると、大須観音の真北から時計回りに港座(映画も実演も)、太陽館(映画館)、大和座(レビューや軽演劇)、世界館(映画館)、七宝館(寄席)、電気館(映画館)、文明館(映画館)、歌舞伎座(芝居小屋)、宝生座(芝居小屋)、宝座(寄席)と、多種多様な小屋が描かれています。

地図中で最も目立つ劇場は港座です。通りを挟んで西側の八千久は料亭であり、富士浅間神社には八千久が寄進した明治時代の常夜燈があります。八千久の北側にある愛楽園は、萬松寺通の黄花園を手放した人物が設立した菊園です。

(写真)1929年頃の大須観音周辺。『名古屋市居住者全図昭和4年調昭和8年調』名古屋市鶴舞中央図書館、1938年。名古屋市鶴舞中央図書館所蔵。

(写真)1929年頃の大須観音周辺。上記の住宅地図を簡略化した地図。

(写真)戦前の大須観音周辺。「日本の大須観光と味覚の案内」1939年。『蘇る! 空襲で燃える前の栄(錦三)と大須の姿』あいち・平和のための戦争展実行委員会、2023年に収録されている。

 

1930年(昭和5年)の映画館名簿『日本映画事業総覧 昭和5年版』によると、同年の愛知県には52館の映画館があり、うち名古屋市は26館、大須の映画館は地域としては最多の7館です。大須に隣接する末広町の松竹座を含めて紹介します。

東京の企業が経営する映画館として松竹の松竹座があり、他には小林キネマ(小林茂、小林祐蔵)系が世界館、太陽館、常盤館、帝国館の4館、竹本武夫の経営が文明館と港座の2館、二宮助三郎の経営が電気館です。
それぞれの館に1つまたは2つの上映系統が掲載されており、帝国キネマ(後の新興キネマ)が3館、マキノ映画が2館、河合映画(後の大都映画)が2館、日活が1館、松竹が1館、東亜キネマが1館、洋画自由選択が4館です。

(写真)『日本映画事業総覧 昭和5年版』国際映画通信社、1930年。

 

1.1 文明館(1908年1月25日-戦後は大須東映

所在地 : 愛知県名古屋市中区門前町4-52(1962年)
開館年 : 1908年1月25日、1952年11月
閉館年 : 1961年12月11日
跡地は居酒屋「串カツ田中大須観音店」などが入る商業ビル「大須仁王門フロント」。

1897年(明治30年)3月1日、若宮八幡社脇の芝居小屋である末広座において、名古屋では初となる活動写真の上映が行われました。

それから11年後の1908年(明治41年)1月25日、名古屋初の活動常設館として開館したのが文明館です。1903年明治36年)10月に開館した東京・浅草の電気館、1907年(明治40年)7月に開館した大阪・千日前の文明館(※大須と同名)に次いで日本で3番目の活動常設館でもありました。

1907年(明治40年)7月からの1年間には大阪、名古屋、京都で初の活動写真館が開館しており、何かしらの開館ブームが起こっていたのではないかと推測しますが、当時の名古屋新聞における言及はごくわずかです。前日に演芸欄でさらりと触れられているほかは、翌日に広告が掲載されているだけであり、「名古屋初の~」とか「日本で3番目の~」などといった宣伝文句もありません。

演芸だより 文明館

大須観音堂裏の文明館にては明廿五日より連日昼夜二回活動写真を開会する由

(写真)「演芸だより 文明館」『名古屋新聞』1908年1月24日。

 

芝居小屋と活動常設館では、客席前方の舞台の必要性、後方の映写室や前方のスクリーンの必要性、楽屋の必要性などが異なりますが、多くの芝居小屋は2階桟敷席に映写室を増設するなどして活動写真の上映も行ってたことが、意外にも思える宣伝の熱量の低さの理由でしょうか。

大須観音周辺には既に複数の芝居小屋がありましたが、文明館以後には周辺が映画館街としても発展することになります。

今般活動写真常設館を新築致し 廿五日より東京Mパテー活動写真会と特約し 斬新奇抜なる写真 毎週取替晴雨別なく年中休なし開館 特に日曜大祭日に限午後一時より御観覧に供する次第なれば 陸続御尊来の程奉希候

電気応用入場料 特別席八銭 普通は五銭 制帽小学生に限り三銭

大須観音堂裏 文明館

(写真)「広告」『名古屋新聞』1908年1月26日。

 

1927年(昭和2年)10月30日の名古屋新聞には、「全国的に先馳せる中京の映画興行界 代表的常設館の紹介」と題した記事が掲載されており、港座、世界館、文明館、電気館、太陽館、常盤劇場、帝国館(ここまで大須)、松竹座(末広町※開館直前)、千歳劇場(伏見)、中央館(広小路)、金輝館(納屋橋)、日本館(高岳町)、八千代館(建中寺前)、芦邊館と豊富館(円頓寺筋)、二葉館(上畠町)、大宮館(熱田)の17館が紹介されています。この時期の映画館は圧倒的に大須が多い。

