年末になると、気付くと目の前までやってきている馴染みのない西暦にこわごわと「なんか未来だな…」と違和感を感じるのが常なのに、年も明けて2月ともなるとすっかり「もうずっと2025ですけど?」みたいなふてぶてしい通ぶった顔で時が流れていくのはどうしたものか!そろそろ西暦どころか自分の歳すら素で間違えるくらいに時の加速が止まらず、あまりのスピードに若干置いてきぼりを食らっている最中。
毎年飽きずに言っているけれど、年末年始が大好き!1年間をいかにも総決算のように感慨深い顔で振り返っては、来たる新年に胸を膨らませて、まっさらな心持ちで肩ブンブン振り回してデカめの野望とか無理めの目標とかを設定しちゃうの、一生やりたい。
いま読んでいる小説に、「Time is moneyなんて贅沢だ、時は金より価値がある」みたいな一節が出てきて、ぎくっとして寝潰した休日の半分のことを思ったりする。今年は時間を追い越すことはできなくても横に並ぶくらいには同じ速度で生活したいなあ。ぼーっとしてもいいし、寝潰してもいいけど、目の前の瞬間を手放さずに、時の流れに敏感でいたい(と言いつつ1月の日記を書いていないことさえ忘れてもう2月も終わるね)
1月のあれこれ
お正月は食と人で満たされるべき
自分で書いておきながら一瞬「食人」に見えたけど決してカニバリズムの話ではありません。この年末年始は南米やらNYやらハワイやらに旅行に出かけている友達が多く(謎の南米率の高さ)、そうか、社会人は年末年始に帰省じゃなくて海外旅行に行くのか…とちょっぴり羨ましく思ったりもしたけれど、やっぱり年末年始は地元にいなくちゃ!と思う。家族や友達となんでもないことばかり話して笑って、ご馳走をたらふく食べては大の字で畳に寝そべり、怠惰な幸福でみちみちになっていたい。


我が家の年末年始はとにかく人が多い!というのもあるけれど、もう長らくひとりで暮らしている分余計に、人と人の共同体がひとつ屋根の下で営まれている、という感覚がなんだか新鮮に映って面白かった。隣の部屋でテレビを見ている父が、「スタイル良くて羨ましいなあ…頭ちっさくて首が長くて…」とめずらしく呟いているなと思って覗いてみたら(動物の方の)キリンのドキュメンタリーだったりした。ひとりでは得られない種類の愉快さ。
地元の友達と今でも変わらず会い続けられること、その変わらなさはわたしの喜びでもありどこか誇りでもあるような気がしていたのだけど、幼馴染との新年会で「相変わらず特に何も変わってないよ〜!」と言ったら「光はそろそろ変わってよ!!」と痛烈な指摘を受けて笑っちゃった。幼馴染は会うたびに人生が全く違う方向に急展開していて本当に話題が尽きなくて面白い。たしかに話題の供給量は天と地の差。

午後休をもぎ取って母とお出かけ
上京した母と三の丸尚蔵館へ。お正月期間の展示、宝物船!鳳凰!富士山!ととにかく端から端までおめでたいものてんこもりの大盤振る舞いで大変あっぱれであった。主催側の「縁起いいものだけを掻き集めるぜ!」という気概がビンビンに伝わってきて頭が下がる。おみくじで大吉を引くよりもよっぽど縁起が良さそう。


皇室に受け継がれた美術品を所蔵する美術館だけあって、皇族が記念に贈ったり譲ったりしている作品が多く、なんなら「お年玉としてもらった掛け軸」みたいな次元の違いすぎる背景情報が紛れ込んでいるのも面白かった。

