ダントーの「アートワールド」は芸術制度のことではないというのを、人に説明しようと思って、ダントーのテキストについてまとめていた。
実際ダントーの立場を説明しようと思うと、いろいろ大変なのだが、ダントーの「アートワールド」が制度ではないというのは、簡単に言える。本人が『ありふれたものの変容』の序文で否定しているからだ。そこで、ダントーは「アートワールド」という論文から芸術の制度説という立場が生まれたことについて、以下のようにコメントしている。
くわえて、「アートワールド」の分析の土台のうえに、芸術の制度説と呼ばれるものを打ち立てた人びとにも感謝している。たとえその説自体は私の考えとかけ離れたものであろうとも。viii
ダントーによれば、人々は「アートワールド」論文を元に、芸術の制度説を考案したが、それは「私の考えとかけ離れたもの」だった。これを見ればわかるようにダントーを制度説と見るのは、英語圏でもありふれた誤解なのだが、本人がはっきりと否定しているので、この解釈を支持する余地はないと思う。芸術の定義に関する制度説にヒントを与えたとは言える。
ダントーの立場は?
ではダントーの立場は何だったのか。実はここがかなり難しい。ダントーが何を言っているのかよくわからなかったために多くの人はそれを制度説と誤解したのである。以下邦訳を参照しつつ、ダントーの「アートワールド」について説明しよう。本当はダントーの立場を知るには、『ありふれたものの変容』にも触れた方が良いと思われるが、そこまでやると長くなりすぎるので、いったん「アートワールド」だけをまとめる。
もっとテキストに即したまとめとしては、neteneteさんによる以下のエントリを参照してほしい。私はかなりざっくりと自分の解釈を混じえて説明する。
ダントー「アートワールド」の要約——分析美学基本論文集① - netenete.
ダントーの「アートワールド」が難しい理由のひとつは、まず、問題設定がよくわからないという部分にある。この論文でダントーは、芸術の定義について正面から問うているわけではなく、「芸術的同定のis」という(よくわからない)ものについて論じている。
詳しい検討は避け、私の解釈を書くと、ダントーのいう「芸術的同定のis」とは「見立て」のことである。「芸術的同定のis」についてダントーは詳しく説明しておらず、例をあげているだけだが、あげられている事例は、「リンゴの絵をリンゴと見る」、「俳優をリア王と見る」というものである。これを日本語で一語であらわすなら「見立て」だろう*1。
ダントーの論文では、はっきり述べられていないが、「見立てが芸術の核にある」という立場を念頭においており、この立場を、現代芸術と突き合わせて検討しようとしているように見える。
なぜ、これを現代芸術と突き合わせる必要があるかというと、現代芸術においては、見立てがあるのかないのかよくわからないからである。ラウシェンバーグとオルデンバーグは本物のベッドを芸術作品として提示しており、ウォーホルは「ブリロ」の包装箱を芸術作品として提示する。純粋抽象画家は単色で塗ったキャンバスを芸術作品として提示している。ここにおいて、何が何に見立てられているのか?
だが、ダントーによれば、そこにもまた見立ては存在するのである。
〈芸術を知らず、単に絵具しか見ることができない人〉と、〈純粋抽象画家〉について考えよう。この両者はどちらも、白と黒の絵具が塗られたキャンバスを見て、「これは白と黒の絵具であり、それ以上のものではない」と言う。だが、前者と後者は違う、とダントーは主張する。後者の人々は、「絵具を他のものとして見る」という段階を通過したあと、「絵具を絵具として見る」という見立てを行なっているのだ。
何だか禅問答のようだが、実はこれは本当の禅問答で、ダントーはこの箇所である禅僧のテキストを引いている。
わたしがこの三〇年間の禅の修行にはいるまえには 、わたしは山を山と見 、水を水と見ていた。わたしがいっそう内密な知識にいたったとき、わたしは、いままで見ていた山が山ではなく、水は水ではないと見る地点に立ちいたった。しかしいまやわたしは、まさにことの実体を体得したのであるから、わたしは安んじていられる。というのもわたしはいまやふたたび、ただただ山を山と見、水を水と見るのであるから。 邦訳p. 22
禅の修行のおかげで、一周まわって山が山に見えるようになったというのである。日本の読者は中島敦の「名人伝」を参照すると良いかもしれない。「名人伝」では、弓の達人が弓をきわめたあげく、弓矢なしで射を行なう。いわゆる「不射之射」である。これにならって言えば、ダントーは「不見立ての見立て」について述べているのである。
ダントーが持ち出す「アートワールド」は、実はこの箇所で出てくる。この「不見立ての見立て」を可能にするものがアートワールドである。
あるものを芸術と見ることは、眼が見分けることのできないあるものを要求する——それは、芸術理論のある雰囲気であり、芸術の歴史についてのある知識であり、つまりは、あるアートワールドである。 邦訳pp. 22-23
正直に言うと、わたしはダントーの言っていることがただの妄言なのか、それとも深い何かなのか判断しかねており、まじめに解説するのも若干ためらわれるのだが、ダントーは次のように言っている。
抽象画家は一周回って「絵具を絵具として見る」境地に到達した。それは禅僧の修行のようなものであり、普通の〈絵具を絵具として見る〉とは違うのである。では抽象画家の〈絵具を絵具として見る〉の何が違うかというと、「芸術理論のある雰囲気(atmosphere)」だと言っているのである。ダントーが「アートワールド」と呼ぶのはこの「芸術理論のある雰囲気(atmosphere)」のことである。ちなみにダントーは、この「芸術理論のある雰囲気」についてこれ以上何も説明しようとはしない。
制度説との違い
ダントーの「アートワールド」が何なのかをひとことでいうと「芸術理論のある雰囲気であり、芸術の歴史についてのある知識」である。これは少なくとも「業界」とか「慣習」のことではない。ここはまず、制度説と明確に違う。
また、ダントーは「アートワールド」の中で、芸術を直接定義しようとしているわけではない。そうではなく、「普通の〈絵具を絵具として見る〉」と「抽象画家の〈絵具を絵具として見る〉」は何が違うのかという問題に答えている。言い換えれば、「何が「芸術的同定のis」を可能にしているのか?」という問題を考えたのである。
悪意をもってまとめるなら「ダントーは芸術の制度説について論じたわけではなく、もっとずっとばかばかしいことを論じたのである」ということも可能かもしれない。正直に言うと、私はダントーが何をしたかったのか、心の底からはピンときていない。何か奇妙な問いを立てて、奇妙な仕方でそれに答えたということがわかるだけだ。しかし、少なくとも「制度によって芸術を定義した」わけではないのは確かであり、ひょっとするとそこでは何か重要な問題が論じられているのかもしれない。私は単に「制度によって芸術を定義する」よりもずっと奇妙なことが行なわれているのだという事実に注意を向けたいだけである。
なお本エントリで説明したのは、「アートワールド」の3節までの話であり、「アートワールド」の後半では(少なくとも直接的には関係ない)別の話が展開されていたりする。