上映施設を表す言葉は「映画館」または「映画常設」であり、「活動写真」「活動」という言葉は登場しません。しかし、上映作品はすべてサイレント映画であり、トーキーが名古屋で初公開されるのは2年後の1929年(昭和4年)6月27日のことです。私はざっくりと「明治・大正期=活動写真=サイレント」「昭和戦前期=映画=トーキー」と認識していますが、活動写真から映画への用語の移行、サイレントからトーキーへの技術の移行の二者の時期はややずれているようです。

記事「全国的に先馳せる中京の映画興行界 代表的常設館の紹介」において、いくつかの映画館は解説部(弁士)と奏楽部(楽士)について紹介されており、各弁士と指揮者については個人名も掲載されています。

日活封切の文明館 忠実なる奉仕ぶり

大須文明館…その名は古く、中京映画ファンに又なくなつかしい名前である。大日活会社の封切館として、十年一日のごとく奉仕してきた甲斐あって、日活映画が群を圧してすばらしい進歩を示すとともに人気いよいよ加はり、文明館は盤石のごとき堅固な基礎をきづくに至った。近くは「尊王攘夷」その前の「大久保彦左衛門」「忠臣蔵」のごとき国際的大作品はひとり日活のみが善く作るところその封切館たる文明館の声価隆々たるは今更いふまでもあるまい。(中略)

文明館は竹本武夫氏の経営の下に佐藤鎗太郎、阿部駒次郎の両氏実際に当り、解説部には古豪徳富公堂はじめ中川健之助、鈴木楽山、小林祥晃、国木田収果、高谷晋作の諸雄が控え奏楽部を相原晃氏が指揮している。

(写真)「日活封切の文明館」『名古屋新聞』1927年10月30日。

 

経営者は名古屋における興行界の重鎮とされる竹本武夫です。竹本は1879年(明治12年)12月に和歌山市に生まれ、1891年(明治24年)に名古屋市に移ると、やがて活動写真の将来性に目を付けて文明館を貸借しました。

大正時代中頃の竹本商会は大須で文明館と港座を経営し、中部地方7県に計25~26館もの直営館がある大興行主となっています。マキノ映画中部支社としても活動し、南区道徳にマキノ映画中部撮影所を建てた人物でもあるようです。役職としては愛知県活動写真組合長や名古屋劇場組合長などを歴任しています。

(写真)竹本武夫。『中京現代人物評伝』早川文書事務所、1932年。

 

1.2 電気館(1908年4月1日-1945年)

所在地 : 愛知県名古屋市中区門前町4(1943年)
開館年 : 1908年4月1日
閉館年 : 1945年
跡地はマンション「ダイアパレス大須第2」。

文明館の開館から2か月後、名古屋市で2番目の活動常設館として警察署跡地に開館したのが電気館です。開館時の新聞記事には「活動写真常設場」という言葉こそ見られますが、「名古屋で2番目の~」などといった言葉はありません。

昭和初期の電気館は「3本立の二流館」「大衆に喜ばれる作品を上映」などと紹介されており、(高級館ではない)大衆館だったようです。電気館の経営者である二宮助二郎は、仁王門通から七寺に向かう路地沿いで寄席の七宝館も経営していました。

(写真)「電気応用 活動写真常設場 電気館」『名古屋新聞』1908年4月1日。

 

帝キネ封切 電気館 日本物主義

帝キネ映画封切館、大須門内の電気館は、古い歴史と信用をもっている。経営者は大須七宝館の持ち主である二宮助二郎氏、帝キネ映画が大衆本位なら電気館の営業法も大衆本位で、もっとも安価な料金でもっとも大きな慰安を与えることに腐心している。そのために電気館の観客吸収力は実に偉大なもので平日でもイスのあいていたことはないくらいだが一日、十五日、日曜祭日のごときはいつでも完全に満場立すいの余地がない。

西洋物は一切上映せず、もっぱら大衆をわッと喜ばせる新派と旧劇の一点張で、肩をこらせずに観客を満足させているが、現に帝キネ秘蔵の時代情話劇「三勝半七」時代劇「鬼百合」を上映している。

(写真)「帝キネ封切 電気館 日本物主義」『名古屋新聞』1927年10月30日。

 

なお、日本初の活動常設館は東京・浅草の電気館でした。蠟燭や石油ランプの明かりでも興行できる芝居小屋とは異なり、活動写真におけるスクリーンへの映写には電気を用いる必要があります。浅草の神谷バーで提供された電気ブランに象徴されるように、電気〇〇という名称は近代化の象徴でもありました。