そのまま我が家で一泊。母には、時に無理筋であっても、色んなことをポジティブに言い換えることでこちらの悩みや反省を一蹴してくれるというありがたい特性があり、今回も「ストックがあることを忘れてストックを買う」といううっかりを繰り返して4個も溜まってしまった、しかも普段あまり使わない大きなゴミ袋の山について、「一人暮らしの醍醐味だね!」と変化球で肯定してくれた。なんなら誕生日直前に美容皮膚科の予定を入れちゃって、当日顔やばいことになってるかも…というしょうもない懸念にも「ちょうどいいね、生まれ変わるってことだね!」という言葉で景色を一変させてくれて、もはや収納アドバイザー的な感じで「捉え方コンサルタント」みたいな胡散臭い肩書きを贈呈したい。
母はもう還暦間近だけれど、「自分がアップデートできていないことをすごく自覚してるから、自分が違うなと思っても、もうそういう時代なんだって思って、若い人に口を出さないで応援だけすることにした!」とか「Yahoo!ニュースを日々読んでたらだんだん自分の考え方が偏ってきた気がして読むのをやめてる」とかいったことを話していて、我が母ながら感激した。自分が生きてきた時代と違うやり方や考え方に寄り添えるかどうかということは、違和感にはいつも敏感でいながら、同時にどんなに自分にとって正しく聞こえる言い分であろうと、常に自分の側が間違っている可能性に自覚的でいれるかどうか、かもしれないなあと思った。
とはいえ、母がそう思い至ったきっかけは、兄の結婚という一大イベントに対して、母がよかれと思って兄に言った数々の呟きが知らないうちに全て実現している…!(おそらく兄夫婦の気遣いによって)ということにはたと気付いた日、無自覚だった自らの持つ影響力の大きさに愕然として猛省した結果、と聞いて笑っちゃった。母が誰かにとっての義母になる日が来るとは。そんな母の新しいライフステージへの進出を記念して「これからは為政者としての自覚を持って、トランプとか見て学んだ方がいいよ」とアドバイスしておいた。
坂本龍一展・こうふくのしま@MOT

大混雑という噂を聞いて気合を入れて平日の朝10:15くらいに行ったのに(開館は10時)、その時点でもうすんごい人人人の大群に面食らってしまい、1分くらい途方に暮れて坂本龍一さんの方向に思いを馳せた。
色々な方法で音を観る、という試み。正直、どのインスタレーションもわたしの理解度では「へえ」くらいで止まってしまったのだけれど、たくさんの情報量を浴びながら、たまに立ち止まって目を閉じて音を聞くと、大混雑の会場の中でそこにはまた違う時間が流れていて、なんだか気持ちがよかった。坂本さんが思考や探索を続けて辿り着かれた、自然への開かれ方、自然と接続すること。その遥かな高次元の視座をかなり低位置から僅かながら感じ取ることができた。もうどこにもいないのに、不在と膨大な思索の跡こそが坂本龍一という人間を際立たせていた気がする。
その後、MOTコレクションも「こうふくのしま」なる展示も見て、計3時間45分も滞在。お腹ぺっこぺこになった。こうふくのしまの方はびっくりするくらい空いていて、坂本龍一展の溢れ出る人々を勝手に移管したいくらい。


庄司朝美さんの作品がすごく印象に残った。最初は、なんだろう、たくさん顔がある!ちょっと怖い…!と引き気味だったのだが、目が離せない引力があって、ぼーっと眺めていると描かれているものとは無関係に感情が流れ込んでくる。
坂本龍一さんにとっての音楽、庄司朝美さんにとっての絵画は、世界とのつながり方というか、もはや日々の言語の代わりですらあるんだろうなあと思った。選ばれし人だ。そういえば、おふたりとも作品のタイトルは日付だった。
全体を通して、なんだかわたしの理解が及ばない=意味を汲み取れない作品が多かったな、と思った時に、ふと、そうだった、意味なんていらないんだった!ということを思い出した。働いていると、意味や内容が伴っていて正しく聞こえること・目的に対して逸れていないことを言わないといけない、という常識に慣れてしまって、発言が自分の価値をつくるし、論理や利益のない発言には罪悪感すら感じることがある。

