
(写真)七寺の本堂。
2025年(令和7年)1月、愛知県名古屋市中区大須2丁目にある七寺(ななつでら)を訪れました。なお、訪問後にはWikipedia記事「七寺」を加筆修正しています。
1. 建築物
七寺の正式名称である長福寺は尾張国海東郡萱津(現・あま市)に創建された寺院であり、7歳で死んだ子を弔うために七堂伽藍を建立したことに因んで七寺(ななつでら)と呼ばれています。仁安2年(1167年)には中島郡(現・稲沢市)に移転、天正19年(1591年)には清洲城下(現・清須市)に移転、慶長16年(1611年)には清洲越しによって大須に移転と、三度もの遷座を経て今日に至っています。
大正時代の七寺周辺の図を見ると、本堂が東向きなのは現在と変わりありませんが、本堂の正面に参道入口があるのが現在とは異なります。三重塔があったのは経蔵の真東であり、現在の大須通にあたる場所には検番や芸妓置屋が並んでいたようです。
かつては本町通まで境内が続く大須有数の大寺院であり、三重塔は大須のシンボル的存在だったようですが、1945年(昭和20年)3月19日の名古屋大空襲では経蔵を除いて焼失し、1970年(昭和45年)に本堂を再建した大須観音などと比べて相対的に寺勢が衰えたようです。

(写真)境内。
1.1 本堂・吒枳尼天堂
建物としては戦後に再建された本堂と吒枳尼天堂(だきにてんどう)が並んでおり、本堂には空襲の際になんとか持ち出された観音菩薩と勢至菩薩の坐像(旧国宝、重要文化財)が鎮座しています。

1.2 経蔵
七寺境内の南側、大須通に近い場所には経蔵があります。『七寺一切経目録』(七寺一切経保存会、1968年)によると「1895年(明治28年)にレンガ造りで竣工した建物」とのことですが、とても煉瓦造には見えないので困惑します。いずれにしても、大須には数少ない近代建築だと思われます。

(写真)経蔵。
2. 石造物・銅像
2.1 常夜燈
七寺本堂や吒枳尼天堂の正面(東側)には、やや奇妙な位置に一対の常夜燈(「献燈」)があります。高さ約4mもあるこの常夜燈は1917年(大正6年)5月建立。
寄進者として「東京市 細野傳次郎」と刻まれており、「昭和26年2月修理再建 親和組合一同」とも刻まれています。中央部の竿や火袋は比較的新しそうに見え、上部の笠や下部の基礎は比較的古そうに見えます。
細野傳次郎は1870年(明治3年)に名古屋城下筒井町に生まれ、上京後に投機家を経て公債株式現物問屋として成功した人物とのことです。細野は信仰心に篤く、東本願寺などにも寄進を行っているようです。

(写真)常夜燈と本堂。
2.2 鳥居
吒枳尼天堂の前には鳥居が建っていて神社のようです。鳥居の建立時期は1920年(大正9年)11月。
北側の柱に刻まれた寄進者は「宝生座主」、「睦」、「世話人」の3者に分かれています。宝生座主としては「水谷銀治郎 千寿楼 高見弥太郎 山中五兵衛 本家長寿楼 日比野周次郎 矢野武雄 福地小栄 ◯千寿 蓮池治三郎 杉浦◯郎 いろは楼米子」と刻まれています。睦としては11人の名前が刻まれており、世話人としては8人の名前と「議員一同」と刻まれています。
宝生座は大須観音の境内西側、現在のホテルアベスト大須観音駅前の場所にあった芝居小屋であり、1892年(明治25年)の大須大火の際に火元となった建物でもあります。宝生座主は12人の連名であり、12人の発起人または主要株主がいたのだと思われます。
睦とは1905年(明治38年)に廓連から分離した睦連という芸妓組合のようです。

(写真)宝生座主という文字が見える鳥居の北側の柱。
南側の柱に刻まれた寄進者は「電気館主」、「半田町小〇」、「世話人」の3者に分かれています。電気館主としては「二宮助三郎 玉垣作兵衛 大澤貴之助 大橋〇三郎 飛車楼福寿 粂弥太郎 谷口徳治郎 近藤周輔 豊吉定次郎 加藤米三郎 花屋連中」と刻まれています。半田町小〇としては10人の名前が刻まれており、世話人としては8人の名前が刻まれています。
電気館は大須観音の境内南東側、大須交番の東隣のマンションの場所にあった映画館です。1908年(明治41年)1月25日に名古屋市初の活動常設館として文明館が開館した後、3か月遅れて4月1日には、名古屋市2番目の活動常設館として電気館が開館しています。

(写真)電気館主という文字が見える鳥居の南側の柱。

(写真)鳥居と吒枳尼天堂。
2.3 香炉
本堂の手前にある石造の香炉は1898年(明治31年)5月に奉納されたもの。寄進者として「当市塩町 伊藤萬蔵」と刻まれており、石造物の寄進者として有名な伊藤萬蔵 - Wikipediaによるもののようです。

(写真)香炉。

(写真)香炉。寄進者は伊藤萬蔵。
2.4 大日如来座像
境内の中央部には、木陰に隠れるようにして約3mの大日如来像が鎮座しています。寛政年間(1789年~1801年)鋳造と伝わる銅像であり、1945年(昭和20年)の空襲後に銅板で補修がなされています。経蔵とともに戦前からある数少ない構造物です。

(写真)大日如来坐像。

(写真)大日如来坐像。