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大須の富士浅間神社を訪れる

(写真)『富士浅間神社誌』1932年。

2025年(令和7年)1月、愛知県名古屋市中区大須2丁目にある富士浅間神社を訪れました。訪問後にはWikipedia記事「富士浅間神社 (名古屋市中区)」を作成しています。

 

1. 建築物

富士浅間神社大須観音の約100m東にある神社です。大須観音通と仁王門通の両全蓋式アーケード商店街に挟まれた場所にあり、大須観音周辺でイベントなどが行われる際には神社が面する浅間横丁に拠点が設置されることもあります。

(写真)鳥居と境内。

(写真)拝殿。

 

2. 石造物・銅像

富士浅間神社の境内は東西約30m×南北約20m(約600m2)と小規模ですが、様々な石造物や銅像がところ狭しと並んでいます。ウェブや文献などには境内図が見当たらないため、航空写真や現地調査を参考にして作図しました。参拝者が立ち入ることができるのは東側半分のみです。

(左)境内左手。(右)境内右手。

(写真)境内図。

 

2.1 常夜灯

明治22常夜燈

神馬の奥にある小型の常夜燈(「献燈」)は高さ約2.2mであり、1889年(明治22年)9月建立。寄進者として「八千久」の名が刻まれています。八千久(やちく)は明治時代から戦後まで大須にあった老舗料亭であり、大須演芸場の向かいの立体駐車場の場所にありました。この常夜燈には半菊紋と菊水紋も見られます。

 

大正9大塚常夜燈(2基)

境内左手奥と右手奥の常夜燈はそれぞれ高さ約3mであり、いずれも1920年大正9年)11月建立。寄進者として「老松町 大塚嘉兵衛」の名が刻まれています。

 

大正9村手常夜燈

境内右手中央の常夜燈(「献燈」)は高さ約2.5mであり、1920年大正9年)5月建立。寄進者として「門前町 村手弥兵衛」の名が刻まれています。

 

昭和17常夜燈(2基)

最も正面鳥居に近い一対の常夜燈(「祈武運長久」)はそれぞれ高さ約2.5mであり、戦時中の1942年(昭和17年)3月建立。寄進者として門前町南部国防婦人会とあり、多数の女性名が刻まれています。

 

2.2 鳥居

正面鳥居

浅間横丁に面している拝殿正面の鳥居は1920年大正9年)8月建立。

南側の柱には寄進者として大きく「杵屋三太郎」と刻まれており、さらに「杵屋三也、杵屋三音、◯◯、杵屋三喜緒、杵屋三友、杵屋三春、杵屋三和、杵屋三喜、杵屋三照、杵屋三英、杵屋三久太郎」の名も刻まれています。杵屋は歌舞伎の地方(三味線奏者)だそうです。

北側の柱には寄進者として「若福小光、玉の家つな、増相生◯◯、福の家まさ、福萬◯つ、福鶴千代、三喜廻恵さん、喜廻恵権助、美の家茂々子、三國屋金八、新喜廻恵小萬、新喜月角丸、新春喜桃太郎」の名が刻まれています。こちらは旭廓の楼主や女性でしょうか。

 

まねき稲荷鳥居

まねき稲荷の前の鳥居は、正面鳥居より1年早い1919年(大正8年)8月建立。寄進者は「門前町壱丁目 井上市之助」です。

 

摂末社鳥居

摂末社の前の鳥居も正面鳥居と同じく1920年大正9年)8月建立。寄進者として「門前町 浅見鉦太郎」と「門前町 河野高次郎」の名が刻まれています。

 

2.3 手水鉢

手水鉢は参拝者が確認できる石造物の中で最も古い寄進物でしょうか。寛政3年(1791年)6月の寄進であり、「町内安全 願主 地子中」と刻まれています。

(写真)手水鉢。

 

2.4 河野重助翁像

境内南側の塀から立ち入りできない本殿方向を覗くと、2基の常夜燈と銅像「河野重助翁」が見えます。本記事冒頭の『富士浅間神社誌』を著した河野重助の胸像です。

なお、『富士浅間神社誌』の本文中には重助と重祐の表記揺れが見られ、奥付には河野重祐と記されているため、名古屋市図書館公式サイトで蔵書検索を行う際には注意が必要です。

(写真)河野重助翁像と2基の常夜燈。

(写真)河野重助翁像。

 

境内の銅像としては神馬もありますが、戦後の建立(再建)と思われます。

(写真)神馬。

 

3. 防火塀

境内の南端部には高さ約5m近い防火塀(防火壁)が目につきます。

昭和初期には北側の浅間通(現・大須観音通)が賑わい、社殿近くまで店舗が建てられるようになりました。商業地で発生する火災による類焼を防止するために、1929年(昭和4年)2月には本殿を檜皮葺から銅板葺に葺き替える改修工事が完成、その後1930年(昭和5年)9月以降に防火塀が建てられたとのことです。

太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)3月19日、名古屋市が最も激しい攻撃を受けた空襲で大須の町の大部分が焼失していますが、富士浅間神社の社殿は防火塀に守られて焼失を免れています。なお、この空襲において、西側の大須観音はRC造の大須文庫と鐘楼を残して焼失、南側の七寺もRC造の経蔵を残して焼失しています。

(写真)境内左手。奥が防火塀。

 

まねき稲荷の拝殿から本殿やまねき稲荷の方向を見てみると、やはり奥に防火塀のようなものが確認できます。

(写真)本殿とまねき稲荷。

 

かつて富士浅間神社の西側にはうまいもの横丁という路地があり、おでん屋、そば屋、飲み屋、天ぷら屋などが並んでいたとのことです。現在も大須観音通からは幅1m程度の路地が南に延びており、数軒の居酒屋が並んでいますが、突き当りには塀があるために仁王門通までは進めず、行き止まりとなっています。

(写真)うまいもの横丁。

(写真)うまいもの横丁の突き当りにある塀。

 

富士浅間神社の周囲には建物が密集しており、また境内西側には立ち入ることができないため、防火塀がどのように伸びているのかははっきりとはわからないのですが、推測も交えてざっくり地図化すると以下のようになります。

(写真)境内図。




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