もしかしたらアートそれ自体に意味はあんまりないのかもしれない。みんなやりたくてやってる、描きたくて描いてる、よかったら見て!って、世界を表現する手段。人に伝えたいこともあれば、自分の中の整理や欲求のためにやってる部分もあるだろうし。でも、それを見て心動かされたり救われたりする人もいるかもしれない。わたしは正直よくわからないけど、ごく稀に心動かされる作品に出会ったら嬉しいし、なんかみんなが「好きに自由に表現している」ということ、それを浴びること自体がもう嬉しいのかもしれない、とこの日気が付いた。社会や会社という枠組みにがんじがらめになっている自分を連れ出してくれる、意味なんてなくなっていい、描きたくて描いたよ!という姿勢。本当は生きるってそうだった、忘れてた!
海を見たい、人を愛したい
歌自体はそこまで好きなわけではないのだけど、「海を見たい、人を愛したい」ってなんて素敵な歌詞なのだろうと海を見るたびに思っている。東京に遊びに来た幼馴染と下北沢で遊んだ後に、車で海に連れてってくれた。彼はあまりの東京に賑わいに、「東京の犬の数と地元の人口、同じくらいじゃない…?」と大発見をなさっていた。

ストレスと疲労が閾値を越えかけていたので、「ごめん、ちょっと波の音に集中するね…」と外界を遮断する厄介な同行者となり(すまない)、ぼーっと立ったまま海の匂いや音に体内を通過させて回復に努めた。波の音が岸に寄せる音で救われる何かがある。


自転車の移動能力がわたしの生活や価値観を変えたように、車があればきっともっと素敵なんだろうな〜〜と思ったりした。でもやっぱり都会の運転は怖いなあ。
1月のベスト自炊
年始に東京に戻るときに、何度も断ったけど祖母から有無を言わさず持たされた大量のほろ柿。小さい頃から柿、特に祖母お手製で毎年大量生産されるほろ柿が苦手で、大人になってもその苦手意識は変わらないのだけど、さあこの大量の柿をどうしよう、と試しにヨーグルトに混ぜてみたらあらおいしい。味覚が大人になったのか、わたしの心が大人になったのか。
小学生の時、同級生がほろ柿が軒下に干してある光景を「オレンジ色の宝石」と題した作文で賞を取ったことがあった。わたしはその時体育館で体育座りをしていて、壇上で賞状をもらうその子を見上げながら、なんて素敵な表現をするのだろう、と静かにひたひたと感動していたことを今でも覚えている。

ひょんなことから入社以来お世話になっている、何周も年上の、本当に同じ会社で働いているとは信じられないくらいいつも優雅なマダムから、「あなたに会うたびに、豊かな果物をたくさん食べてすくすく育った人だなあ、と思っています」とおっしゃっていただいたことがある。わたしの地元のイメージからだと思うけれど、果物とは何の関係もない波乱の職場で出会っているのに、果物を想起させる自分も人を果物起点で見てるマダムも平和でおもろいな…となんだか嬉しかった。
この度そのマダムが退社されることになり、僭越ながらそのほろ柿をお渡ししたら、後日「光さんがすくすく育ったのはこういうあたたかい環境なんだなんて思いながら大切にいただきました」という素敵な返事をいただいて、祖母のおかげで数年越しの伏線回収ができた。
それはそれとして、退社祝いに自家製のほろ柿ってどうなん?とはわたしも思っている。

スーパーで目玉商品として売っていたこちらの大きな赤海老。なんと5尾で500円しないくらい。こんなにぷりっぷりで立派なのが?!東京で?!この値段で?!なんで?!と、俄には信じられず三度見くらいした。赤海老の神様とかが東京に舞い降りたとしか思えない。大興奮で買って帰って、味海苔でごはんと一緒に巻いて、かに出汁の味噌汁とつけ合わせてむしゃむしゃ食べた。甲殻類のパワーが体の隅々まで染み渡って本〜〜当においしかった。地元に海ないのに実家が見えたよね。また食べたいのにあれ以来一度も見かけない。赤海老の神様、お願いもう一度TOKYOにお恵みを…。


