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『恐竜戦隊ジュウレンジャー』を観た

スーパー戦隊シリーズ50周年を記念して勝手にスタートした制覇企画、第16弾である。

 

若き才能が結集した情熱でもって「戦うトレンディドラマ」と称されるにふさわしい作品となり、シリーズの裾野をこれでもかと広げた『鳥人戦隊ジェットマン』。

 

それを踏まえて『恐竜戦隊ジュウレンジャー』ではどのような物語が描かれ、またそれが平成生まれのヒーロー好きの目にはどのように映ったのか、その率直な感想を記していく。

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脱却を可能にする「神の一手」

言わずもがな『恐竜戦隊ジュウレンジャー』は恐竜をモチーフとしたシリーズ史上初の戦隊である。『爆竜戦隊アバレンジャー』『獣電戦隊キョウリュウジャー』『騎士竜戦隊リュウソウジャー』と続く定番モチーフの元祖として、ようやくここまで辿り着いたか、という感慨深さがあった。

 

それだけではない。シリーズ制覇企画の醍醐味としてこれまで数回言及してきた「科学」からの脱却が遂に実現したのが『恐竜戦隊ジュウレンジャー』だった。戦士というメンバーの設定は『超新星フラッシュマン』で、ファンタジー要素は『高速戦隊ターボレンジャー』で徐々に開かれていた道。その道を猛然と走り抜けた、そういった印象だ。

大獣神、怒る! <2-6T2>

大獣神、怒る! <2-6T2>

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小説『ジュラシック・パーク』のベストセラーや、もはやそっちの方が有名なスピルバーグ監督による同名映画の制作決定なども追い風となっただろう。だがやはり、『鳥人戦隊ジェットマン』でシリーズにおける突飛なアイデアの受け皿が飛躍的に大きくなったことが一番の要因だったよう感じた。

 

東映の歴史は、すなわち「そうはならんやろ」を「なっとるやろがい」で納得させてきた歴史であることは度々言ってきた。それが「古代の生き物である恐竜と人類が共存していて」「恐竜は人類にとって神のような存在であり」「その神たる恐竜が人類の戦士に戦う力を与える」という何重もの「そうはならんやろ」を「まぁ、そういうもんか」とさせてしまうパワーをとうとう手にしてしまった。

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その最たるものが守護獣、および大獣神をはじめとしたロボである。ロボと便宜上呼ぶのが伝わりやすいからそう言うが、もはや大獣神は生命体を超えて神である。ジュウレンジャー達と意思疎通をするだけではなく、神として試練すら与えるようになった恐竜たちは操作されるだけのメカではない。『バトルフィーバーJ』で初登場して以来、シリーズ一番の目玉として重視されてきたロボという科学は、神という形をとることでその格を落とすことなく科学から脱却した。

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もう一つ。これまでウルトラマンシリーズにおける怪獣と結び付けられることで不当に「悪役」のイメージを植え付けられてきた恐竜もまた、その理不尽で強固なレッテルからの脱却を成し遂げたらしい。『アバレンジャー』世代の人間として、既に恐竜はカッコよくて強くて、それでいて「人間の味方」だった。確かに実際に居たら怖いけど。だからこの視点は新鮮だった。

 

アバレンジャー』以降の恐竜は人語を話す/話さない、戦士たちと対等/格上というような要素の組み合わせによって様々な表情を見せてきたが、人間を介さない限り敵になることはなかった。『リュウソウジャー』では地元のツレくらいフランクな関係性を築いていたが、『ジュウレンジャー』の時代ではそんなことはできなかったのかもしれない。その強大な力でもって戦士たちを守り、また厳しく鍛える「神」という絶妙なバランスで始まったからこそ、恐竜はいつまでも味のするモチーフとしてスーパー戦隊シリーズを盛り上げてきたのかもしれない。

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我が友、守護獣よ! (UN-EDIT VERSION) <M2-4A,M2-4Bリテイク,M2-5T3>

我が友、守護獣よ! (UN-EDIT VERSION)

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死ぬヒーロー、死なない悪役

追加戦士が初めて登場したのが『恐竜戦隊ジュウレンジャー』におけるドラゴンレンジャーであることはよく知られているが、たとえば『光戦隊マスクマン』のX1マスクや、『ジェットマン』で別次元で戦う戦士たちの描写などからも、「悪と戦う者たちが他にもいる」というアイデア、およびその裏に流れていたのかもしれない「戦隊ヒーロー=5人」というイメージの破壊がここへきて実を結んだと思うと、果たして初めてと言っていいのか、とすら感じてしまう。

 

後からメンバー入りしてきて正式にチームに入るのは『ジャッカー電撃隊』におけるビッグワンにまで遡るが、あくまで元々4人だったチームに加入したビッグワンとドラゴンレンジャーではイメージの破壊への貢献度がやはり違うのだろう。『秘密戦隊ゴレンジャー』で作り上げられた「戦隊ヒーロー=5人」のイメージのあまりの強固さに「4」を「5」にするしかなかった『ジャッカー』と、その強固な「5」を「6」に拡張した『恐竜戦隊ジュウレンジャー』。後のドラマ的広がりへの貢献度も含めて、初めての追加戦士という肩書には納得できる。

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惜しむらくはそのドラマが制限されまくっていたことだ。他の戦士との交流は義弟のレッドに絞られ、登場時間も残り僅かな命のために少しだけ。「正式にチームに入る」と書いた手前、本当にそう言っていいのか迷うほどには出番を意識的に抑えられていたように感じる。ビッグワンが「全部お前でええやん」となってしまったことをよほど重く受け止めていたのかもしれない。

