
2025年(令和7年)1月、愛知県名古屋市中区大須2丁目の大須観音にある旧大須文庫を訪れました。
1. 大須観音
1.1 寺院の歴史
大須観音(北野山真福寺宝生院)は大須という地名の由来となった寺院です。もとは尾張国中島郡長庄大須(現・岐阜県羽島市)にあり、慶長17年(1612年)に清洲越しによって名古屋城下の現在地に移転しました。
文化12年(1815年)には五重塔が建てられて大須のシンボルとなります。1892年(明治25年)3月22日の大須大火では境内にあった芝居小屋の宝生座から出火し、本堂、五重塔、仁王門などが焼失。本堂などはその後再建されますが、五重塔は再建されずじまいでした。
前年の1891年(明治24年)10月28日に発生した濃尾地震と合わせて、旧来の明かり(蝋燭、ランプ、ガス灯)の安全性が疑問視され、近代の技術である電気が名古屋市において普及する要因となったようです。
なお、江戸時代以降の名古屋城下における軸は本町通であり、大須観音の本堂は本町通を向いて建っていました(東向き)。今日の大須観音通は富士浅間神社に因んで浅間通と呼ばれていました。昭和前期の大須商店街案内図を見ると、周辺には多くの映画館(文明館、電気館、世界館、東宝大須、港座、太陽館)、芝居小屋や寄席(宝生座、宝座、歌舞伎座、七宝館、文長座)があるのが分かります。

(図)昭和前期の大須商店街案内図。
1.2 空襲と再建
1945年(昭和20年)3月19日、名古屋市が最も大きな被害を受けた空襲によって大須一帯が焼失し、大須観音も鉄筋コンクリート造の大須文庫を除いて焼失しました。
1949年(昭和24年)には仮本堂が完成、その後20年経った1970年(昭和45年)にようやく本堂が再建されています。仮本堂も旧本堂と同様に東向きでしたが、戦後すぐの時期に開通した伏見通からも参拝者を集めるために、新本堂は南向きで建てられています。

(写真)1946年頃の大須観音境内。正面は大須文庫。『占領期の名古屋』樹林舎、2020年。

(写真)1957年の大須観音境内。左奥は大須文庫。『大須レトロ』樹林舎、2010年。
2. 旧大須文庫
2.1 収蔵庫としての大須文庫
大須文庫は真福寺文庫とも呼ばれる古典籍の収蔵庫(文庫)であり、日本最古の古事記の写本(真福寺本)などの国宝4件、重要文化財37件を有しています。なお、大須文庫の収蔵品は名古屋市博物館などに寄託されているようです。
2.2 旧大須文庫の建物
旧大須文庫の建物は、大江新太郎の設計で1934年(昭和9年)に竣工した鉄筋コンクリート造の建物です。太平洋戦争時には本尊などが建物内に移されて焼失を免れています。旧大須文庫は太平洋戦争前に建てられた大須で数少ない建築物であり、その価値がもっと知られてほしいのですが...。
1970年(昭和45年)に完成した本堂や、境内南端の仁王門、本堂の両脇にある普門殿や紫雲殿は、鮮やかな朱色に塗られて見栄えが良く、多くの観光客を集めています。紫雲殿の奥には庫裏と書院がありますが、旧大須文庫の建物があるのは庫裏と書院のさらに奥であり、観光客に気づかれることなくひっそりと建っています。

(写真)旧大須文庫。
数年前には納屋橋饅頭大須寮が解体されたため、北側のコインパーキングからも旧大須文庫を視認できるようになりました。

(写真)旧大須文庫。