〇〇劇場や〇〇館という名称では旧来からの芝居小屋との区別が付きませんが、電気館という名称であれば活動写真館であることが一目瞭然です。1925年(大正14年)の映画館名簿を見てみると、電気館という名称の映画館が日本各地にあることが分かります。なお戦後になると、既存の〇〇劇場がある町に映画専門館を開館させる場合、〇〇映劇または〇〇映画劇場という名称を用いることが多かったようです。

(写真)『日本映画年鑑 大正13・4年度』東京朝日新聞発行所、1925年。

 

明治時代の大須には五重塔を有する大須観音と三重塔を有する七寺があり、七寺は本町通まで境内が延びる大寺院でした。

七寺の吒枳尼天堂(だきにてんどう)前には1920年大正9年)11月建立の鳥居があり、南側の柱には寄進者として電気館主11人の名が刻まれています。北側の柱には芝居小屋である宝生座主11人の名や、芸妓連である睦連の女性名が刻まれており、当時の大須において活動写真館、芝居小屋、芸妓連などは影響力や財力のある組織だったことが分かります。

(写真)寄進者として電気館主と刻まれた七寺の鳥居。

(写真)寄進者として電気館主と刻まれた七寺の鳥居。

 

戦災で建物が焼失した後、電気館は再建されませんでした。1988年(昭和63年)には跡地にダイアパレス大須第2が竣工しています。仁王門通のアーケード西側端部の北側にあるマンションであり、壁面に仁王門通の広告が描かれているのが特徴です。

(写真)電気館跡地の栄タワーヒルズ。

 

1.3 太陽館(1912年-戦後も太陽館)

所在地 : 愛知県名古屋市中区門前町4(1943年)
開館年 : 1912年7月5日、1946年1月
閉館年 : 1985年3月29日
跡地はドラッグストア「V・drug大須店」。

1912年(明治45年)7月5日、浪越公園跡地の一部に太陽館が新築開館しました。浪越公園は愛知県で初めて開設された公園ですが、1909年(明治42年)の鶴舞公園の開園とともに廃止され、現在は那古野山公園のみが名残を伝えています。

1921年(大正10年)1月5日には古川為三郎 - Wikipediaに買収されて新装開館しました。古川はそれまで貴金属の売買や鉱山経営などを行っていましたが、大正中頃には鉱山の経営権を取り上げられたり大病を患うなどし、現金決済の商売への方向転換の第一歩が太陽館でした。1922年(大正11年)には新天地通に帝国館を、1923年(大正12年)にも新天地通に貸館の帝国座を建てており、わずか数年で大須に3館の映画館を経営する興行主となっています。

(左)1925年の太陽館。(右)古川為三郎。いずれも小橋博史『獅子奮迅 古川爲三郎伝』古川爲三郎伝発行委員会、1989年。

 

東亜封切太陽館 一日より「王政復古」後編

光輝ある伝統にかがやく大須公園の太陽館は、永く日本物館として堅固なる地盤を有し、人気を博してきたが、今夏八月五日より座主古川為三郎氏の直営となり、文名嘖々たる大衆作家中川雨之助氏が宰領の任について東亜キネマ封切場となって以来、躍進また躍進、白熱的人気を保有するに至った。

同館の方針は東亜映画を封切上映する以外に、独立プロダクションの優秀作品を上映し、また外国の名編を選択上映するなど、ひたすらに特色ある民衆娯楽場として奉仕につとめている。(後略)

(写真)「東亜封切太陽館」『名古屋新聞』1927年10月30日。

 

1933年(昭和8年)、古川為三郎は喫茶店資生堂パーラー大須店を開店させて飲食業にも乗り出しました。1937年(昭和12年)7月の日中戦争開戦後にはニュース映画館になったようであり、中国大陸から空輸された映像がニュース映画として上映されていたようです。ニュース映画館の広告には銃剣を持った兵士が描かれ、「済南城占領」「南京爆撃」など実際に行われた攻撃の文字が並んでいます。

なお、1945年(昭和20年)3月19日の名古屋大空襲において、古川為三郎は大須で経営していた4映画館全てと資生堂パーラー全てが焼失するという憂き目に遭っています。

(写真)ニュース専門館化した太陽館、名古屋を代表するニュース映画館である広小路ニュース劇場の広告。『名古屋新聞』1937年12月30日。

 




以上の内容はhttps://ayc.hatenablog.com/entry/2025/02/06/013234より取得しました。
このページはhttp://font.textar.tv/のウェブフォントを使用してます

不具合報告/要望等はこちらへお願いします。
モバイルやる夫Viewer Ver0.14