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次回予告でネタバレしてしまう死亡という結末を迎えるにまで至る悲しき最期が描かれ、存在感は抜群だったからこそ、評判が上々であったにもかかわらず命が残り少ないという展開にしたところに「続けるための狂気」が垣間見えた。生きていてほしい。そういう視聴者の願望が叶わない、かもしれない。だから観続ける。愛されるキャラクターになると確信していないとこの血も涙もない判断は下せないだろう。

 

その一方で、キャラクターを愛してしまったが故に生かされたということも同時に起こった、かもしれない。今作の悪役・バンドーラ一味は、その悪事の元凶である大サタンと利用されたカイが撃破されたに留まり、残りの初期メンバーは再封印という形で生きながらえるという、悪役としては初めての結末を迎えることになった。

 

科学戦隊ダイナマン』以降始まった悪役側のドラマが、ここでまた一つ新たな選択肢を得るに至った。悪は滅びるという、ヒーローもの・勧善懲悪ものにおける絶対的ルールの否定。この選択を助けたのはやはり、『電子戦隊デンジマン』『太陽戦隊サンバルカン』で魅力的なキャラクターを演じ、ヒーローものにおける悪役そのものの地位向上に大きな貢献をした名女優・曽我町子さんへの感謝だろう。

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悪役でありながら同胞を「我が子」と呼び、それを失うことに対する悲しみに暮れるという、曾我町子さんだからこそ説得力を持つ描写は先の記事でも触れたとおりだが、バンドーラ一味もその圧倒的な包容力でもって歴代の戦隊敵組織の中でもかなり良好な関係性で成り立っている。終盤の展開も曾我町子さんの「母性」にかなり頼っており、そのおかげで悪が滅びず仲良く封印されるという「そうはならんやろ」を実現させた。

 

こういった展開を東映が選んだことをチャレンジと捉えるか、はたまたヌルくなったと感じるかは意見が分かれるところだろうが、愛には勝てなかった、その一点で私は納得できてしまう。

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王道ヒーローとマニアの宿命

恐竜戦隊ジュウレンジャー』はこれらの新機軸を戦隊シリーズに打ち立て、玩具やキャラクターがちびっ子にめちゃくちゃウケたらしい。ファンタジー要素やRPGゲームを彷彿とさせる展開、そして何よりロマンの塊、恐竜。ワクワクしないわけがない。

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一方で、マニアからのウケは芳しくなかったようだ。実際時系列でスーパー戦隊シリーズの変遷を追ってきた身として、『恐竜戦隊ジュウレンジャー』はハッキリと子供向けに振り切ったという印象が強く、相対的に我々マニアが唸るような攻めた作品にはなっていなかったと言わざるを得ない。

 

自らの視点にちびっ子の純粋さが少しづつ失われかけている恐怖を感じた。

 

たとえ大人向けの高価ななりきり玩具が発売されようと、成長した人々に向けてアニバーサリー作品やイベントが企画されようと、東映が「ジャリ番」と揶揄されてきた過去からどれだけ抗おうと、ヒーロー番組は「子ども番組」なのであって、ちびっ子が楽しめなければ意味が無い。

 

そういう点では『恐竜戦隊ジュウレンジャー』は大成功だろう。もちろん後年にカッコよさと大人の観賞にも耐えうるドラマ性を驚異的なバランスで成立させた作品はドンドン登場してくるのだが、『ジェットマン』で獲得した大人の視聴者層を改めて篩にかけるかのような子ども向けへのシフトは英断と言えよう。

 

正直あんまり面白くなかった。というか、子どもの時に観ていた頃の雰囲気になっていたから、知ってるやつすぎて驚きが少なかったという表現が正しいのかもしれない。それでもやっぱり、終盤にジュウレンジャー達が騙された一般市民から不本意な悪意を向けられ、石を投げられるシーンは胸がキュッとなった。

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復活の一族 <M1-1 (テンポ早め) ,M6-15C,M8-12,M4-9,M8-6>

復活の一族

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王道のヒーローを描くにあたって、その王道性を更に強めるために「愚かな人類」を登場させるのはあるあるだが、意外や意外、スーパー戦隊シリーズにおいては『恐竜戦隊ジュウレンジャー』が初出だった。いや、トラブルを起こして助けてもらっている中で大概なのだが、あろうことか救われてきたヒーローに向かって石を投げる、そのベクトルの愚かさが初めてだった。

 

近年では『爆上戦隊ブンブンジャー』でも採用された「愚かな人類」の展開は、「人を救うことが信条のヒーローが、救ってきたはずの相手から敵意を向けられ、それでもなお自らの善に基づいて相手を救う」という、ヒーローの根源を照らすために幾度となく用いられてきた。いや、擦られ続けてきたという表現が伝わりやすいだろうか。だからこそ「王道」と称されるようなヒーローにふさわしい。

 

「何年経っても似たようなこと続けてばっかりじゃないか」「新しいことをやらないとつまらない」。いくら「続けるための狂気」を評価してきても、これはあくまで大人の論理なのだ。その日その時、初めて「戦隊もの」に触れるちびっ子が、必ずどこかにいる。だから毎回同じことをやっても、結局のところそれは「新鮮」であるはずなのだ。救われてきたはずのヒーローに自らが石を投げそうになっていた。

 

もっともっと冒険していけばいいんだと思う。石を探して下を見るより、星を探して上を見ていたい。

 

それが五つも並んで輝いていたとしたら、思い出すかもしれない、あの頃のワクワクを。

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前作『鳥人戦隊ジェットマン』の感想はこちらから↓↓↓

amecomihighschool.hatenablog.com

 




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