ふるさと納税で頼んだチーズといくらが余っていたので、基本のリゾットにトッピングして一口ごとに味変した。なんたる贅沢!もはや料理云々ではなく素材で勝っていた。
今月の映画・音楽・本など(めちゃくちゃネタバレあり)
1月はいい音楽にたくさん出会えた月でもあった。もはやどれも生活に馴染みすぎて、どのアーティストや曲と1月に出会ったのか、2月も終わる今となっては定かではない。そのなかでもTeleはよく聞いていた。新譜ではないけれど、特に「カルト」という曲がリズム、声質、メロディどれをとっても耳心地がよくて気に入っている。そういえば去年のはじめの日記にもjo0jiと出会った衝撃がしたためられていて、もちろん今でも追いかけているのだが、その時以来の出会い、という感じがする。
1月は当たり前にMOROHAもよく聞いた。特に「革命」「tomorrow」「六文律」などを流して泣きながら自転車を漕いだりしていた。そんな大ファンだったわけでもないのにおこがましいけれど、一度くらい生で見たかったなあと悔やまれる。もっと長く続けて欲しかったと思う反面、常に目の前の瞬間に自分のすべてをかけた状態でフルスロットルで走り続けるなんてこと、全力を出し尽くすからこそ、できるはずもないよなあ。
田辺マモル「プレイボーイの歌」
仲良しの友達とビール飲んでピザを食べた帰り道に「昔付き合っていた女の子との思い出とともに女の子の名前を羅列してくおすすめの歌があって…」と教えてもらった衝撃の名曲。1999年リリース、音源化もされていない。
帰りの電車でひとりでYouTubeで流しながら「ゆうこ〜〜!じゃないんだよ」とゲラゲラ笑っていたのだが、何度も繰り返し聞くうちに、懐かしいメロディ、おちゃめでリアルなエピソード、気怠い歌声とビートが癖になってきて、そして何より、終盤に差し掛かって「どうせ生まれてきたからには多くの子の人生の登場人物になりたい それがプレイボーイの願い」と言いながら全ての登場人物の女の子の名前を呼び尽くしたかと思えば、そんな自分主語の回顧が辿り着いた果ては「悲しい夜は思い出してほしい かつて君に夢中になった男がいることを」という女の子の人生へのエールだった、といういい意味で裏切られるストーリー展開に、もう完全に虜になってしまった。
本当に実話なのか気になっていたら、友達が「実際に起きたことしか書けないって言ってたよ」とマモル情報を教えてくれて、マモル全部赤裸々にしゃべりすぎだって…と愛さざるを得ない。結婚を機に表舞台から退いていたらしいのだが、最近数十年ぶり?に舞台に立ったということで、友達はそのライブも見に行っていて羨ましいかぎり。YouTubeには最近のマモルの日記みたいな弾き語りがたくさんアップされていてそれもまた熱い。
ホールドオーバーズ vs リアルペイン


年明け一発目に配信で見た「ホールドオーバーズ」と最近映画館に見に行った「リアルペイン」。どちらも、それぞれに痛みを抱えた人たちが、同じ時間(「ホールドオーバーズ」はホリデーの居残り、「リアルペイン」は旅)を過ごすことで、分かり合えなさを抱えながらも脆くて確かな信頼やつながりを築いていく、というストーリーで、示し合わせたように共通点が多いことに驚いてしまった。時代の要請なのだろうか。
それ以上に驚いたのは、たくさんの共通点を持ちながらも、それぞれ正反対の描き方がなされていたこと。「ホールドオーバーズ」は、いくらでもドラマチックにお膳立てできるところをあえてそうしない、出会えてよかったとかありがとうとか簡単に言わせない、絞り出した少ない言葉や表情や握手が何よりも雄弁に語るような、潔い沈黙にかなりぐっとくる映画だった。言葉を削って削って、なんなら適量以下まで削ぎ落とすという覚悟。
一方「リアルペイン」では、まあみんな喋る喋る!衝突やなんてことない会話も含め、とにかくみんな言葉にしまくっていて、数年前に母から実際に言われた衝撃の言葉「頑張っていっぱいお喋りしてて可愛いね」を捧げたいくらいだった。でも、それが悪いということでは決してなく、それだけ言葉を尽くしても上滑りする感覚や、自分でもどうしようもできない相反する感情に戸惑う姿とか、わかるよ、と言いたくなる痛みがたくさんあった。愛してるし、憎んでるし、生まれ変わったらあいつになりたい、という全てが両立しうる思いの大きさ。沈黙と饒舌で対になる、どちらもとてもいい映画だった。
そういえば、友達が夏に「あの映画よかったよ、オールオーバードーズってやつ…」とおすすめしてくれた全員ジャンキー映画、多分これです。
