
(写真)嘉穂劇場。
2024年(令和6年)9月、福岡県飯塚市の芝居小屋「嘉穂劇場」を訪れました。
1. 嘉穂劇場を訪れる
飯塚市は筑豊三都(飯塚・田川・直方)のひとつであり、人口12万人を有する福岡県第4の都市です。「商都飯塚」という言い回しがあるように、近代から戦後にかけて炭鉱業で栄えた筑豊における商業の中心地でした。明治・大正・戦前期には複数の芝居小屋があり、戦後には多数の映画館がありました。
嘉穂劇場は基本的に演劇の興行を行う芝居小屋でしたが、映画館名簿にも1年間だけ(1963年版)掲載されており、昭和30年代の映画黄金期には映写機とスクリーンを設置して映画上映も行っていたようです。

(写真)1960年頃の飯塚市街地における映画館。地図・空中写真閲覧サービス
1.1 嘉穂劇場の建物
熊本県山鹿市の八千代座を訪れた際には、「八千代座の開業時にはまだ山鹿に電気が通じていなかった。役者にきれいに光が当たるように、芝居小屋は南向き(入口が南、舞台が北)に建てられている」と説明されました。
その後訪れた愛媛県内子町の内子座では、「明治末期の八千代座と大正初期の内子座ではいくつかの部分が異なる。内子座は開業当初から電気を使えたし、内子座では障子に加えてガラスも用いている。枡席の座面の高さが異なる」という説明がありました。
西日本に現存する芝居小屋では、1910年(明治43年)竣工の八千代座や1916年(大正5年)竣工の内子座は南向きですが、1835年竣工の旧金毘羅大芝居や1901年(明治34年)竣工の永楽館は北向きであり、1931年(昭和6年)竣工の嘉穂劇場は東向きです。
地方都市における電気の普及は大正時代であることが多く、電気の普及以後に建てられた芝居小屋は建物の向きを重要視しなかったのかもしれませんが、これだけバラバラなのには困惑します。

(写真)東向きの嘉穂劇場。

(写真)嘉穂劇場の正面。

(写真)嘉穂劇場の敷地。
嘉穂劇場は長期休館中ですが、所有者である飯塚市によって敷地内への立ち入りが許可されており、ガラス越しに館内の様子を見ることもできます。敷物や柱などからは手入れが行き届いているのが分かります。手前にはかつて行われた興行のポスターが展示されていました。

(写真)嘉穂劇場の内部。


(左)左側階段。(右)右側階段。

(写真)ポスターの展示。

(写真)ポスターの展示。
1.2 嘉穂劇場の歴史
嘉穂劇場の前身は1922年(大正11年)1月3日に株式組織で開場した中座です。株式会社中座の社長は麻生太七であり、炭鉱事業から経営を多角化させた麻生太吉 - Wikipediaの弟です。元内閣総理大臣の麻生太郎は麻生太吉のひ孫にあたり、嘉穂劇場のすぐ近くには麻生太郎筑豊事務所がありました。
中座は1928年(昭和3年)5月23日に漏電で全焼し、1929年(昭和4年)5月1日に再建されるものの1930年(昭和5年)7月18日には台風で倒壊してしまいます。株式会社中座が解散した後、中座の支配人だった伊藤隆は個人での再建を志し、1931年(昭和6年)2月6日に建てられたのが現在の嘉穂劇場です。当時のこの地域は嘉穂郡飯塚町でした。

(写真)歴史の展示。
現存する芝居小屋の大半は株式組織であり、嘉穂劇場は開場当初から個人経営だった珍しい芝居小屋だと思われます。伊藤隆は死去する直前まで借金の返済を続け、その死後には娘の伊藤英子が経営を引き継ぎました。現存する多くの芝居小屋は昭和30年代の映画黄金期に映画館化し、映画の斜陽化とともに閉館を余儀なくされていますが、嘉穂劇場は演劇場として経営を続けたようです。
1931年(昭和6年)の開場から70年以上も伊藤家による個人経営だったというのも驚きです。伊藤英子は1989年(平成元年)に西日本文化賞を受賞、1994年(平成6年)には福岡県文化賞を受賞しています。また、1977年(昭和52年)には創思者出版から『定本 嘉穂劇場物語』が、1993年(平成5年)には西日本新聞社から『心棒ひとすじ 嘉穂劇場とともに』が刊行されています。

(写真)南側から見た建物。
2003年(平成15年)7月の豪雨によって浸水被害を受けたことを契機に、2004年(平成16年)には特定非営利活動法人(NPO法人)嘉穂劇場が設立され、開場から70年以上経って初めて個人経営から脱しました。
2021年(令和3年)にはコロナ禍の影響でNPO法人が解散し、休館した嘉穂劇場の建物は飯塚市に譲渡されました。耐震化工事の費用がネックだったようですが、2022年(令和4年)には飯塚市が実施したクラウドファンディングで5億円以上を集めており、市民側も再開場に向けた機運を高めているところのようです。

(写真)休館に関する展示。

(写真)敷地南東部の煉瓦壁。

(写真)西側から見た建物と裏口。